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100年前にタイムスリップ!”神さま”とつながる暮らしの実態とは!?

viehula!のテーマである「地球とつながるプリミティブな暮らし」。それは自分のまわりのすべてのものを”意志が宿る神”ととらえて、森羅万象とつながって生きることではないか、と前回の記事でも書きました。

250年前に西洋人によって発見されるまでは、陸の孤島でプリミティブな暮らしをそのままにとどめていたハワイアンの生き方に、たくさんのヒントが隠されていますが、実は100年前の日本にも縄文文化からつながる”神さま”と共に生きる暮らしがありました。

地球の資源、”神さま”を消耗して、大規模な環境変動を起こしかねない現代の生活に警鐘がなっている今。100年前の暮らしから、古くて新しいライフスタイルのヒントを見つけてみましょう。

逞しくておおらかな100年前の暮らし

100年前の日本人の暮らしを紐解くために参考になるのが、民俗学の不朽の名作と呼ばれる宮本常一氏(1907-1981年)の「忘れられた日本人」です。

1960年に出版され、1939年から日本の農村部を中心に自分の足で歩き、長老たちの話を聞いて回り、戦後に大きく暮らしが変わっていく中でそれまで縄文の時代から続いてきた日本の暮らし、風習を研究として残そうとした取り組みです。

戦前の農村部の暮らし。電気や水道、車などの交通手段もほとんど行きわたっておらず、提灯やろうそくで明かりをともし、井戸を使い、馬で移動し、牛で田畑を耕していました。貨幣経済も一部しか入っておらず、商店があるわけでもなく着るものも食べるものも村単位での自給自足生活でした。

この著書の中ではその当時の暮らしが事細かに描かれていて、今の私たちの常識ではびっくりするほどの、おおらかでたくましく、日本人の本来の性質をあらわすようなエピソードがたくさん詰まっています。

その中でご自身のおじいさんの暮らしを描いたエピソードがまさに100年前の人々の一日、一年、一生をあらわしていました。

歌を楽しみに、一日一日感謝して生きる暮らし

「市五郎はいつも朝四時にはおきた。それから山へいって一仕事してかえって来て朝飯をたべる。朝飯といってもお粥である。それから田畑の仕事に出かける。昼までみっちり働いて昼食がすむと、夏ならば三時まで昼寝をし、コビルマをたべてまた田畑に出かける。そしてくらくなるまで働く。

雨の日には藁仕事をし、夜もまたしばらくは夜なべをした。~

~仕事をおえると神様、仏様を拝んでねた。とにかくよくつづくものだと思われるほど働いたのである。

しかしそういう生活に不平も持たず疑問も持たず、一日一日を無事にすごせることを感謝していた。市五郎の楽しみは仕事をしているときに歌をうたうことであった。歌はその祖父にあたる人から幼少の折おしえこまれたものがもとになっているらしい。~

~田植え時期になると太鼓一つもって方々の田へ田植え歌をうたいにいった。盆になれば踊場へ音頭をとりにいった。旅人はまた誰でもとめた。~

~宿といってもお金一文もらうわけではない。家族の者と同じものをたべ、あくる日は一言お礼を言って出ていくのである。」

日々の暮らしを懸命に生き、その中にも歌う楽しみや、知らない地域の情報を持ってきてくれる旅人との交流などの楽しみがある。貧しくとも、「足るを知る」心豊かな暮らし。農家の家にはほとんど時計がなかったとも書かれていて、お日様と共にある暮らしぶりがうかがえます。

「山の神さまがホイッホイッといって、ついて来てくれるよ。」

また著者はこの祖父に8,9歳になるまで抱かれて寝て、山へ行くときには一緒に連れていってもらって多くの昔話を聞いたと語っています。山作業を手伝いさせながら、飽きると良い声で歌ってくれながら、童謡や様々な暮らしに関わる物語を聞かせてくれたとか。

ある日、祖父と歩いていると谷を隔てた向こうの畑がキラキラ光っている。あれは何?と聞くと、「マメダ(豆狸)が提灯をとぼしているのだ」と教えてくれたそう。豆狸は人間を騙さずに、山で人が寂しがっていれば、出てきて友達になってくれるものだ、と教えられ、夕暮れ時に闇が近寄ってきても怖くなくなったと書かれています。

