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被爆三世として生きる~被爆75年目の夏(その1)

2016年オバマ米国大統領の訪問以来、海外からヒロシマへの観光客は激増した。本来なら75年の節目の広島平和記念式典はもっと国内外からたくさんの人が集まったと思う。しかし、ご存じのとおりの状況。式典参列者用に1万席が用意されるところ、ソーシャルディスタンスを保つため招待客用800席のみとなった。

こんなタイミングでもないと8月6日に平和記念資料館を訪れることもないかと思って出かけた。公園内をボランティアで案内してくださる方々も手持無沙汰なのか、あちらから御声をかけていただいた。「どこからきたの?」「あ、いや、その、地元の人間なんですが。」と。ここでボランティアの方に弟子入りして改めてヒロシマを学び直そうと決めた。被爆三世としてこれからヒロシマの歴史を語り継ぐにはどうにも私のいまの知識では心もとない。私の父よりは少しお若いであろう白髪まじりのガイドの新田さんと公園内を歩かせてもらった。以下新田さんに教えてもらった話。

広島っ子として平和学習するのは久しぶりだ。

原爆ドーム(広島産業奨励館)

大正4年1915年 チェコ人建築家ヤン・レッツェルによる設計。地下1階・ドーム部分含めて地上5階。原型の写真をみると左右対称なのだが、今残っているものは原子爆弾がさく裂した画面むかって右側の損傷が激しい。だが、よくみると歪んだ非常階段などはそのまま残っている(建物裏側・トップ画像参照)。原爆投下前は、ここで色々な物産展示が行われていた。日本でバームクーヘン発祥の地は廣島なのだ。というのも、第一次世界大戦で捕虜になり似ノ島に滞在していたドイツ兵ユーハイム氏の焼き菓子がここで有名となり、のちに神戸で店をだすことになった。

平和記念資料館

建築家 丹下健三氏の設計(以下の同様に丹下氏の設計物が続きます) 昭和24年1949年から5年をかけて建築された。この横幅がおおむね280メートル。それすなわち、原子爆弾が投下されて火の玉になったときの大きさと同じにしてあるらしい。1階を吹き抜けにして10本の柱で支えてあるのはピロティという建築手法だが、日本古来の高床式倉庫をイメージしたとのこと。

平和の灯

ちょっと私の写真だと炎が見えづらいのですが、この手前の台座。日本全国35箇所の寺や教会から貰い火したものに、産業・溶鉱炉からも貰い火して合わせたのがこの炎。(よもやと思って調べたら、アメリカ・アーリントン墓地に倣っての炎)炎は核爆弾が地球上からなくなるまで燃えつづけるとのこと。この台座が両手を広げたかたちになっている。核爆弾というのは人間の手が作ったもの。それを無くすのも人間の手でなくてはならないという意味が込められている。私が驚いたのが、余談で教えてもらったこと。ここに炎を灯し続けるのにかかるガス代…月額24万円也。早く核爆弾無くしましょう。

原爆死没者慰霊碑

このアーチ型は古墳時代の埴輪の家型をモチーフにしているとのこと。この石は2代目で今は8トンの御影石が使われていると。四角い石棺に彫られている言葉は建立当時の浜井信三・広島市長が懇意にしていた広島大学・雑賀忠義(サイガ)教授が一晩で書き上げた『安らかに眠ってください 過ちはくりかえしませんから』(過ち=戦争)を受けて即決。(ただ、後の世でこの碑文に主語がないから問題であるという論争もあったことは私の豆知識として申し添える。)このまわりは水が張ってあるのだが、その底に8か国語で同じ文言が銅板に刻まれている。「水を、水…」と亡くなっていった犠牲者を弔う意味で水が非常に大切にされている。また、この石棺には原爆で犠牲になった国内外の人に合わせて、原爆手帳を所持していた人の名前も納められている。名簿へ毎年5000~6000人の名前が追加されているそうだ。

アーチの中を覗くと一直線上に原爆ドームが見えるのにお気づき頂けただろうか。原爆ドーム、平和の灯、原爆死没者慰霊碑、平和記念資料館が一直線上に中心線を同じくして並ぶという設計になっている。これを『命の線』と丹下氏は名付けた。建物疎開で広く拡張された平和大通り・通称100メートル道路を渡ると土谷病院にぶつかるのだが、その命の線に重なる部分だけ壁が白くしてある。

原爆の子の像

爆心地から1.6キロで2歳半で被爆した佐々木禎子さんを模してつくられた慰霊碑。​12歳で白血病を発病して8カ月の闘病の末に亡くなった。その最初は名古屋の女子大生が「千羽折り鶴を折れば願いが叶いますよ」と日赤病院にお見舞いで贈られてきたもの。それを聞いた禎子さんはゆうに千羽を越して折り鶴を折り続けたものの願い虚しく亡くなった。以来、慰霊に訪れる方々からたくさんの折り鶴が寄せられている。年間1000万羽・10トン。60トンほど広島市で保管していて、それを再生紙にして広島の小学生の卒業証書等にして再び生き返らせているとのこと。ここも鐘を鳴らすことができる。かわいらしい鐘の音であった。日本初のノーベル賞学者・湯川秀樹氏の直筆が刻まれているとのこと。(以下に内部の写真を添える)

では、主だった平和公園内の建物、慰霊碑はここまで。その2へ続きます。

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