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目指した先の地獄 -高学歴ワーキングプアへの道のり-

次のような記事をよく目にするが、その度に心が痛むし、自分が本当に運が良かったと心から感謝している。

僕が大学院修士課程(正式には博士前期課程)に入学したのは1976年で、何故学問を目指したのかというのに、崇高な気持ちはなく、単に卒業して就職するのが嫌だったというだけの話で、その間の事情は次の記事に書いているので、このいい加減な奴の思いを読んでいただきたい。

さて、僕が修士課程に入学後、今の地位にたどり着くまで、どんな道のりを辿ったのかを書くと、冒頭の記事のような悲哀が何故生じるのかが分かるかもしれないと思い、またもや長文をご披露することにした。

修士課程の授業料(文系)は、同じ大学の大学院の場合入学金が不要で、授業料だけで20万前後だった記憶があり、最初の1年分の支払いは親にしてもらい、奨学金やバイトの目途が付くまでの数か月間も親からの仕送りを受けていて、月5万円程度だったと思う。当時は江戸川区春江町の風呂なしの超おんぼろアパートで家賃が月に光熱費込で1万2000円くらいだった。バスとJRを乗り継いで大学(四ツ谷)までちょうど1時間くらいで、本当にカツカツの生活をしていた。
先ず、アルバイトが最初に決まった。帰路の途中のJR新小岩駅北口から徒歩15分くらいにある学校の補習を行う小さな学習塾で、時給は1200円から始まって、あとで少し上がって1500円くらいになるが、当初は週2日(何曜日かは記憶にない)教えて、月3万円弱の収入を確保した。小学校の国語と算数に中学の英語を教えていたが、英語はともかく、算数と国語は結構予習をして、生徒と一緒に勉強する気分だった!
大学生の頃は、いろんなバイトをしたが、時給はせいぜい300円から400円程度が上限で、大学院に入って塾の求人(大学院の事務室にバイトの求人が来ていた)の時給(ほとんど1000円以上で、大手の予備校では3000円超えるところもあったが、これは科目の専門家で博士課程の学生に限る求人が多かった)を見て、これは効率良く稼げると安心したのであった。次に育英会の奨学金で、これは親の収入が上限ぎりぎりであったが、何とか貰えることになり(月4万5千円)、これで親からの仕送りは不要となって、ようやく親から自立したと本当にうれしく思ったものだった。

生成文法などという、大学院に入ってから選択した学問分野のおかげで、先ず最初のピンチが訪れる!どうしても2年では修士論文が書けなくなった!もちろん勉強不足がメインであるが、やはりバイトと勉強以外の活動(競馬、麻雀、お酒など)が理由で、論文の提出だけで1年余分に修士課程を過ごすことになったのだが、さて、生活費をどうするかが大問題であった。4万5千円の奨学金がなくなり、月3万円程度のバイトと、たまに不定期でやっていた翻訳(某洋書専門の書店からの依頼で、洋書のカタログ用に向こうから送られてくる概要を翻訳する仕事)では足りないので、もう1軒塾のバイトを探すことになった。講師募集の求人や伝手も頼りに何か所か面接を受けて、四谷三丁目にある進学教室で英語の講師を週2回勤めることになった。ここは、その後専任講師の職が決まるまでお世話になったところで、時給は1600円から始まって、最後は2500円くらいまで行ったと思う。

時系列で言うと、1978年以降で、1986年に始まったとされるバブル景気の前兆を感じ始めていた。ただし、本格的に生活が楽になったのは、博士課程に入ってからであった。

さて、修士課程を修了してどうするか?就職(出版社とか学習塾とかいろいろ)も考えたが、もうしばらく東京での生活を楽しみたいし、博士課程1年目で女子短大の非常勤講師(1コマだけだが)をさせてもらえるようになり、生活費にも困らなくなってきたので、博士課程に進学することになった。ただし、奨学金の返済ということは考えないといけないので(今のような高利貸しの仕組みはなく、借りた分だけを返済するし、免除職の制度があって、指定された教育・研究機関に専任で勤務して15年間で返還が免除されるという今はなき制度)、問題は免除職に就けるかどうかで、まだ自信がなかったため、博士課程1年目では、すでに修士課程で借りた100万ちょっとがあるし、あまり借りては返済も大変なので、当初は奨学金を借りなかった(借りておけばよかったのだが!)。

