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南部鉄器の話

だいぶ前の話になるが、初めて外国を訪問したのは大学生の頃で、訪問先はパリだった。

あちらこちらをいろいろ訪問したが、なんとなく覚えているのが、紅茶屋だか葉茶屋かカフェを通り過ぎた際に、窓辺に日本の鉄瓶が飾ってあったのを覚えている。

そのあとだいぶたってから、母とフランスで落ちあい、パリからルアーブルの港やら、レンヌを通ってノルマンディを旅し、モンサンミッシェルを経て最後はブルターニュのサンマロという街を観光して帰った。

パリのどこかのコーヒー屋で赤くペイントした小さい南部鉄瓶を見つけ、写真に撮ったがそのあとから旅したところ、あちらこちらで鉄瓶を見かけたので、特段写真を撮ることもなく、母と別れてイギリスへ戻った。

ロンドンでは、セルフリッジでよく鉄瓶を見かけた。セルフリッジの地下一階にある男性用のトイレは穴場であると、よく私の連れが言っている。広くて、きれい、セントラルロンドンの便利な場所にあって、有料ではない。あの近辺でビールなどを飲むと、必ず連れはセルフリッジのトイレへ行きたがった。連れのトイレを待っている間、地下の食器売り場で見かけたのか、それとも、トイレに行くまでに通り過ぎる紅茶やハーブティーのコーナーで見かけたのか、どうかはわからないが、このデパートには必ず鉄瓶の取り扱いがあった。

ちょっと前まで日本に里帰りしていた。その際、いつもお世話になっているおばさんへお土産を持って行くのに、なんかいいのが見つからなかった。
前回里帰りしたのは、2019年だった。ラグビーワールドカップに合わせて帰ったのだが、その際、おばさんからのお土産のリクエストは日本人形、できれば芸者さんの人形が欲しいとのことだった。おばさんのお姉さんのメアリーさんは、アイルランドのゴールウェイでパブを経営している。メアリーのパブに飾りたいので、一体、そして自分の家のガラスケースの特等席に飾っておきたいのでもう一体というリクエストだった。

日本人形どこ行ってもなかった。地元のデパートも取り扱いがなし、都心のデパートでもなかった。あったとしてもかなり重たい木目込みの人形で、スーツケースに入れて持って帰るには、ちょっとという品物だった。どこで売ってるのか、と考えてもなかなか知恵が出なかった。私の母は、「浅草橋は」と言い出し、うちの父親が「埼玉の岩槻だったら車出してやる」などと言いだし、かなり面倒臭い事態になってきた。両方ともさつき人形や雛人形で有名な地域である。イヤーそういう本格的なのでなく、なんというか、お土産用の簡単な人形の方が喜びそうな気がした。「じゃあ、東京タワーに上ってお土産屋に行ってくるのがいいのでは?」という話になり、行きたくもないのに、東京タワーかよ、という話になった。

お土産に頼まれた手ぬぐいを浅草の仲見世裏の「ふじ屋」に買いに行く用事があり、ダメ元で仲見世へ行ったら、外人が喜びそうな日本人形が売っている店がちらほらあった。仲見世で4000円くらいの人形を2体買って、ロンドンに持って帰った。

そういういきさつがあり、彼女たちが喜びそうなお土産となると、かなり難しかった。正直、普通の外国人だと、無印の入浴剤、女性だったらシートマスク、ちょっとした調味料やインスタント食品、男性だったら爪切り、毛抜き(日本製は性能がいいので、あげると喜ばれる)などで済みそうなものの、その手のものをあまりありがたがらない人達というのもいる。もっとエキゾチックジャパンというか、未だにまねき猫とか着物地の財布とかかんざしだのプラスティックでも蒔絵っぽいくしだのをありがたがる人達もまだ一定数いらっしゃる。

おばさんに何をあげようかと思い、いろいろ見ていたがあまりピンとこなかった。漆のお椀か漆のカクテルグラスでもあげようと思い、色は赤で、などと考えていて、母親に話したら「納戸にたくさんそういうのあるから買うことない」といって、納戸から使っていない食器が入った段ボールを持ってきた。

赤いお椀が2つ出てきて、「これ持って帰れば」と言われ、そのまま持って帰ることにした。ありがたいことに同じ色の風呂敷がセットになっている。それをそのままいただくことにし、同じ段ボールに誰も使っていない作家ものの箱入りのぐい飲みが入っていたのでそれも持って帰ることにした。

その時、かなり古びた小さい白い段ボールの箱があり、それを開けたら南部鉄器の急須が出てきた。包み紙は岩手県水沢市(現岩手県奥州市)の食器店の包み紙で、商品自体は南部盛栄堂(現在の及源)のものだった。

「岩手の姉さんがくれたんだけど、全然使っていない。あんた持って帰れば」と母がいうので、もらって帰ってきた。パリやセルフリッジで見た急須と似たような急須で梅の模様が掘ってあった。

母はもともと東京下町出身、4人姉妹の一番下である。一番上と、三番目、そして母は、関東に住んでおり、3人とも同じ沿線に住んでいる。なので、そこまで縁遠い親戚ではない。が、岩手県の水沢に嫁いだという2番目のお姉さんは、ほとんど会ったこともなく、縁が薄かった。

もともと同じ姉妹でも母からすれば、縁の薄いお姉さんだったという。このお姉さんは高校を出たらすぐ孤児院だか養護院に住み込みで勤めはじめ、夜学で保母さんの資格を取ったという人で、保母さんとして一本立ちするかしないかのときに、結婚して水沢に移り住んだという。

