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ジュディス・バトラー『アセンブリ』論

前回の記事では、ジュディス・バトラーの『アセンブリ』の概要を記した。もう一度要点を述べておけば、『アセンブリ』は集会(アセンブリ)についての論考である。人々が集まるだけで、その身体性が行為遂行的なメッセージを発するのだ、というのが本書の主張であった。身体そのものの行為遂行的なメッセージ性という点に、ここでの集会論のラディカルさがある。

本稿では、『アセンブリ』の日本語版副題ともなっている「行為遂行性・複数性・政治」の中でも、特に「複数性」に焦点を当て、『アセンブリ』の「ためらい」を探っていく。

〇仲間外れの「複数性」

前回、本書のキーワードとして、「行為遂行性」「複数性」「政治」「可傷性」「不安定性」を挙げた。

このうち、「複数性」だけが異質である。「不安定性」有した可傷的な人々が集会を持つことで行為遂行的な政治的メッセージを発する、その一連の流れの中に、「複数性」は特に必要とされないはずなのである。言うなれば、「複数性」だけが5つのキーワードの中で「仲間外れ」なのではないか。

私は前回の記事で「複数性」に関して、「主張がたとえバラバラ=複数であっても集まることが行為遂行的な意味をもつのだ」と説明した。もちろん、この説明が間違いであったとは考えていない。しかし、私はここで故意にいくかの問題点を無視して説明を続けた。

たとえば、次のような単純な疑問がありうる。
①意見が一本化された方が、集会としてのメッセージ性は強くなるのではないか?

たしかに「複数性」はあってもいい。しかし、なくてもいいようなものではないだろうか。むしろ、一致団結して抗議を行った方が、「不安定性」を抱えた人々の要求が通りやすくなるのではないか?

この問いは恐らく、次のような問いにもつながっているだろう。
②なぜ『アセンブリ』という集会について説いた本に、集会の「質」や「中身」についての言及がないのだろうか?

②の問いが具体的にどのような意味を帯び、①の問いと接続されるか。のちに詳しく触れることにして、いったん次の話題に移ることにしよう。

〇『アセンブリ』の語り口

本書において、物事は基本的にsein(ザイン:である)から語られている。sollen(ゾルレン:べきだ)論は影が薄い。人々の集まり(アセンブリ)は根源的に行為遂行的メッセージを発するのであるというのが『アセンブリ』の主張だ。「複数性」についても同じである。「不安定性」を抱えた人々の連帯は、複数的なものである。複数的であるべきだという議論は、『アセンブリ』にはない(ただし本稿では原文を参照していないため、翻訳によるニュアンスのずれなどは考慮できていない)。

たしかに「複数性」は『アセンブリ』の強みである。「近接性」を倫理的根拠とするコミュニタリアニズムに対して、「不安定性」による連帯はグローバルかつ横断的なものだ。

加えて、本書が問題視する、権力による「生政治」(フーコー)あるいは「死政治」(ムベンベ)に対しても、複数的な身体は重要な抵抗の契機となり得る。諸個人の身体を管理するためには彼らを均質化・数量化し、データとして処理していくのが最も効率的だが、集会におけるバラバラの身体は、まさしく行為遂行的に、そうしたデータ的な管理に対して「否」をつきつける。

それでもなお『アセンブリ』は、集会は複数であるべきだとは言わない。本書が複数性について「べきだ」を用いるのは、次の引用のような微妙なニュアンスにおいてである。

第二に、私たちは、単一の種類の行為へと合致すること、あるいは単一の種類の主張へと還元することに失敗するという仕方で自らの収束性かつ離散的な諸目的を行為化する諸身体の複数性を想定することで、それらの行為を複数的行動として考えることができなければならない。(「「私たち人民」―集会の自由に関する諸考察」205ページ)

引用部では、たとえ集会がある単一の主張を行っていたとしても、それぞれの身体の複数性がそれを裏切るだろうということが述べられている。つまり、「語り」と「身体」とのギャップである。それはそれで面白い議論なのだが、今は措く(単一化できない身体は、言語表現の統一可能性を逆照射する)。ここではバトラーの語り口に注目したい。

ここでも、身体は複数的であると述べられている。たしかに、厳密な意味で同一の身体はあり得ないかもしれない。しかし、その差異が「誤差」の範囲にとどまる事態は容易に想像できるし(※)、たとえば戦争は諸身体の複数性を無視して人民を単一的な兵士に還元する。複数性は所与のものではないのである。

※たとえば、ホモソーシャル的だと批判される集団を想定しよう。多くの批判は、女性を排除したその集団の均質性に向けられる(女性のホモソーシャルな集団というのも想定はできるが)。そうした集団においても、本当に厳密な点で言えば均質性は成立してはいないのだが、諸個人間の差異が「誤差」にとどまっているからこそホモソーシャルな集団だという批判を受けることになるのである。

ところが本書では、複数的であるべきだという言い方がなされず、複数性を有した諸身体による行為は複数的なものだと想定できなければならない、という言い方が採用される。しかも私たちは、「単一の種類の行為へと合致すること、あるいは単一の種類の主張へと還元することに失敗するという仕方」、という遠回りな方法でその想定にたどり着くのである。

