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映画「May December」はマインドサスペンス!?&児童性虐待の心理

前記事でパトリシア・ハイスミスについて書きました。
その関心を維持して過ごしていた今日この頃、ハイスミスの自伝的映画「キャロル」を監督したTodd Haynesトッド・ヘインズの新作
「May December」に行きついたのでした。

ということで、今記事ではこの映画「May December」について、勝手に紹介というか、事前情報として調べたところを書いてみたいと思います。

日本では2024年5月20日公開。


あらすじ

女優のエリザベス・ベリー(ナタリー・ポートマン)は、次作における役作りリサーチの為、ジョージア州サバナにあるグレイシー・アサートン・ヨー(ジュリアン・ムーア)の家を訪れる。
グレイシーは23年前、36歳の時に、ペットショップで一緒に働いていた、息子と同い年である13歳の韓国系の少年ジョーと関係を持ち、一躍スキャンダルになった人物。彼女はその後収監され、収監中にジョーとの間の娘、オナーを出産する。前夫とは別れ、出所後にジョーと結婚し、その後、双子であるメアリーとチャーリーを産む。双子の高校の卒業式が近づく中、エリザベスはグレイシーを始め、その家族、元夫と息子、彼女の周りの人物達に話を訊き、グレイシーとはどういう人物かを掴もうとするが…。

36歳の主婦が13歳の少年に手を出して…それは児童レイプなのか純愛なのか?確かアメリカでも実際に起こってスキャンダルになった事件を聞いたことあるという方も多いのでは?仰天ニュースやアンビリバボーでも紹介していた気がします。


モデルになった事件

映画の中で出てくるグレイシーとジョーの関係は、メアリー・ケイ・ルトーノーという女性教師が、ヴィリ・フアラアウというサモア系の生徒である少年と関係をもった話がモデルになっています。

<事件の概略>
最初に出会った時はヴィリが8歳(2年生)の時で、6年生の時に再び担任になり、13歳の夏に性的関係を持って児童レイプ罪で捕まる。その翌年1997年に娘を出産。
当初はまだ世間的には同情的だったが、仮釈放中に約束を破り、再びヴィリとカーセックスしているところを捕まる。さらには海外逃亡を企てており、懲役7年の実刑。しかしまた妊娠しており獄中で二人目の娘を出産。
その後、仮出所し、23歳のヴィリと結婚。

その後のこの二人の関係も興味深い部分があります。
しかし映画の結末に関連しないこともないので、この記事の後半「その後のメアリー・ケイ・ルトーノー」で記します。
(目次で飛んでいただくと、映画の余計なネタバレ部分に触れずに済むのでおススメです)

映画あるスキャンダルについての覚え書き (Notes on a Scandal)」でもモチーフになっています。

この映画はより当時の事件を直接描いたような感じでしょうか?
二つの映画で彼女の描き方がどう違うのかも見比べてみたいところです。
なによりこれまたケイト・ブランシェットが出ている。トッド・ヘインズも「キャロル」で組んでいたからジュリアン・ムーアより先に彼女が浮かんだかもしれない。だけどもうやってたぁ~って感じだったかもですねw。


タイトル「May December」の意味

最初はちっとも何の意味か分かりませんでした。
調べてみると、「May December」で、親子ほど年齢の開きがある年の差婚、年の差カップルの関係を意味する表現だということがわかりました。(アメリカ表現で、イギリスでは殆ど使われないそう)

由来は、「Knickerbocker Holiday」という1938年のミュージカルの為に書かれた、Maxwell Anderson作詞 Kurt Weill作曲の「September Song」という曲。今やポピュラーソングのスタンダードで、多くの歌手によって歌われている。

その中の歌詞、
"It's a long, long time from May to December"
から。
人生をカレンダーの月になぞらえ、それを実りの時期の9月に、その長さについて歌っている。ということで5月は思春期頃、12月は亡くなる頃ということでしょうか?それくらいの年の差。

あと監督が言うには、映画内の季節も、5月の最終月曜日メモリアルデイ(戦没将兵追悼記念日)から始まって、高校の卒業式がある6月初旬で終わる。それが実際の5月から12月とは重なってはないけど、卒業して子供たちが巣立ちする。家の中が空っぽになる。その感じが12月の空っぽの巣がある時期とも似ているので、その数週間を5月~12月と表現しているということのようです。


「May December」に影響を与えている作品

まずは監督トッド・ヘインズが語っている6つの作品。


「Persona」仮面/ペルソナ(1966) 監督イングマール・ベルイマン

女優と看護師、似ている二人の女性の人格が交錯するような話。鏡のシーンが「May December」でも出てくる。

「Sunset Boulevard」サンセット大通り (1950)監督 ビリー・ワイルダー

往年の大女優と若手脚本家の関係を描いた作品。年増女と若い男という点でこの映画が浮かんだとか。あと女優が出てくるという点も。

「The Go-Between」恋 (1971) 監督ジョゼフ・ロージー

再構築、再アレンジを加えているが、この映画の音楽をメインテーマとして使っている。映画は、少年レオが友人の美人な姉マリアンに憧れつつ、彼女と小作人のテッドとの恋の橋渡しをする話。ここでも少年と年上女性の関係はある。

「The Graduate」卒業 (1967)監督マイク・ニコルズ

 言わずと知れたダスティン・ホフマン主演で、花嫁を奪い去るラストシーンで有名。主人公がガールフレンドの母親と関係を持っている点と、カット割りでサスペンスやコメディの要素を演出している所も参考にしている。

