ドゥルーズと鬱病

ドゥルーズの思想から見た鬱病

鬱病という病理現象をジル・ドゥルーズの視点から捉え返してみると、そこに一つの重要な示唆が見出せるかもしれない。なぜなら、鬱病は単なる生物学的な疾患ではなく、現代社会における存在のあり方そのものの問題と関わっているように思われるからだ。

ドゥルーズが批判の矢面に据えたのは、不変の実体や恒常的なアイデンティティといった観念的概念である。彼によれば、そうした概念は生の可塑性と遍在する差異を見落とし、かえって生を窒息させかねない。実在とは常に変容し続ける運動であり、固定化された実体など存在しないのだ。

鬱病はひとつの観点からすれば、このダイナミックな生成変化の流れから人間が逸脱した結果生じる病理と捉えられないだろうか。つまり、過度に自己同一性に固執し、つねに変化する生から乖離してしまった状態が、鬱病の一因となっているのかもしれない。

また、ドゥルーズは出来事への着目を説いた。出来事とは私たちの存在を規範から解き放ち、新たな地平へ開く出力のことだ。それに対する主体的な受容が欠如すれば、生は停滞し鬱状態に陥ってしまうだろう。出来事と強度に身を晒し、絶えず変容し続けることが生にとって肝心なのである。

さらに、身体性と欲望の観点も重要である。ドゥルーズが説くように、主体は非人称的な身体と欲望の力学によって支えられているはずだ。その源泉が閉ざされれば、生は疲弊してしまうかもしれない。鬱病はまた、この欲望の貧困とも関係があるのかもしれない。

もちろん、鬱病の病理機序には複雑な要因が関与しており、単純に還元することはできない。しかしドゥルーズの視点に立てば、生の根源的な活力を奪う何かがそこには内在しているように思われてくる。つまり、生成変化の力への頑な閉ざされ方、出来事への貧しい受容性、身体と欲望の活動性の喪失といったことが、鬱的状況を生み出している可能性があるのだ。

したがって、鬱病に対する一つの対処はドゥルーズ的であろう。常に生の変容に身を任せ、出来事への開かれを保ち、身体と欲望の活力を掘り起こしつづけること。そうすれば、鬱病から自身を守り、より豊かな生の実現に向かっていけるかもしれない。鬱と闘うには、むしろドゥルーズ流に生きることが一助となるのかもしれない。

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