ここで、3つ目の問いが生起する。
③なぜ『アセンブリ』では、率直に集会が複数的であるべきだと言われないのか。なぜ集会の複数性を述べるのに、ここまで回りくどい言い方をするのだろうか。

先ほどの引用と同じような語り口は、別の部分にも見受けられる。

「現れ」は、可視的現前、語られた言葉を指し示しうるが、またネットワーク化された代表や沈黙をも指し示す。さらに、私たちはそうした行為を、唯一の種類の行為、あるいは唯一の種類の主張への厳格な一致を必要としない仕方で収束的目的を行為化し、全体として唯一の種類の主体を構成しないような諸身体の複数性を想定することで、複数的行動として考えることができなければならない。(「私たち人民」―集会の自由に関する諸考察」213ページ)

ここでは先の引用よりも積極的に単一性が斥けられている。本稿の①の問いの回答となり得る部分だ。『アセンブリ』は単一的な集会のあり方を避けようとしている。

しかし本書では、なぜ単一性が斥けらるのかについては述べられず、ただ身体は複数的であると論じられるのみである。そして、先ほどと同じ主張が繰り返される。私たちはある「想定」を通して、行為を「複数的行動」と考えることができなければならない

この「複数性」に関して、訳者の佐藤嘉幸による「解説」では、次のように述べられている。

言い換えれば、集会やデモにおける人々の政治的意見の複数的行為化は、人々が互いの間で差異を保ちつつ共同で行動するだけではなく、平等原理、水平性、あるいは「横断性」(ドゥルーズ=ガタリ)を体現するのである。(324ページ)

卓見である。この「解説」を踏まえて、改めて①の問いを変換しよう。
①’なぜ複数的であることを主張しなくてはならないのか。

〇『アセンブリ』のためらい

ここまでで、『アセンブリ』の「複数性」について、3つの問いが提出された。
①意見が一本化された方が、集会としてのメッセージ性は強くなるのではないか?
→①’なぜ複数的であることを主張しなくてはならないのか。
②なぜ『アセンブリ』という集会について説いた本に、集会の「質」や「中身」についての言及がないのだろうか?
③なぜ『アセンブリ』では、率直に集会が複数的であるべきだと言われないのか

①の問いから考えよう。たしかに個人が均質化・等質化されればそれは全体主義につながり、さまざまな悲劇を生み出すだろう。だから「複数性」が主張されなければならない。これはわかりやすい。

「可傷性」「不安定性」は多くのマイノリティーをつなぎうる横断的な概念だが、その横断性ゆえに全体主義と紙一重でもある。「複数性」の導入は、それを避ける意味もあるのだろう。

より具体的に言えば、私が関心を持っているのは、いかにして不安定性―それは媒名辞であり、ある意味で媒介する用語である―が、他の手段では多くの共通点を見出せない人々の諸集団や、互いの間に時には不信や敵対さえある人々の間で、連携の場として機能しうるか、あるいは機能しているか、ということだ。(「ジェンダー・ポリティクスと現われの権利」39ページ)

引用のように、「不安定性」はジェンダーやセクシャリティといった概念よりも広い範囲を包摂し得る「媒名辞」として考えられている。それゆえに広範なマイノリティーの連帯を可能にするわけだが、同時に誰もが「不安定性」(あるいは「可傷性」)によってつながれてしまうこともあり得る。

たとえば、ナチスドイツや大日本帝国がある種の「被害者意識」によって結ばれたことを考えるとき、この危惧が杞憂ではないことが分かるだろう。

加えて、物理的な空間は集会を制限するものではない。つまり、「同一空間に集まった人々による連帯」という形で連帯の範囲が制限されることはない。

『アセンブリ』がレヴィナスと距離をとっているのは、その「近接性」のゆえであり、その上で「遠く離れた苦痛に倫理的に応答する能力」(132ページ)が問われている。物理的な距離の制約は、むしろ『アセンブリ』が乗り越えようとしているものなのである。そのため、本書では監獄にいる囚人との連帯までもが主張されている。

要するに、本書における連帯の論理は広範かつ強力な包摂性を有しており、恐らく万人による万人との連帯を可能にするものなのだ。

だからこそ、「複数性」が前景化されなければならない。『アセンブリ』の理論はそのラディカルさゆえに、簡単に権力の側に簒奪され、利用されるものだからである。あるいはそうでなくとも、集団化した人々は人を傷つける力を持ち得る。バトラー風に名付ければ、集会は「可傷性」に加えて「加傷性」をも有しているのである。

だが、「複数性」を導入したからといって「加傷性」の危険を完全には排することができない。むしろ、「複数性」によって「加傷性」が呼び込まれることすらある。

結局のところ、私が支持したいわけではないすべての種類の押し寄せるマルチチュードが存在しており(たとえ私が彼らの集会の権利に異議を唱えないとしても)、彼らはリンチを加える群集を、反ユダヤ主義を、レイシズム、あるいはファシズムの集会を、そして暴力的な形式の反議会主義的大衆運動を含むかもしれない。(「私たち人民」―集会の自由に関する諸考察」236~237ページ)