「Manhattan」マンハッタン  (1979) 監督ウディ・アレン

ライターのアイザック42歳は、17歳のトレーシーと付き合っている。そこに友人エール夫婦と愛人が関わって繰り広げられる物語。ウディ・アレンのペド傾向(実生活でも養子と結婚した)を知った上で「May December」と比較すると興味深いかも。この映画のディレクションの手法にも影響を受けている。

 「Sunday Bloody Sunday」日曜日は別れの時 (1971) 監督ジョン・シュレシンジャー

この映画も年の差関係を扱っている。年増女と青年、年増男と青年の三角関係。最後にメインキャラクターが対面する場面も「May December」に影響を与えているそう。


あとWikiには、ペルソナと同じイングマール・ベルイマン監督の Winter Light 冬の光」 (1963)も書かれていました。コチラは牧師の信仰への苦悩を描いた映画っぽいので、それほどプロット自体には関係は無いようですが、エリザベスのモノローグの部分に関連があるそうです。

私的には、エリザベスが鏡を見ながらグレイシーを真似るシーンとかは、やはり最近観ただけに「太陽がいっぱい」「リプリー」のシーンを彷彿とさせますし、女性がもう一人の女性に成り代わっていくサスペンス的な感じは「ルームメイト」ですかね?
女優が真似して成り代わっていくというなら、古い映画だけど「イヴの総て」なんかも要素はある。
女優が憑依していく系の映画は他にも色々あると思うけど、やはりナタリー・ポートマンの「ブラック・スワン」も思い浮かびます。主人公と代役のバレリーナ、白鳥と黒鳥の人格が交錯する。そしても多用されてましたし。

「May December」の鏡シーン (François Duhamel / Cannes Film Festival)

「May December」でも鏡越しのシーンが何回か出てくる。鏡を通して相手の心の中を覗こうとする感じ。鏡越しの駆け引き。鏡というアイテムは1人で映っていても二面性、多面性を表すのに効果的なアイテムですね。


ナタリー・ポートマンが演る意味

この映画「May December」でナタリー・ポートマンが小児性愛者の罪に問われた女性の本質に迫るという構図は非常に興味深い。

それというのも、最近(といっても、もう結構前からの気がするけど)ナタリーが出世作の「レオン」について、その小児性愛的な要素を批判的に発言しているからです。

ここで「レオン」の小児性愛的問題について簡単に説明しておくと、
映画は殺し屋レオンと、家族を殺された12歳の少女マチルダの物語。

映画内でマチルダがレオンを誘惑したり、セックスを求めるような描写もあり(完全版だとハッキリ言ってるらしい)、少女を性的対象として見せようとしている部分に対して、時代の変化とともに徐々に批判の声が大きくなってきている。

監督のリュック・ベッソンはレオン撮影時に15歳のモデルMaïwenn Bescoと交際していて(ベッソンは当時32歳)、彼女が16歳で結婚出産までしている。
ベッソンは彼女の前に映画「ニキータ」の主役Anne Parillaudアンヌ・パリローと結婚しており、その後も「The Fifth Element」で主役にしたミラ・ジョボビッチとも結婚離婚をしている。主演俳優に手を出す監督という印象は否めない。確か、「WASABI」で主演にした広末涼子となんちゃらという噂もあったはず。

そしてポートマンは次に「Beautiful Girls」という映画に出る。そこでも30半ばのティモシー・ハットン演じる主人公に、淡い恋心を抱き告白する13歳の少女の役で出演している。

その後、映画「ロリータ」への出演オファーもあったが、それは断る。
もう業界全体で、ナタリーを”少女のセックスシンボル”にしようと策略しているかのよう。

実際に最初に貰ったファンレターがレイプ願望を綴ったものだったそうだし(怖ッ!!)、ラジオ局も彼女の18歳になるカウントダウンをして、法的に性交がOKになる瞬間を祝うようなこともしていたんだとか(キモッ!)。

しかし2009年にはロマン・ポランスキー(これまた少女レイプの罪に問われてる監督)の嘆願書に賛同するサインするなど、まだそこまで業界の姿勢に疑問を持っていなかった模様。しかし2018年にはそれを後悔していて、2017年の#Me too運動以降に意識が大きく変わっていき、未成年への性搾取に対する批判的な意見も表明するようになってきたようです。レオンに対する批判記事もその頃から増えている。

この記事にもあるように、

「自分を守るためにラブシーンやセックスシーンのある役を断るようになった」と語っている。「『そんな風に見られるのは嫌だ』という感じだった。そう見られるのは、弱い立場であると同時に尊敬に値しない立場に置かれたように感じたから」と語っている。

さらには上記事にあるように、自分を守るために優等生イメージも作っていったと。実際にハーバード卒業してるから頭もいいのは間違いないのですけどね。

そしてたまたま見つけた、ナタリーとブリトニー・スピアーズの記事も興味深いです。
二人が同い年で、二人とも有名になる前、ブロードウェーミュージカル「Ruthless」の主役の控え子役だったという共通点があったそう。
(ナタリーのレオンのヒットの方が先だし(フランス映画だからあまりアメリカっぽいイメージがなかった)、ブリトニーは歌手のイメージが強いから、この二人が同い年で小さい時からショービジネスに関わってきた共通点があったと、結びつけることがなかったのでヘエ~と驚きました)