一度だけ、このおばさんは私が中学生のときに、いとこを連れてうちに遊びに来たことがあるが、それ以降は会ったことがあるかどうか、どうにも記憶がない。そして、私たちから岩手に行くということもなかった。

それからしばらく時間が飛んで、母が岩手に頻繁に行くようになった時期があった。なんだかこれがもう、切ない話で、伯母があまりタチのよくない病気になってしまい、長期入院することになった。母は、月に一回は病院があるという北上市に一泊で看病に行っていた。そして、インターネットがあまり得意でないので、看病に行く日程が決まると、特急券とホテルの予約は私がネットでやることになっていた。

一度くらいは観光ついでについていこう、北上なら啄木やらちょっと遠いが宮沢賢治ゆかりのところにも行けるかもしれない、そう思いつつも、病状は全くよくならず、行けば行く度に落ち込んで帰ってくる母にそれは言い出せなかった。母も、「会社の有給取って一緒に来るかい?」と口では言うものの、口調がかなりつらそうなので、「まあ、そのうち」などと言っている間に、伯母の病状は坂を転がり落ちるように悪くなり、私がロンドンに移住した直後くらいに亡くなった。

あまり縁のなかった人だが、おつき合いのある人達に言わせると「ものすごい渋い好みの人で、結構いい洋服や和服を着ていた。」「おしゃれで、いいものを知っていた」人だったらしい。この人の話になるとだいたい「いい色の着物を着ていた」とかそういう話が多かったような気がする。苦学して保母さんになって、子供が大きくなったらまた保母に復帰して、教育関係の仕事をずっとしていた、という話だった。

それくらいしか、私も知識がそのおばさんに関してはなかった。

家に急須を持って帰ってきて、急須の謂れを調べてみれば、ちゃんとした急須だった。南部鉄器は、盛岡のものか、水沢のものか、地域で別れるという。及源は水沢の鉄器ブランドでは名門で、知らなかったがイギリスのジャスパーモリソンとコラボして、キッチン用の鉄器まで作っていた。それくらいちゃんとしたところのものだった。

調べたことを母親に報告すると「ええっそうなの?」とそれなり驚いていた。

姉妹の中で一番最初に結婚し、所帯を構え、家を買ったのはうちの母だったらしい。お祝いやら何やらで岩手の姉さんは最初は鉄瓶(鉄のやかん)、そのあとは鉄の急須、そのあとは鉄の鍋敷き、そのあとは南部鉄の風鈴をくれたという。それもすべて、もしかしたら30年いや40年以上前の話だという。

しかし、鉄器は全然ありがたくなかったという。正直もらって「またこれか」で適当にその辺にしまっておしまいか、使っても一回くらいで、ダメにして庭に出すかで終わり。

やかんは全然使いこなせず、さびさせて終わり。しょうがないので、庭に飾りとしてそのまま庭に取っておいた。急須は一度も使わずにしまいっぱなし、鍋敷きも重くてつかいこなせず、庭に出して、その上に植木鉢を置いている。風鈴はしばらくつけていたが重すぎて軒先から風鈴をつけているフックごと落ちてしまい、その辺にほっぽいておいて、何十年もたった。家をリフォームする際に、新しい庭にポイントとしてつけようという話になったらしいが、うまく行かず、その際にどこかへ行ってしまったという。

伯母がなくなってから、3番目の伯母が母の家に来た際、庭に置かれている鉄瓶をみて「あれ、水沢から来たやつでしょ。あんな使い方してるなら、私に頂戴」と言って、次回母の家に来たとき、おじに車で持って帰ってもらったという。そのあと、伯父がメンテナンスをし、今は現役でお湯を沸かしているという。

うちの母はどうも、鉄器とは相性がよろしくなく、急須も使わず、どこかで買った鉄のフライパンも使わずにとっている。なので、しょうがないのであるが、母から言わせれば「姉さんには大変申し訳なかったが、あの頃は鉄器なんてそんな扱いだった。いいものだというのはわかってるけど、もらえばもらったで、重くて邪魔でどうやって扱っていいのかわからなかった」というものだったらしい。

それから外国で鉄瓶を見てびっくりした。外人が喜んでありがたがって使ってるのが不思議だった。そして、今の若い人達向けに鉄瓶やら急須やらが改良され、若い人達が高いお金を出してそれを買ってるのも不思議だし、ブランドがそのような人達を対象にフライパンやらスキレットを作ってるのも不思議。そしてもっと不思議なのが、自分が鉄の急須を持っていたことだと、母は言っていた。

母は邪見にしていたらしいが、使ってみて、急須は使いやすく、そして、お茶の味が丸くなるような気がする。結局、鉄瓶が欲しくなり、鉄瓶を取り寄せ(及源ではなく、鉄瓶は岩鋳になった。)、及源のフライパンを取り寄せた。鉄瓶で沸かしたお茶はまた鉄急須とは違う味わいである。これから、長い付き合いになりそうである。(ただし、さびは気をつけないとすぐに生じるような気がする。イギリスなので、湿気が日本よりはないから、そこまで気を使わなくてもよさそうだが。)

今度里帰りしたら、ぜひ、及源のショップには行ってみたい。が、どうなんだろうとも思う。もちろん行きたいのだが、本当は水沢はもっと早くに、伯母の見舞いに、母と一緒に行くべきだったのではないか、とも思っているからである。

まあ、なんというか、人生生きてきて、「この時に行っておくべきだった」というタイミングや時があるよね、それを逃すと、あとはもう一生行けなかったり、行く機会があってもなんだか後ろめたかったりする。たぶん、岩手は私にとって一生そういうところだろうと思う。








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