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ゆとり教育に思うこと


今日は、今晩は、ハタマタおはようございます。セオです。皆さまいつもnoteをお読みいただきありがとうございます。大体いつもそうだけど、今日はちょっぴり真面目な話をしようと思います。


1994年生まれの28歳の私は、正真正銘の「ゆとり世代」です。ゆとり教育を受けた世代のことを総称してそのように呼ぶらしいのですが、こちとらそんな認識はまるでないということをまずお話しておきたい。「ゆとり教育を反省しろ」だの「間違ったことを認めろ」だの、それは誰に対して何を見て図ることなのか‥?いや待てよ、そこまで言わんでもよくない‥?(震え)とさえ思います。例えば「学力」だけにおいてそれを図る場合、テストの点数や進学したい学校の偏差値などの数字で物事を見るものにおいてゆとり世代の我々が、その数値を大幅に下げてしまったのだろうか?‥うん、それに関しては多分そう。下がっているんだろうなぁとは思うんです。だってそう言われ続けてきたのだから。


たしかに数字は便利だし、物事を図る上で重要だと思います。ですがゆとり世代の私たちは数字だけで物事を見る世界ばかりではない、と思いたいのです。


今まで100%でギチギチに勉強をしていた世代から70 %で勉強をすることになり、残りの30%をどのように過ごすかはあなたに委ねます!それが「余地教育」の姿だと思っています。ゆとり世代とひとくくりにされても、残りの30%を勉強に費やして従来どおり100%の勉強する道を選ぶ人もいれば、スポーツや音楽に精を出してその道で長く活躍する人もいます。学習意欲の衰退という点では、そもそも机に向き合って勉強することを定められた時間が短くなっているのでしょうから、当然かなと。中には学ぶことの楽しさを知らない人たちだ‥なんて思っている人もいるかもしれません。そうではありません。いや、そうかもしれませんが、だからこそ私は大学の講義が楽しかった。学ぶことを面白いと思えた。社会に出てからも知りたい、やってみたいと思うことが増えたように思うのです。長い人生の中で「学びたい」と思える時間が延長されたような気がしているのです。


ただ、一度だけ悩んだことがあります。芸術を学んでみたいと思って芸術大学の進学を希望していましたが、自分はそこに至るまでの道程の中で一生懸命勉強した記憶がなかった。だからこそ高いお金を払ってまで芸術の勉強をすることに意味があるのか、それは意味のあることなのか私には想像できなかったし、その先の未来ももちろん考えることができませんでした。だったら今の私に必要なことを知っておきたい、世の中のことについてもっと知っておきたいと思って「社会学科」への進学を選び、結果勉強が楽しかった。人生で一番勉強したのは大学生活だと胸を張って言えます。


卒業後、結局は映像の道を選んだので、社会学科への進学は一見遠回りに見えるかもしれません。それこそ、人生は「短い」と思う人から言えばゆとり教育こそ遠回り。どうせなら近い道を選べばよかったのかもしれませんが、そもそも私たちは近道を知らないので。そして何より遠回りも嫌いじゃないので。そして、こんなふうに思えることこそが「ゆとり」教育の成果だと思うのです。選択できる時間があったからこんなふうに遠回りしてもいいかも!って気がしたし、その道の先に何が待ち受けていようとも何となく消化できる。悪い意味だけではなく、じゃあこんなふうにしたらどうかな?とまた新しい道を作ったりして。選べる道があったからこそ、選ばなかった方の道が見えたし、その先で道が一本になっている可能性もあるかもよ?なんてことさえ思えた。結構ポジティブですよね、我々は。


ゆとり教育を賛美したいというわけではありませんが、私たちは決して被害者ではないので。自分で選んでこの道にいる。本日もお読みいただきありがとうございました。

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