ブリトニーも「...Baby One More Time」で出てきたとき、

このフワフワした髪飾りつけた三つ編みとか、12歳や13歳ほど少女じゃないけど、明らかにロリータ趣味のスタイリングでセックスアピールして売り出してるな~とは思ったものです。当時で16歳ぐらいでしたっけ?
で、歌手という属性ゆえ、華やかな衣装、セクシーな衣装は避けられず、セックスシンボルとして扱われるようになる。結局消費されつくした後、奇行が報道され、頭のおかしい女的レッテルを貼られるようになったように思う。

日本でもプッツン女優とかと言って、昔なら藤谷美和子とか石原真理子(真理絵?)、島田陽子なんかもそうかな?は、殊更奇行を取り上げられてドンドン干されていくというパターンがよくある。こういうのって、裏で男による過酷な性的搾取があって、それで精神が破綻した結果じゃないの?っていつも思うんですよね。

ブリトニーが見栄え重視で格下っぽい男とばかり結婚離婚を繰り返すのも、潜在的に男を性的に消費して、どこかで復讐しようとする心理的渇望が働いているのかな~?と思ったりします。

一方のナタリーは、過剰に消費されることは回避できたのかもしれませんし、奇行で干されるようなこともなかったです。一応、幸せな結婚も出来たかのようでしたが…今年2023年前半に、夫ベンジャミン・ミルピエの不倫報道が出ました。46歳のミルピエに対して、相手は25歳の気候活動家。成人してるけど年の差は大きい。「May December」の撮影は昨年後半のようですけど、撮影時に夫の不倫を知っていたなら、そりゃまあ複雑な心境であったろうと察します。小児性愛とは違うといえども、圧倒的な”年の差”というのはこの映画の重要なテーマのひとつですから。

ということで、ナタリーを取り巻く背景を知ったメタ的視点を持ちつつ、「May December」の小児性愛、年の差カップルの関係性を見つめると、より重層的に色々なことを考えるきっかけになるのではないかと思うわけです。


児童性虐待の構造

ここでまず、小児性愛者についてもう一度考えてみます。
小児性愛者、ペドフィリアとも最近は言われるようになってきましたが、wikiを読んでいると、ある重要な線引きが自分の中から最近スパッと抜け落ちていたことに気が付きました。
それは幼児に性的欲情を持つのと性的虐待をするはイコールではないということ。

では、あなたは子供にエロスを感じないのか?と言われれば、どう答えますか?私は100%無いとは言えません。それは生き物である以上、生殖とはどこかで結びついているからです。まあエロスの要素を認識することと、欲情=セックスしたいと思うのは随分隔たりがあるとは思いますが。私はエロスの要素は認識しますが、セックスしたいとは思いません。そこは自分の中でハッキリした線引きがあります。成熟した体というか、大人として発達した体の方がよりエロスを感じる人間ですので。

最近たまたま観た動画ですが、この方たちは手塚治虫が最もエロいマンガ家の一人だと熱弁されています。私もそれはずっと思ってきたし、手塚漫画を知っている世代にとってはある意味での共通認識と言っていい。

イタコ漫画家の田中圭一氏のツイートか何かで、手塚先生の「ワンダー3」に出てくるボッコ隊長(女の子のウサギキャラ)に子供心にエロスを感じたと仰っていた記憶があります。
ボッコ隊長のように今で言うケモキャラへのエロスも、人間昆虫記でとエロスを繋げたり、火の鳥とかでは鳥の擬人化みたいなものにもエロスを表現していたように思う。つまり生きとし生けるものすべてにエロスを見出していた。そういう場合、幼児にもエロスを感じないわけがない。メルモちゃんだって子供が観てたってエロス的メッセージを受け取っていただろうし、ブラックジャックのピノコにも妙に色っぽさ、女を演出してエロスなメッセージを発していた時もある。

つまり幼児、子供にだってエロスはあると世間に向けて提示してきた作家。そして強弱はあると言え、そのメッセージを受け取ってきた世代、その世代が作ってきた文化を享受してきた日本人には、多かれ少なかれ「子供にだってエロはある」と認識していると思う。←私はそういう世代なので、先述したように、どういうものにもエロスは存在すると思っているわけです。

別に手塚先生に言われなくても人間の長い文化の中でずっと行われてきたことなので、ある種、人間の根源的な部分でもあるのでしょう。西洋絵画、宗教画でキリストが十字架で槍に突かれて血を流している絵画に欲情するという話も聞いたことがあります。生死は「性」に繋がるんですよね。西洋絵画の天使も福々しくて生の象徴。その天使を連想するアルターボーイに神父たちが手を出してきたのも、日本の僧が稚児灌頂でお稚児さんを仏に見立てて交わってきたのも、そこにエロを見出してきたからでしょう。

ただ手塚先生の影響でひとつ特徴的なのは、そのどんなものにもエロスを見出す目、そしてそれを肯定とまでは言わないが、そういう目で見ていいんだという認識を、マンガという媒体を通して子供たち、脳の形成段階にあって大きく影響を受けるときに晒してしまったというのは、気になる点です。これが日本のロリコン、ショタコンに大きく影響を与えたのではないか?という研究があったりしないのかな?関連が無くはないと思うんですけどね。小さい時から子供をエロい目で見ることを養われるんだから。
(それが証明されたら、子供が出てくる手塚作品が極端なポリコレによってペドフィリア思想を広めてる悪書として発禁処分に…、いや手塚以降の全ての子供が出てくるマンガでエロを感じられると判断されたものは発禁処分になりかねない!?さすがにそこまで極端になることは無いと思いますが…)