日本の奨学金制度改悪の最たるものがこれだと思っていて、ここから日本の学力・研究力は大幅に低下したと言ってもよい。最近になって給付型の制度が創設されているが、学力はともかく、給付の対象になる家計水準が厳しくて、普通の家庭の子女は貸与型(免除職の制度がない)を借りなければならない。我が家の長男も地方の国立大から修士課程に進学した際、修士の2年間は貸与型を借りたが(月8万円)、博士課程に進学して研究者なんか目指さず、無事或る程度の収入がある職に就いて、返済にそんなに苦を感じないでいるのは幸いである。

しかしながら、当時の博士課程修了者、ただし殆どが学位論文は提出せず(できずと言った方がよいかもしれないが、このことについては別の機会に)、課程の単位だけを取得する満期退学と呼ばれる修了であっても、修了後すぐや、数年間のOD(オーバードクターと呼ばれ、非常勤講師(プラスα)だけで生活する期間)を経れば、ほぼ全員が何らかのポジションに就職できるのを見て(ただし女性には若干厳しかったのも事実)、ついに僕も何とかなるだろうと、免除職に就けることを目指すことにして、2年目から奨学金を借りることにした。その博士課程2年目に入るときの僕の月収はだいだい次のような感じであった。月額:育英会奨学金7万、塾のアルバイト(少し担当時間が増えて)5万ちょっと、短大の非常勤講師(月給制だった(下に注))1万6千くらいで、ついに最初の新小岩の塾は辞めて(やはり学業と趣味の時間が少なくなるので)も14万くらいになって、最初のぼろアパートから新小岩駅から徒歩20分くらいの風呂付新築で家賃3万7千円の1DKのアパートに引っ越すことになった!(総武線沿線は、中央線や小田急、京王沿線に比べ、1万以上は確実に安かったし、下町の場末的な雰囲気が好きだった)

注:当時、関東圏の大学の非常勤講師の手当は月給制のところが多く、1コマ担当で月1万5千円から2万弱くらいで、夏休み・春休みの月も支払われる仕組みだったが、こちら九州圏では純粋に1コマいくら(だいたい1万円前後)で担当した回数で支給される方式が多い。今は関東圏はどうなっているかは不明である。

問題はその後である。1982年に博士課程を満期修了予定も就職が決まらず、上でも述べたODの期間に突入するのだが、奨学金の返済という問題は次のようにクリアーした(というかしなければならなかった)。満期退学の要件を満たした状態で退学せずに休学するというもので、これには在学証明が貰えるので、在学期間を延長していることを育英会に届けることで返還猶予され、大学院に対しては休学の手続きや研究室にロッカーなどをそのまま使用することや、博士課程の科目などの継続聴講も認めてもらえること(暗黙かも?)に対して年8万円程度支払えばよく、まあ就職が決まるまで永遠(というわけにはいかないが)にでも続けられる制度があった。おまけに学歴的に満期退学の要件を満たしていれば、休学とは言え在学中の院生を非常勤講師として採用してくれる大学が多く(今は厳しくなって、そういう大学は少ない)、1986年にいよいよ専任の職を得る前年には全部で10コマ、4か所の大学で非常勤講師として働いていた(他の大学からも誘われていたが断っていた)。おまけに塾のバイトも週3日で時給も上がり、大学受験の英語の個人指導のクラスなんかも担当して、月に10万以上稼ぐようになり、家庭教師である有名私立校の女子を指導して、これがなかなか条件が良く月5万程度、おまけに浦和市の社会人講座を隔週で担当し、これが月2万、果ては某大手進学教室の夏や冬の合宿講習の講師なんかもやって、これもそこそこの臨時収入で、年収でだいたい500万近くは稼ぎ、ODになるまでは学生として支払い猶予を受けていた国民年金の掛け金も支払うようになり(もちろんその分受け取る額は少なくなっている)、きちんと確定申告をし(税金の話は面白いのがあるがこれは別の機会に)、中古のクルマを1台所有するまでになった。アパートの家賃は最後に出るときに、駐車場込(アパート(部屋は1階)のドアの目の前)で49000円であった。

さて、上記の豊かな生活は、専攻が語学系だから可能だったわけで、理系の友人はあまりいなかったが、哲学、心理学といった科目を専攻する友人の場合は、そんなに多くの非常勤の職にも恵まれず、塾のバイトや高校の臨時教員(やはり時給は安い)などで食い繋いでいた(僕は教員免許を持っていなかったが、こういった分野で教員免許を持っていないと大変だった)。しかしながら、OD2年目の10月に30歳になったころから、やはり不安が訪れるのであった。