「どこにおっても、何をしておっても、自分が悪いことをしておらねば、みんなたすけてくれるもんじゃ。日ぐれに一人で山道をもどって来ると、たいてい山の神さまがまもってついて来てくれるもんじゃ。ホイッホイッというような声をたててな。」

神さまの話が、まるで一緒に暮らす長老の話のように随所に現れます。山の神、海の神、火の神、ときにはカラスを神としてお供え物をしてたたえ、良い知らせをもたらすようにと祈ったとか。

夜が更けるのを忘れて若者たちが歌い合い踊り合う

また神につながる儀式として暮らしの中に溶け込んだ祭りや踊りのエピソードも多く残されています。

「対馬には島内に六つの霊験あらたかな観音さまがあり、六観音参りといって、それをまわる風が中世の終り頃から盛んになった。男も女も群れになって巡拝した。~

~巡拝者たちのとまる家のまえの庭に火をたいて巡拝者と村の青年たちが、夜のふけるのを忘れて歌いあい、また踊り合ったのである。

そのときに嫁や娘の区別はなかった、ただ男と女の区別があった。歌はただ歌うだけでなく、身ぶり手ぶりがともない、相手との掛けあいもあった。鈴木老人も声がよいだけでなくきっとそういうことにかけてもこのあたりでは一番上手であったに違いない。」

祀り、祭りは、神とつながる場所でもあり、つぎの命をつなぐための男女の出会いの場でもあったことがうかがえます。

狭い世界の中で、トラブルはなかった!?

100年前の人々の暮らしを見るとき、自然や神さまを感じて生きる感性の違いと共に、もう1つ感じるのが世界の狭さです。

交通手段が発達していなかったころ、また貨幣経済が発達せずに公共サービスというものがほとんどなかったころ、村を出ることはそのまま死を意味するくらい村単位での世界が前提となっていました。

流通が発達しておらず人の行き来も少なかったのですから、地球環境から見れば理想的な地産地消の暮らしです。さて、ではその狭い世界の中で人々は幸せだったのでしょうか。

村中皆が知り合い、親戚のようなもの。そんな中での暮らしは孤独感などはないものの、わずらわしさや閉塞感はあったかもしれません。でも世界が狭いゆえのトラブルの解決手段もきちんと伝承され、村の文化となっていました。

村で起こる問題解決は村人全員で寄り合いの中で、お互いが納得いくまで話し合うという制度がありました。時には三日三晩、話し合いが続くこともあったとか。用事がある人は途中で抜けたり、昼ごはんを食べに帰る人もいながら、ゆるやかに話し合いは続いたとか。

「人間一人一人をとって見れば、正しい事ばかりはしておらん。人間三代の間には必ずわるい事をしているものです。お互にゆずりあうところがなくてはいけぬ。」

村のおじいさんの言葉。ある寄り合いでそれぞれが勝手に自己主張しているときにも、

「皆さん、とにかく誰もいないところで、たった一人暗夜に胸に手をおいて、私は少しも悪いことはしておらん。私の親も正しかった。祖父も正しかった。私の家の土地はすこしの不正もなしに手に入れたものだ、とはっきりといいきれる人がありましたら申し出てください。」とおじいさんが話すと、それまで強く自己主張をしていた人がみんな口をつぐんでしまったそう。

狭い世界の中での幸せには、長老たちが一役買っていたのですね。そうして村の問題は解決され、のどかな暮らしが続いていたようです。

地産地消、日々の暮らしと営み、歌、踊り、祭り、神話、伝承。そして対話の大切さと長老たちの知恵。

100年前の暮らしのキーワードですが、実はサステナブルを意識した暮らしが求められる中で、少しずつ復活してきているキーワードでもあります。

コロナ禍で経済活動が縮小された今の生活でも、CO2排出量は前年の5%減程度、気温上昇を1.5度~2度以下に抑えるためには、2030年までにこの数倍のCO2排出削減量を実現する必要があります。

何かを我慢するという発想では、今の数倍も我慢することというのは現実的に思えません。物に頼らない、どこかにユートピアを求めない、今・ここを大切に心豊かに生きる方法を、古きに学んで新しく生み出していきたいですね。

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