コチラの記事では小児性加害者のマインドを知ることができる内容があって結構ハッとさせられました。

彼らが児童ポルノが実際の犯罪への抑止力になると主張しているという部分。私もそういう効果はあるんだと思っていました。現実の子供の写真や動画は完全にダメだけど、創作物で我慢できるならなんとかそれで我慢しておいてくださいと。しかし記事内の専門家は、やはりそれは認知を歪めて、OKサインを受け取ってしまうことになると仰っている(←上述した手塚漫画からのOKサインと構造は一緒ですよね)。かといって既に存在する欲望を脳から消すことも難しいだろうし、どう折り合いを付けるべきなのか、考えさせられる所です。メディア規制で流布を止めれば小児性愛者の割合は確実に下がるのなら、将来的に苦しむ加害者(被害者は勿論)を減らす為にも必要なのかもしれません。「悪」とみなされるものの種を脳に植え付けないってことは、それですべて解決しないのは確かだけど、一定の効果はあるはず。特に影響を受けやすい人ほど顕著に。メディアの煽りで自分の想像範囲以外のことまで教えられるとエスカレートする場合ってあると思う。

アッ、少し話が逸れてしまいましたが、つまり言いたいのは子供にエロスを感じる人は普通に沢山いるだろうことと、そのエロスの感じ方もグラデーションで強弱があり、キッチリした線引きなど難しいということです。

そしてその欲望が強いからと言ってその人が性虐待する人物かどうかもまた別問題ということ。

小児性愛者はペドフィリアpedophilia 
一方で児童性虐待Child sexual abusechild molestation 
それをする人物をチャイルドモレスターchild molester と呼びます。

勿論ペドフィリア思考、嗜好が児童性虐待に繋がる場合もあるので気軽にペドは問題ないとは言えません。しかし児童性虐待者のペドフィリア比率が大体25~50%。2006年の調査では35%という報告がある。つまり実害を起こしている7割はペドフィリアではない人物によるもの(とwikiに書かれている)。

コチラの記事では自分たちを「反接触派」の小児性愛者と呼ぶ青年のインタビューで、彼らの苦悩が語られていて非常に興味深く読ませてもらった。

ペドだと言って切り捨てようとするのは簡単で、イギリスでもまだまだ不十分だとはいえ、どう寄り添っていくべきか、どういうサポートを充実するべきかという議論にまで発展している点は、日本が如何に遅れているかがよくわかる気がします(グルーミングなど、児童性虐待に関する知識がジャニーズ問題で漸く認識し始めたという感じなので。それほど無関心が強いというか、基本臭いものには蓋をして関心を持たないようにするバイアスが強い)。

メディアがペドフィリアを「児童レイプ犯」や「児童虐待者」と同じ意味で使うことから、「反接触派」は「MAP」だと名乗る。「minor-attracted person=未成年者に惹かれる人」という意味の略語だそう。世間の固定されてしまった認識を今更変革するのは難しいから単語ロンダリングしている感も否めないけど、当事者にとっては重要な線引きなので名称変更とセットで啓蒙と理解を進める必要はあるでしょうね。

ではその7割近くの真のペドフィリアではない児童性虐待者は何者かというと、それは支配欲を満たしたい、自身の抑圧を解消したい(ストレス発散)という人たちです。彼らにとっての性虐待は目的ではなくその手段なのが特徴だと思います。

”暴力”で自分より弱い立場の人間を支配したりストレスを発散することと同じで、その手段が”性暴力”に置き換わっているというだけ。

ジャニー喜多川の例でも、彼が少年に性的欲情を抱いていたのは事実だろうけども、毎回自分の性欲を発散させていたかと言えば疑問が残る。一晩に何人もの少年を順番に回っていたと言われている。その度に射精してるわけではないのは明らか。かなり晩年までしていたのも、それが目的では無かったからだと思う。彼は少年達を支配したかった。それが一番の目的。少年を支配してジャニーズ・ハーレム、ジャニーズ・アーミーを作りたかったのだと思う。実際そのおかげであの事務所は肥え太った。そして彼から愛してくれたと認知を歪められた子供たちは、大人になって、彼が死んだ後でも、その歪んだ認知でしがみついている。
普通なら自分が所属している事務所が組織ぐるみでやっていたことがわかった時点で、嫌悪感を抱いて退所してもいはず。性加害以外で例えると、自分の会社が組織ぐるみで違法薬物売買を行っており、支配するためにシャブ中にしたり、人生を破壊されたりした人が多数いたと知った時、そこに所属していること、撒き餌になって人を呼び寄せたことに罪悪感、嫌悪感を感じないようになっているというのは、正常な認知を歪められているということ。あの事務所が被害者以外に、所属タレント達にもその認知の歪みを正常化する治療を受けさせようとしない限り、ことの重大さを理解していないし、真の反省はしていないということだと思います。

コチラの記事に小児性愛者の認知の歪みについて書かれています。

3つの「認知の歪み」とは?
 一つは「純愛幻想」。これは、子どもと自身が「成人同士の愛よりも崇高な純愛によって結ばれている」という幻想だ。
 二つ目は「飼育欲」。彼らは「子どもは何も知らないまっさらな存在。自分が教え、育てることで肉体的にも精神的にも成長させてあげる」と自らを正当化し、欲求を満たすために犯罪行為を繰り返すという。
 三つ目は「支配感情」。彼らは「子どもがかわいいからこうしたんだ」とか、「かわいいからついついさわってしまったんだ」とか、「かわいい」という言葉を枕詞につけるケースが多い。彼らが使うかわいいは一般的な意味と異なり「自分の存在を絶対に脅かさないという保証」が含まれている。  
加害者はこれら3つの「自身を正当化する認知の歪み」を持っているので、なかなか自分の問題性に気づけず、逮捕されるまで繰り返してしまう特徴があるという。