いくつまでこの生活を続けるのか?もしくは続けられるのか?彼女はいたが、結婚できるのか(結局専任での赴任先が佐世保ということで別れたが、実は大学院に入るときにもその前の彼女に振られた)?このままの生活で体がもつかどうか?4か所の非常勤先の大学は、当時の大学の郊外化の煽りで、本厚木、高尾、東浦和(この後に浦和の社会人講座へ)、市ヶ谷、塾は四ツ谷3丁目、家庭教師先は東池袋で。新小岩駅徒歩20分(疲れていてゆっくりだと25分以上かかるときも)の人間の行動範囲としてはすごいことになる。とくに本厚木と高尾は駅で降りてからさらにバスだった!

(本厚木では1時間目があったので、新小岩駅を朝6時37分の新宿方面の各駅停車(今でも覚えている)に乗って、新宿を7時20分から40分のあいだの小田急の急行(1本待ってなんとか座れたが、帰路の本厚木~新宿は座れなかった)に乗って何とか間に合っていたので、アパートを出るのは6時15分より前でないといけなかった)

22歳で就職を蹴って、大学院に進学したときは、若気の至りで何とかなると思っていたが、さすがに30歳になってみて、将来に不安を感じたのは、まあ焼きが回ったとしか言いようがないが、ついには、年齢制限を課してしまったのである。熟考の末に、35歳の誕生日過ぎまでに教育・研究の職に就けなかったら、他の働き先を探そう。実は、バイトしていた塾の関係者の小さな出版社が、給与は安いけど(それに大学の非常勤も2コマくらいなら兼業可能とのことで)、いつでも来ていいよと言ってくれていて、恐らく35歳になって、まだプーだったら、そこに就職していたと思う。

しかし、OD4年目の夏過ぎに、恩師の一人から、佐世保にある公立大学に書類を出しなさいと言われ(その前も数か所出したがダメだったし、当時は広く一般に公募するより、一本釣り的に有力な大学に声をかけて、数名に書類を出させ、そこから選ぶことが多かったので、今回もどうかなあと正直自信がなかったが)、秋になって、面接をするとのことで、選考委員数名がわざわざ東京まで来てくれて(東京に他の候補がいたためだとあとで分かる)、その数週間後に内定の通知を受け取ったときは、本当に天にも昇る気分だった!少しだけエピソードを!当時は就職先の紹介にも年功序列がある程度幅を利かせていて、僕の1年先輩になかなか職が決まらない方がいて、その方が決まるまでは、なかなか僕に話がまわって来ないかなという状況だった。それで、同じ1985年の少し早い時期に、同じ恩師が北海道の国立大学をその方に紹介して決まり、ようやく僕にも話が回って来るようになったかなと思っていた。しかし、よく考えてみると、その方に佐世保の話が先に来ていれば(結構時期は接近していた)、僕が北海道の可能性があったわけで、その後別の科目でその大学に赴任している友人宅を冬に訪れた時、その寒さと雪のすごさを見て、ここでなくて良かったなあと思ったものだが、もちろん当時はどこでも喜んで赴任するつもりだった!

ただし、佐世保の大学に決まったあと、年収的には手取りで150万近く下がったのは事実であるが、安定を考えれば、それを補って余りある。

あの当時、正直言って、僕が専任職に決まったのは、半分運(というかタイミング)で、半分人脈(紹介がなければ決まらない)で、僕個人の業績の部分はほんのわずか(学歴や業績が形式的に年齢に見合った数を満たしているかどうか程度:一応論文は書いていた)だったが、まわりには、留学先から帰ってきても(僕は語学研修のような留学はしたが、向こうの大学に長期で留学したのは、専任職が決まってからだった)、タイミングが悪くなかなか決まらず、中には非常勤講師(プラスα)だけの生活を続ける方もいたが、それでもその数はごくわずかだった!それに比べ、今は冒頭の記事の方のように、ある年齢を過ぎると恐らく一生非正規(もしくは任期制)の職しかなくなってしまい、そのような方の数が急速に増えているのである。何故ある年齢を過ぎるとなのかは、これは大学側の事情であるが、大学の職制として、助教(または講師)、准教授、教授と経験年数と業績によって職位が上がって行き、採用時にはその年齢に見合った職位の方を採るわけで、それまで非常勤講師の履歴だけしかない方をいきなり教授では採れないわけで(官公庁の天下りの教授は増えているが)、年齢相応の職位が可能な方を採用することになる。その意味で雇用期限のない専任教員として採用される年齢の限界は40代後半までであり、それ以上の方には任期が期限付き(だいたい5年以内)の講師の職(給与は期限がない専任職に比べかなり低い)くらいしかないのである。逆に高齢でも教授で採用される方は、すでに別の大学で教授の職にあり、学問的事情で必要とされる方が移ってくる場合が殆どである。僕は本当に運よく32歳で専任職にありついたが、現在僕が在職している大学でも、他大学の専任教員を経験していなくて、初めて専任教員として採用される方の年齢も相当高く、30代前半は少ない方で、30代後半から40代前半が多く、やはり40代後半だと、別の大学ですでに専任教員をしている方が多くなる。

