日本語でよかった
子供の時から歴史、言語、異文化などに興味を持っていた、好奇心の強い私はスロバキアで生まれた。
高校までに様々な言語に手を出し、高校の時に翻訳の仕事をしていたから、周りのみんなに相当期待されていた。
「国連で働ける」
「EUの政治の通訳になれる」
などとよく言われた。
そんなことばかり言われていて、チャンスあるじゃん!と私まで思うようになった。
しかし、同時に、もやもやしている気持ちになっていたというか違和感を感じた。
すべてのレールがすでに引かれているように感じたからだ。
高校四年生になった。
卒業試験までにあと数か月だけなのに、大学で何を専攻していこうかと考えないといけないし、ついでに入学試験向けの勉強もしないといけない。とても多忙な時期です。
将来性を考えながら、自分は勉強したい、興味がありそうな分野などをいろいろと探っている時期でもあった。
そこで、私は(皆さんからしたら)意外な決意をした。
ヨーロッパの言語がどれも似て過ぎていてつまらないのでアジアの言語を勉強しよう!そうだ!日本語でも勉強しよう!!
と当時ちょこっとアラビア語に手を出していた私はただの直感で決めた。
もちろん、周りは私の決定を理解しなかった。
あるチェコの大学では、ダブルメージャーというちょっと独特な制度があることを知った。日本語と中国語のダブルメージャーつまり専攻二つを同時に勉強できるのでその大学がいいと決めたときに変な目で見られた。
「お茶の葉っぱ(漢字のことを示す表現)を勉強すんの?!」
「自殺行為じゃん!」
と言われるばかりだった。
確かに、ゼロから、しかも同時に勉強するコンビネーションじゃないかもしれないけれど、私の中ではもう最高に面白そうなことになっていた。
その時まで学習してきた言語は以外と素早く覚えたので、ちょっとした自信があったかもしれない。その専攻の大変さを舐めていたのかも。いや、心の準備はできていた。
テストに向けて、スロバキアの学校で習っていない日本の歴史や文学や事情などを自分でネットで調べてひたすら読み続けていた。
そして、入学試験に受かりました。
しかも、最初に来た通知がこの大学からだったので、もう運命だと感じ、進学する大学は私の中でもう決まっていた。
入学し、勉強漬けの日々ばかりとなった。
しかし、ありがたいことに、先輩たちとすぐに仲良くなったおかげで、日本人の留学生と最初から交流ができた。もちろん、日本語が話せないのは私だけ。
日本語があまり話せなかったが、先輩たちが通訳になってくれていたおかげで、日本人コミュニティに入ることができた。
チェコは外では特にやることがないため、みんなで自炊したり、ビールを飲みに行ったりすることが多かった。
こんな感じで、私の日本語が少しずつ伸びるようになり、三年生の時はもう普通に会話ができるようになっていた。
一方、中国語は、一緒に話せる相手がいなかったので、知識は授業の内容で留まっているままだった。
チェコにいただけで、日本語が話せるようになったのに、中国語はそうでもなく、むしろ留学に行かないと話せないまま卒業を迎えることが判明。
これはいやだった、嫌すぎた。
そのため、日本じゃなくて中国に留学しようと志した。
気づけば二年生の時から、中国しか視野になかった。
両言語を堪能できれば、就職に困らないと思っていたからだ。
しかし、ダブルメージャーで勉強していれば、ある罠に引っかかる。
どっちかの専攻を優先にしないと、両言語が中途半端になるという罠だ。
選択肢があってすっごくいいのに、どっちもペラペラになるわけがないのようだった。
だから中国へ行きたいと思っていた。
チェコの大学は普段は普段3年だけなんだけど、ダブルメージャーの場合は4年で卒業する人がほとんどだ。あまりの授業の多さと留学も重なることで、3年で卒業を迎えるのはほんのわずかの学生だ。
3年生になった。
そして、留学試験を受けようと思った。
日本語は文部科学省の留学へ挑戦し、中国語はスロバキア人で中国に行ったことがなければ誰でも受かるらしき試験を。
文部科学省の試験が非常に難しいため受かるかはもう運次第だけど、受けてみても損はないはずだと思い、中国に行きたいと思っていたのに、そっちも申請してみた。
そして2月(?)がやってきた。
冬のチェコが寒すぎる。そして私が体調を崩してしまい、肺炎になってしまった。
しかも、両方ともの留学試験は同じ日に決まったっぽい。
それがいいのか、悪いのか、分からぬままなるべく体調を直そうとしていた。
が、当日もすっごい熱で、早朝に起きて試験を受けるためにスロバキアの首都へ向かう。
ブラチスラバ駅に着いた時、もしも友達が迎えに来てくれなければ、たぶん速攻帰り電車に乗っていたかもしれない。
しかし、いた。
そして、まずは、中国留学のための面接に連れて行ってもらった。面接なので、話さないといけないのに、酷い咳が止まらない。
あ、死にたい、と正直に思った。
会場には、16人がいた。留学に行けるのは、15人。
おお、チャンスじゃん!