この加害者の認知の歪みが、被害者にも植え付けられるということも忘れてはいけない。

では、その支配欲はどこから来るのか?それはコチラの記事内に書かれています。

小児性犯罪者は深刻ないじめや親からの虐待などを経験し「自分の思いを言語化する力を、奪われてきた人が少なくない」と指摘する。痴漢や盗撮など他の性犯罪に比べても、小児性犯罪の場合はこうした「逆境体験」を持つ人が顕著に多いという。かつてモノ扱いされた人が、今後は自分の番だとばかりに弱い子どもたちをモノ扱いする、悪循環が起きているのだ。

「社会から排除されて自尊感情が傷ついた時最も手っ取り早い回復の方法が加害行為だからです」

勿論、本人が性被害を受けたことが影響を与えている場合が一番わかりやすいです。しかし性被害でなくとも、家庭内暴力に苦しめられたとか、親からの精神的虐待、ネグレクトや無視、さらには悪意もなく、ただ忙しいからと相手にして貰えなかったことも、存在を認めて貰えていないのと同じなので結びつく場合もある気がします。そしてイジメのように、助けを求めても助けて貰えない、存在を否定される、そういうのも自尊心を著しく傷つけられることになる。あと一見何もないようで一番多そうなのは、家父長制によって認知を歪められた上で、そのプレッシャーにストレスを感じている人物(特に男性)。

とにかく、キーワードは自尊心
自分のことを大事に思える心。自分のことを価値ある存在だと思える心。それが幼少期に破壊されると、それを求めて彷徨うゾンビのようなモンスターになる傾向がある訳です。穴の開いた心をなんとか別の物で埋めようとする。それが性被害者になると、その方法しか知らないし、それが正しいことのように認知が歪められているので、ブレーキも存在せず、性加害に至るという構図。ゾンビが生きた人間を襲ったところで彼らの飢えが満たされるわけでも、人間に戻れるわけでもなく、新たなゾンビを生み出す構図とよく似てます。

逆に先ほどの「反接触派」のペドフィリアの彼なんかは、その自尊心を奪われたわけではないので悪いことと認識できていてブレーキがかけられている(←ここは重要な違い)。そして自尊心はあるので連鎖することもない(←ただし、現状ペドフィリアは存在否定され、生き辛い苦しさを抱えているので、その抑圧が変容したときに彼がモンスターに変わる可能性は否定できない。だからこそサポートが必要)。

ではどうすればいいのか?支配欲に由来する児童性虐待を減らすには?

まずはこの支配したい心の仕組み、構造を世間に認知浸透させる。
これはパワハラ、モラハラ、全てのハラスメントにもつながることなので、それらを解決するのにも役立つことなので重要。

次に自尊心を奪われた時に人のものを奪っても満たすことはできない。
なので、自分でどうすれば自尊心を獲得、高めることができるか、そういう方法がもっと議論され、教育されていくこと。

あとはサポートシステムを構築すること。
自尊心を奪われた人たちが受けるカウンセリング、セラピー、自助グループなどの充実。←この自尊心を奪われた人に付け込むのが悪徳宗教やセミナーの類なので、お金を過剰に要求してくるところは要注意!

そして前記事に書かれていた再犯についての項目にヒントがある。
「小児性犯罪者の特徴は、自らの欲望に対する衝動を制御するのが難しいこと。言語化は衝動性とは真逆の行為であり、自分の言葉で加害について繰り返し語ることが、衝動的な行動を抑えるのです」
とあるように、言語化すること、カウンセリングなどで話すことで、自分の歪んだ認知を自覚する。それもまた抑止につながる。

暗い欲望を持った時、否定されることを恐れて誰にも話せず、孤独化するのも、認知の歪みを大きくする可能性がある。

「性加害者にとって再犯の最大のトリガーは「孤独」だ。社会から排除されて自尊感情が傷ついた時、最も手っ取り早い回復の方法が加害行為だからです」
とも書かれていました。

「心的外傷と回復」という本でも書かれていたと思いますが、
「共世界」:人は信頼できる 社会は安全である 生きていても攻撃されないという信頼に基づく社会
この共世界に属していると思えた時に、心的トラウマは回復すると書かれていました。今の日本とは真逆のようで、そりゃ虐待もハラスメントも増える一方だと思ってしまいますが、この共世界を構築し、皆がそこに属していると思えることが大事なんだと思います。

自尊心を奪うことをまずは阻止し、奪われてしまった人にはサポート。
書くとシンプルですが、そう簡単にできることではない。しかしそこに手を付けないと、この悲劇は延々と繰り返されるということです。


ココまでが、映画「May December」を見る前に予備知識として頭に入れておいたり、考えてみたりすれば、映画の観方に多少なりとも深みが出るかも?というものでした。

ここから先は、映画のプロットも読んで、脚本も読んでしまった私が思う考察部分や感想です。ネタバレ含みますので映画を観ようと思う方は自己判断で読むか止めるかなさってください。


その後のメアリー・ケイ・ルトーノー

考察、感想の前に、
「モデルになった事件」の続き、ヴィリと結婚してからの二人のその後を簡単にまとめました。

2005年に結婚してから12年後の2017に別居を申請。その後2019年に正式に別居(divorceではなくてseparationとしか書いてなかった)。
さらに3年後の2020年、癌により58歳で死亡