おそらくこの引用部では、『アセンブリ』の直面する最も困難な局面が想定されている。引用部から分かるように、『アセンブリ』ではこの種の集会に「NO」と言わない。代わりに、「私が支持したいわけではない」「たとえ私が彼らの集会の権利に異議を唱えないとしても」など、これまた迂遠な言い方がなされている。

なぜ「NO」と言わないのだろうか。いや、言えないのである。

なぜなら、これら暴力的な集会は「複数性」の概念が不可避的に孕む可能性だからだ。「複数性」の一部を制限してしまえば、「不安定性」の持つ横断的な包摂力は半減してしまうだろう(※)。

※『アセンブリ』では「「私たち人民」―集会の自由に関する諸考察」の終盤で「非暴力の必要性が論じられており、これは一見「リンチを加える群集を、反ユダヤ主義を、レイシズム、あるいはファシズムの集会を、そして暴力的な形式の反議会主義的大衆運動」を否定するものに見える。ところがこの「非暴力」は「不安定性」を抱えた人々の集会が「成功」するために必要な条件として導入されおり、やはり集会の形式に制限を加えるものではない。「成功」を問題としなければ、どのような形式の集会も否定されないのである。

これは②の疑問にもかかわる問題である。『アセンブリ』では集会や複数性の「内容」「質」を問わない。なぜなら、それを問うた時点で、純粋な「複数性」からは遠ざかるからである。「Aのような集会がよい」と言ったとき、そうでない集会はそこから弾き出されてしまう。つまり本書は、ある集会における「複数性」と集会自体の「複数性」の両方を重要視しており、そのために時には推奨されないような集会をも黙認しなくてはならないのである。

ここまでくると、改めて③の問いが重要になってくる。なぜ『アセンブリ』は、集会が複数的であるべきだと言わないのか。

恐らく、集会は複数性をもたなければならないと言った瞬間に、複数性を持たない集会を排除してしまうことになるからである。「複数的でなければならない」という主張そのものが単一の価値観を示してしまうのだ。

繰り返しになるが、厳密な意味で複数的でない集会は存在しない。一人一人のもつ身体が異なるからだ。これは程度の問題である。高い「複数性」を持つ集会を評価しようとすれば評価しようとするほど、そうでない集会の位置づけは相対的に周縁部へ追いやられてしまう。『アセンブリ』は社会の周縁部をこそ問題としていたにも関わらず、である。

ここで、慎重な語りが要求されることになる。「複数性」は重要であるが、その重要性を強く主張しすぎてはならないのだ。

ここに『アセンブリ』のためらいがある。これは相対主義が抱えるパラドクスと相似形だ。「すべては相対的なのだ」と言ったとき、その相対性が絶対的な価値へと転換してしまう。「複数的でなければならない」と言ったとき、その複数性が単一的な価値に転じてしまう。相対主義には「強い相対主義」と「弱い相対主義」があるが、それになぞらえれば、「弱い複数性」を奉じる以外にこうした問題を回避する手段はないのである。

『アセンブリ』が「複数性」について語る際のあの迂遠な語り口は、この困難に発しているのではないだろうか。

○おわりに

ここまで、『アセンブリ』における「複数性」とそれが抱えるパラドクスに言及してきた。ここから、本来なら私自身の問題意識と重ねてこの「複数性」を扱うつもりであったが、これ以上記事を続けては少々長くなりすぎてしまう。細かい話はまたの機会に任せて、概要だけを示そう。

私は以前、「成長について」というエッセイ風の記事で現代のポリティカル・コレクトネスが抱えている問題点について言及した。それは、次のようなものである。

現代のポリティカル・コレクトネス的な思想風土における「多様性の尊重」は、もはや「個人の尊重」という域にまで達している。言い換えれば、「わたし」の感性が非常に重要視される時代となっている。

「わたし」の感性を否定できなくなった現代では、「わたし」が不快だと思えばその表象は用いられるべきではなく、「わたし」がハラスメントだと思えばそれはハラスメントである。

たとえそうした表象や行為が批判されるべきものではなかったとしても、原理として「わたし」の尊重をかかげる思想(私はそれをひとまず、「寄り添いの思想」と呼んでいる)は、「わたし」の批判の質や中身を問えない。

これは「複数性」の抱えた問題点に重なるものである。『アセンブリ』では「複数性」を擁護するあまり、暴力的な集会さえ否定することはできなかった。「寄り添いの思想」は、「わたし」の暴力性を問えるだろうか。私には、暴力性が問われる「わたし」と、暴力性が問われない「わたし」が暗黙のうちに分けられてしまっているように見える。『アセンブリ』はダブルスタンダートを回避した。「寄り添いの思想」はどうだろう。

ひとりひとりの「複数性」に寄り添う姿勢はたしかに「正しい」。しかし正しさは、時に正しくない用いられ方をすることを覚えておかなくてはならない。

私の言っていることは反動的に見えるだろうか。しかし、「わたし」に寄り添う思想はその思想の否定者をも否定できない。これもまた、一つのパラドクスである。




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