しかも!中国に行ったことのある何人かもいることがわかる。
やったじゃん!これはもう確定!!!
とちょっと喜んでいたが、緊張感がどんどん増えるだけだった。
私の出番になったので、面接が行う部屋に入り、挨拶をし、席につく。
審査委員が私の申請書などを見ながら、様々な質問してくる。
やばい!
頭がふわふわしている!!回らない!
だけど、質問に答えないといけないうえ、中国語でのちょっとした会話までにも至る。
下手だ、私。
そして、最後に他の留学にも申請したかと聞かれる。
正直者の私は、直に日本語の文部科学省の試験を後ほど受けると伝えた。
「じゃ、もしも両方ともの留学が受かれば、どちらにしますか?」
「中国です!」
「へ?」と審査委員の目が丸まってきた「日本語の留学の方がずっと名誉あるのに、普通だったらそっちにするでしょう??」
「しかし私は中国に行きたいです。」
「んーーー」
というふうに面接が終わった。
友達に面接の感想について聞かれたとき、「咳でむせなかったのは、唯一のいいことだ」としか答えられなかった。最後の質問でめちゃくちゃ疑われている気がしていたし、正直に中国語も普段より下手だったからね。
そして、日本語のテストを受けに行ったが、当時の私にはまだ難したかった。
これはダメだろうな、とテスト中にわかった。
テストが終わったあと、中国語の方へ戻り、結果を聞きに行った。
通常通りだったら、絶対受かっているはずだ。これは先輩たちにもものすごく言われてきた。
だが、
結果を聞いた途端、すぐに泣きたくなった。
私だけが受からなかった。
膝が折れそうになり、体調を勢いで乗り越えてきていたのに、いきなりパンチを食らった。精神的にも、身体的にも。
涙を抑えながら、帰り電車に乗り、大学の町に帰った。
そして、ずっと泣いていた。悔しくて悔しくてしょうがなかった。
私だけ、私だけ中国へ行けない・・・
この話題が出てくるたびに、半年間も涙が出てくるほど悔しかった。
留学に行けないうえ、大学に所属している孔子学院でバイトしているのに、中国語でなかなか会話できない私がいるので、中国語はもう無理じゃないかと思った。
今、振り返ってみると、私が甘かった。体調が悪いことを言い訳にしていたからだ。もっと自己紹介などの準備をすべきだったし、審査委員にもっと私の情熱を見せるべきだったと思う。もっと戦うべきだった。
しかし、この悔しき失敗も、大きなターニングポイントとなった、と今になって思う。
中国留学に行けなかった私が、大学での時間が余り、その分は日本人との交流を深めたし日本語がさらに上達したし、孔子学院でいい成績を残し、学院長として働かないかとオファーされるまでだった。
その二年後に大学院で日本に留学した。縁があったおかげで、様々な日本文化に触れ、様々な地方を訪れることになった。とっても楽しかった。
そして、Twitterを日本語で活かし、世界中にいる日本人または日本語が話せる人たちとの出会いに恵まれた。
さらに
2年半前に、日本語の上達を追求し、noteを書くようになった。
たぶん、あの時、中国に行っていれば、ここまで日本と日本人の皆さんを知ることがなかっただろうし、日本でのちょっとしたモデルや大臣の通訳などの経験がなかっただろう、と今は強く思っている。
たぶんじゃなくて絶対にね。
あの試験の失敗は、交差点での目印みたいなものだったに違いない。
だってどの国に行っても素敵な日本人との出会いがあったし、貴重な現地の話を聞かせてもらえたし、現在タイのバンコクでも毎日日本語を活かし仕事をしながら、とっても楽しい日々を送っている。
あの失敗があったからこそ、今はある。
日本語でよかった。
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