このピープルの記事は23年11月なので、この映画に関連してまとめ記事的に書かれた物と思われます。

補足的情報としては、
*小学2年生で出会ってから6年で担任になるまでも所々でアートや詩の才能を伸ばしてあげようとサポートなどしていた模様。
*二人が関係を持つ前は、夫との関係悪化、流産もあり、慰めを必要としていた時期。
*12歳の時にヴィリが友達に、メアリーとセックスできるか?20ドルの賭けをしている。13歳の数日前にセックスに至る。
*夫のスティーブがメアリーのラブレターを発見。その親戚が通報して発覚。その時点で妊娠6ヶ月だった。
*ヴィリの母親が「彼女は既に十分罰せられている」といって情状酌量を求めた
*7年半の求刑に対して、性加害者の更生施設、双極性障害の投薬治療、ヴィリへの接近禁止を条件に執行猶予。
執行猶予中のメアリーに電話してきたのはヴィリ。翌日、車の中にいる所を捕まる。
*2005年5月、200人のゲストの前で結婚した。
*2009年、Hot Teacher Nightというイベントでメアリーが司会、ヴィリがDJで登場したことがある。(職業は、メアリーは医療従事者、ヴィリはホームセンターで働きながらDJ活動)
*2015年、結婚10年を記念してインタビューを受ける。ヴィリが長年鬱に苦しんできたことを告白。
*二人の娘には教えてないが、両親の関係については知っている模様。
*2017年、ヴィリがメアリーとの別居を申請。しかしのちに取り下げる。
*2019年、結局、最終的に法的別居に至る。
*2020年のピープル誌によると、ヴィリに近い情報源が「彼は今では物事がクリアに見えるようになった。最初からヘルシーな関係では無かったと気付いた」と言及している。

この詳細を知ると、確かにヴィリから友達との賭けの為に仕掛けているように見えます。そして私の偏見もある漠然とした印象では、ヴィリは結構早熟な不良っぽい印象。イケないと言われることをしてみたい反逆心があることも、執行猶予中に連絡することなどからも感じられます。そして二人の関係をネタにDJナイトに参加したりしてますし。容貌も入れ墨ガッツリ入れて、いわゆるThugって感じですし…。一方でメアリーの若い頃の写真は素敵なお嬢さんという感じで、年齢差はあるけども、構図としてはお嬢様が不良に惹かれるという、よく見るあのテンプレのような感じなんですよね。だからヴィリの母親も、息子の素行を知っているだけにメアリーに同情的だったんだと思います。

なので、メアリーが巧妙にヴィリを支配して誘導したのか?それともヴィリがメアリーをたぶらかしたのか?本当によくわからない。

ただ、その純愛も結局破綻する。
これも、漸くメアリーからのグルーミングによる洗脳が解けてきたとも考えられるし、純愛として世間に知られたので簡単にはやめられないプレッシャーでここまで来たが、30代になり浮気心も出てきて、児童性虐待の被害者面を押し出しメアリーを捨てる算段だったかもしれない。
どちらとも言えないし、どちらの要素もあったのかも?とも思える。ある種お互い利用し合ってきた共依存関係だったのかもしれない。

とにかく二人の関係が破綻を迎えたということと、メアリーが死亡して直接的な影響を与える心配がなくなったということが、今回映画化出来た所以、映画の結末にも多少は影響を与えたのではないでしょうか。


私的考察

私は、この記事のタイトルに書いたように、この映画はマインドサスペンス(そういう言葉、ジャンルがあるかはわかりませんが)だと思うのです。

生死にかかわるサスペンスというのではなく、相手に頭の中に入られる攻防を繰り返す戦いといいますか、そういうドキドキ、ザワザワする感じが続く映画なのです。

しかしそれにはグレイシーがどういう人物かということがわかっている必要があります。映画ではハッキリ言葉にして描かれていませんし、一見普通の女性っぽくも見えます。私も最初はそう思いました。しかし児童性虐待者の心理などを知っていくと、グレイシーは前述した純粋な小児性愛者ではなく、支配欲による児童性虐待者なのだと思うようになってきました。いや、児童性虐待は本当に単なる手段で、支配者になりたい人物なのだと思うのです。

なぜそう思うのか?というと、

まず他の子供には興味を示していない。ジョー以外の子供に興味を示したという話は一切なかった。故に純粋な小児性愛者とは考えにくい。

単にジョーとの純愛だったのでは?という所も勿論考えます。
23年間も結婚生活を続けたのだから純愛でしょうと。

しかし映画にはヒントが散りばめられていました。
まず”情緒不安定を装った”泣き落としやヒステリックな強弁で、ジョーに自分の要求を飲ませていた。
なぜ情緒不安を装っていたかというと、最後に自分は「安定している人間」だとハッキリとエリザベスに言い切っていましたから。

次にジョーが隠し持っていたグレイシーからの手紙の内容です。
あれは一瞬純粋な愛の手紙に見えますが、実に巧妙なグルーミングの手紙だと思うわけです。
なぜかというと、最後に燃やせと書いている。証拠隠滅を命令している。その客観性、自分がやっていることが犯罪になりうることは重々承知。愛だのなんだのと甘い言葉で散々修飾して相手の心を取り込み、最後に一番言いたい部分、口外するなと書いて支配下に置こうとしている。
グルーミングは基本、甘い言葉とセットで”要求”があるんですよね。

