電車が止まって、私はちょっと動いた 9
昨夜の地震の影響で、 電車T線は、まだ動いてないらしい。
さて、 どうしよう?
こんな時、 私は、 まず 食べる。
辛い時、困った時、取りあえず食べる。
腹が減っては、戦が出来ぬ。 知恵も浮かばない。ーーーもともとないじゃん!
いざと言う時の踏ん張りが効かない。 困難な事に立ち向かうには、まず!食べる!
...と決めて、ホテルのフロントにリュックを預けて、 いざ、銀座の街へ。
久しぶりの銀座ランチ、何食べよう?
昨日は魚だったから、肉がいいな。
肉、...焼肉?すき焼き? 酢豚?なーんにすっかな?っと、歩き慣れた4丁目界隈を歩いていると、国産牛肉しゃぶしゃぶ、すき焼き『ざ○○』
昼からしゃぶしゃぶってのもナンだけど、ざ○○? なんか聞いたことあるような?
引き寄せられるようにそのビルの地下へ。 まだ11時で他の店は開いてなかったので、その店へ入って、 豪華に好き焼きランチを注文。
料理を待つ間、 仲居さんの着物姿の所作 を見ていて、あっ!
もう一度、はし袋を見る。
ざ○○...もしかして?
年配の仲居さんに開いてみる。
「もしかして、昔、 このお店って、 赤坂にあったざ○○さんですか?」
「あ、そうです。 赤坂の店は、もう閉めてしまったんですが、同じざ○○でございます。 お客様、赤坂のざ○○をご存知ですか?」
「私、40年ぶりに日本にもどって来たんですけど、若い時に、連れて行って頂いたことがあって、今、 もしかして? と思って。」
「そうですか。 ありがとうございます。どうぞごゆっくりお召し上がり下さい。」
懐かしい。
若干23才でシンガポールへ渡った私が元気に日本料理店で働いていたときである。父が、 余命3ヶ月かもしれないという知らせを受けて、契約延長すべきか否か と悩んでいた時だった。
当時、働いていた店の常連Kさんに気づかれてしまった。
「クニちゃん元気ないね、どーした?」
店が終ってから、相談した。
「すぐ帰りなさい。」と言われるかと思ったら、彼の言葉は逆だった。
「クニちゃん、キミは、別に美人でもない。英語が上手いわけでもない。何か特技があるわけでもない。そんなキミが海外でこうやって仕事していられるのは、なんでだかわかる?」
「... 」
「キミは、自分に自分の力量以上のハードルを課して、それを乗り越えようとするから。 頑張る人だから、 だから、こうしてなんの取り柄もないのに海外でやっていけてるの。 なのに、なんで、そのハードルを自分で はずしちゃうの?」
なんの取り柄もない とくり返されたことと、 こういう内容であったことは、 今でもはっきりと覚えている。
うちのお父ちゃんも、 死ぬ前に自分で立ち上げた工場をもう一度見たいと言って、兄におんぶされて、工場内を見て回った人である。
反対を押し切って海外へ出て行った私が、突然仕事を放り出して帰国することなど望むまい。
私は帰国しないかわりに毎日、手紙を書いた。毎日毎日。シンガポールからまともに郵便が届くのか分からないけれど、それでもいい。当時の医療は、本人に告知はしないから、病気のことは書かない。私の仕事のことや、シンガポールの暮らしのこと、あれこれ、届いても届かなくてもいい。書いた。
母が言っていた。「お父さん、毎朝ポストの掃除してるのよ。」と。
そして、 父は生きた。 それから2年半以上生きて、私が任期満了して帰国するまで生き、孫の顔も見てくれた。
私がその時、導かれるようにざ○○に入ったのは、 偶然だが、ふと、あの日を思い出させてくれた。
そろそろ、ゆっくり、低いハードル置いてみようかな?