そして監督が、彼女が支配的な人間だと隠喩的に表現していると思われる部分がいくつかあります。

まずは
1:ケーキ職人
グレイシーの現在の職業?がオーダーケーキを作ること。デザートづくりの基本は正確な計量と手順。そして思い通りにケーキをデコレーションしている姿。その姿が、女主人として夫をコントロールし、家庭をコントロールし、素敵な家をデコレーションしている姿に重なるわけです。手順ということを考えると、そもそも13歳で手を出した最初から全て計画。まさに源氏物語の若紫を自分の理想の女性に育てる図と同じで、ジョーを自分の支配下に置いて理想の夫に育てるためだったのでは?とさえ思えてきます。

2:蝶々
ジョーがMonarch butterflyオオカバマダラという渡りをすることで有名な希少な蝶を育てている(越冬地のメキシコで木が蝶だらけになることで有名な蝶ですよね)。
映画の中ではこの蝶の卵から羽化するまでも追っている。この蝶はジョー自身のメタファーなんだと思います。卵や幼虫で捕えられて、籠の中で育てられる。幼少期に捕われ、グレイシーによる精神的檻に閉じ込められたジョーの状況と重なっている。
そしてジョーは非常に無表情というか感情に乏しい。それは動かない蛹に重なります。ところが子供たちの卒業(時間経過)&エリザベスの訪問(刺激)によって感情の吐露が起こり始める。それが蛹のひび割れであり、そこから蝶の羽化と飛び立ちにつながる…ということだった気がします。

3:ペットショップと蛇
まずペットショップの意味を考えてみます。
グレイシーとジョーが出会い、セックスしているところを見つかったという場所。エリザベスが訪ねて、現場で追体験しようとする。

ギャーギャーと動物たちの声が響くペットショップという場所は、つまり性欲が剝き出しの場所。そこで二人の性欲が暴走し、動物になった場所とも捉えられる。しかしここで動物たちがいっぱいいる、本能剥き出しの場所なら屋外、自然の中でもいいはず。しかしそうじゃない。動物たちが檻、ケージの中で管理されている場所。そこでは生殖も管理されてる。倫理観という檻で性欲を管理しようとしている人間社会を表しているように思います。つまり性欲を管理されている中でそれに反して本能に従う。そこにタブー感が生まれる。つまり二人の性行為のタブー感をより強調するためにペットショップという設定を選んだ気がします。

そして次に蛇です。
ペットショップシーンの撮影。エリザベスはヘビを持ちながら少年にヘビを触るように誘う。そんなヘビの話を実際の二人からは聴いていないわけで、映画用の演出なわけです。
これは劇中劇の監督のアイデアでもありますが、トッド・ヘインズ監督の意図も代弁している気がします。蛇とは有名なアダムとイブの原罪の場面に出て来ます。禁断の果実を食べるように唆すヘビ。 「禁断の果実」という語は、不法・不道徳・不義の快楽や耽溺を表すメタファー。つまり禁断の果実=セックスなわけで、それを唆している女性がヘビを持っているということは、明らかにグレイシーが唆している図というわけです。
ということは、グレイシーはジョーに「誘ったのはあなただった」と言ってましたが、そういう風に誘導したのはグレイシーだったと暗に言っているのだと思われます。

4:性虐待の謎
グレイシーが幼少期に兄たちから性虐待を受けていたと、彼女の日記に書かれていたことを息子のジョージ―がエリザベスに言う。
後にグレイシーはその密告を知っており、彼の妄言だと言う。果たしてどちらが真実を語っているのか?
私は性虐待はあったと思います(前章で書いた通り、支配欲の源泉になりうる最も納得できるものだから)。しかし、それよりもここからわかるのは、グレイシーは元夫との子ジョージ―、自分の同級生と母親が関係をもった上に結婚までして、誰よりも彼女に嫌悪感を持っていてもおかしくない息子さえもグルーミングで懐柔して手なづけている、支配しているという事実。それだけ彼女が人の頭に入り込み、コントロールするのが巧みな人物だと示唆しているのだと思います。

ということで、グレイシーは支配欲が強い上に人を思い通りに取り込むのが上手い人物。その彼女の頭の中を理解しようと試みるエリザベス。この二人のやり取りは、「羊たちの沈黙」のレクター博士とクラリスの関係にも少し似ているんですよね。だから妙に不穏なサスペンス的空気が流れているんです。ここがマインドサスペンスと言った理由です。

3人の勝敗

勝ち負けで表現することではないかもしれませんが、主要登場人物3名の勝敗ポイントを書いてみると…

グレイシー
長年かけて築き上げた家庭が崩壊しようとしている。これはエリザベスの干渉のせいでもあるし、そういう時期を迎えたということでもある。
しかも夫を寝取られてるのは事実なので、その部分はある意味負けでしょうね。近所の人たちのように人たらし術でエリザベスを取り込むことに失敗したともいえる。

一方で、最後の最後にエリザベスに一矢報いる。兄からの性虐待はジョージ―の嘘だと言って、エリザベスの頭の中に疑念の種を植え付ける。それによってエリザベスは掴んだと思ったグレイシー像に迷いが生じ、撮影時にも撮り直しを求めてしまうようになる。ただでは転ばないグレイシーの怖さを表しているように思う。

エリザベス
彼女は最初からグレイシーの倫理観には疑問、つまり否定したい欲望があったように思う。だから兄による性虐待の証言が典型的な性虐待の連鎖であると確信し、グレイシーは典型的な児童性虐待者だと決めつけた。そしてそんな薄汚い児童性虐待者の倫理観より自分の”大人の倫理観”(=寝取りはOK)によって夫婦の関係を壊すことで、自分の倫理観の正統性、優越性を誇示しつつ、ジョーをグルーミングから解放してあげたという余計な親切心による自己満足を得た。さらにはグレイシーの手紙からグルーミングの証拠も得て、ほぼ完全勝利を得たかのような気分だったはず。

しかし最後にグレイシーの言葉によって疑念が植え付けられる。得た確信も大きく揺らぎ始め、結局、最も重要な演技にまで影響を受けてしまう。ということで彼女もまた敗者になってしまう。

ジョー
長年グレイシーの支配下にあり、自分自身で選び取る人生を歩めずに来た部分は非常に大きい。感情を表に出せなくなっているほど静かに抑圧されてきたことがわかる。奪われた自分の人生という意味では彼の喪失部分が一番大きいのかもしれない。

しかし、子供達との関係は良好そうだし、彼らへの愛情は本物。その部分は尊いものを得ることが出来たのも事実。彼が卒業式で泣いていたのは、この葛藤のせいではないか?この愛しい子供達との関係が、グレイシーに操られての結果ではなく、自分で選び取り、愛し、作り上げた結果であればよかったのに…と。この子供達への愛情さえも、もうどこまで自分のものなのか?自信が持てないほどになってしまい、涙が出てきてしまった部分もあるかも。

一方でグレイシーによる長年のグルーミングから抜け出し、今、羽化した蝶のように飛び立とうともしている。映画の中では語られませんでしたが、元のスクリプトを読むと、ジョーが女性の蝶仲間と旅行に出ることを決意する部分も書かれていました。奪われた時間は取り戻せないが、漸く自分の為に生きることができるようになる。児童虐待の被害者であるジョーが、3人の中では一番救いを感じられる終わり方であるようにも思えます。

3人ともある意味勝って、ある意味負けて、人生の勝者なんてそうそういないというリアリティ。監督の落としどころはそこなんだろうなと。


まとめ

まず映画として二人の女優、ジュリアン・ムーアとナタリー・ポートマンの演技対決。そこにエリザベスという女優と、人の頭に入り込み支配するために息をするように芝居がかったことさえするグレイシー。その二重構造の相克を楽しめる映画になっている点が非常に面白いです。

そして小児性愛、児童虐待についての関心を持たせてくれ、見識を深めてくれた部分は感謝したい。こういう実例とともに知るきっかけがないと、なかなか深掘りしないですから。

エリザベスのセリフに
「Why are they like this? Were they born or made?」というのがありました。生まれつきなのか?環境によって作られたのか?と。
ヤバイ奴の代名詞的にサイコパスって言葉がよく使われますが、実際は「反社会性パーソナリティ障害」における先天的なものをサイコパス、後天的なものをソシオパスというそうです(あくまでも俗語)。
小児性愛者としてザックリ一括りにされがちですが、純粋な小児性愛は先天的で生まれつき、一方、児童性虐待者はソシオパス的で後天的、社会の影響でモンスターになっているケースが殆ど、ということがよくわかりました。そういう背景を詳しくは映画では説明はしてくれませんが、その部分を知るきっかけは与えてくれたと思います。

あとグレイシーは家父長制における妻という役割が本当に嫌で、家母長制を構築したかった女性の話でもあるのでは?とも考えたり。
家父長制への鬱憤が、このケースでは児童レイプという形の犯罪となりましたが、女性の犯罪において、この家父長制の抑圧に起因するものが結構多いのでは?と考えたりします。

以前「コールドケース」というアメリカの未解決事件を扱う刑事ドラマがありましたけど、そこでゲイに関する犯罪が出てくるときはゲイであることを隠さないといけないから犯罪とか、ゲイに対する憎悪殺人とか、家父長制の下で否定される存在のゲイへの抑圧が起因していることが本当に多かったです。
家父長制に関わらず、やはり抑圧というのは犯罪へのトリガーになるんだろうなと言うのはつくづく思うところですね。

観客に色々な問題提議、思考活動を促すという意味では優れた映画であると思います。好き嫌いでは好きになる人はそれほどいない気はしますが…。

ということで私的評価は…
☆8/10 と言ったところでしょうか?


ついでに、パトリシア・ハイスミスから派生して、私の観たいリストに入っているこの二作品も紹介。

「キャロル」のような恋愛ドラマではないですが、女性二人のレズっぽい関係もありつつの心理サスペンスドラマ「EILEEN」です。

アン・ハサウェイの演技が中々好評のよう。金髪のアン・ハサウェイは「ブロークバック・マウンテン」のジャックの嫁役以来かな?


もう一つは「プロミシング・ヤングウーマン」で評価を得た女性監督エメラルド・フェメルの新作「SALTBURN」です。

コチラも、富豪の男に取り入って成り代わっていくような設定が、パトリシア・ハイスミスの「太陽がいっぱい」「リプリー」のようだと言われている作品。「聖なる鹿殺し」で有名なバリー・コーガンと、現在の色男枠ジェイコブ・エロルディ出演。

バリー・コーガンが私的には生理的に気味が悪い顔過ぎて苦手なんですが、二人のホモセクシュアルっぽい関係、そして憧れの男が自慰行為をした風呂の水を飲むシーンが話題になってます。それも排水溝を舐めるんですよΣ(゚Д゚)。これってRimmingのメタファーだと思うんですよね~w(Rimmingはアナル舐めのことです(/ω\))。そのヤバさ加減を怖いもの見たさで観てみたい!!www
この監督の作品は「プロミシング・ヤングウーマン」もそうでしたけど、いわゆるイヤミス系。どんな結末なのか楽しみです。


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