さて、長々と書いて、何が言いたいか!
この大学教員の世界を実力の世界だと言ってしまえばそれまでだが、それだとかなりの絶対数が一生非正規の生活を余儀なくされてしまう。だったら、ある年齢に達したら諦めるべきかどうか?僕も若い頃はそう思っていたし、実際そうかもしれないが、この世界は上でも述べたように40代半ばまでは可能性があり、学問・教育的に努力を続けている方をむやみやたらに退場させていては、日本の学問・教育レベルは益々低下してしまう。要するに非常勤講師という制度が良くないのである。

これはスペインの例であるが、本当の意味での非常勤講師は、特殊な科目の担当に限られ、すでに別の本業を持っている方が殆どである。(例えば、建築士とか弁護士としての本業を持っていて、特別な科目を担当できるような場合)それでは、外国語のような科目はどうしているのか?これにはprofesor interinoという制度がある。これは本来は日本で言うところの「臨時教員」に近い感じであり、当初は産休などの事情で休んでいる方の代わりをする教員という意味で使われていたのが(公務員にも同じように使われている)、実際には日本で言うところの非常勤講師に相当する方を次のような契約で採用するものになっている(大学によって結構異なるので、一般論として)。専任教員だけで埋めることができないコマ(だいたい4~6コマくらい)を担当できる方と契約(原則半期か1年単位)するというもので、そのメリットは、日本だと一人の非常勤講師に対し同じ日に3コマ(それもできるだけ続けて)というような配置をしなければいけないところ、週3日拘束されるとし、ある曜日は2時間目と5時間目(本当は時間割の仕組みは日本とはかなり違うのだが、例えとして)、ある曜日は1時間目と4時間目のように担当してもらえる。あと採用される側のメリットは、先ず収入が月給制で保証される(かなり以前であるが、セビジャ大学の日本語学科(gradoと言う)でその職に就いていたスペイン人の友人は週5コマで月800ユーロちょっとだった)、もちろん本当の専任教員に比べかなり低いが、当時はそれだけで何とか生活できる額だった(今は多少上がっているだろう)。次に相部屋(高校の職員室の感じ、小さな個室のこともある)だけど、机、ロッカー、本棚、PCが貸与される。なので、授業の合間の空いている時間に学生の質問を受けたり、研究指導もできるし(本当に向こうの学生は熱心で、日本の学生も見習ってほしい)、そこで研究もできる。もちろん、空いている曜日や夏休み・春休みなどには、別の仕事をしてよい。契約は毎年更新であるが、問題がなければ、先ず更新される。実は、上で収入の例を挙げた友人はその後セビジャ大の専任のポストに空きが生じ、それに応募して、現在は同じ学科の教授(profesor titularと言う)に昇格しているし、そのようなチャンスもあるし、そのような形で雇用していれば、人物や研究内容も単に書類だけで判断するより、しっかりと分かるはずである。

この際、書き難いことも書いておくが、日本の非常勤講師の多くの方が専門学校の講師化しているのも問題である。一つの例を書くが、中国人の方を引き合いに出すことをお許しください。(友人の例で、ほぼ実話である)

もう30年近く前の話であるが、ある中国人の女性の方は、彼の地の大学で優秀な成績を収め、日本の国立大学の修士課程に奨学金を得て留学していた。修士論文も書きあげ、日本での生活が当時(今はそうもいかないと思うが)は素晴らしいものだったので、どうしても日本に残りたいが、いきなり専任のポストはない!すると、それ以前から中国語ブームの中、中国語を教えることができる非常勤講師が不足していて、いくつかの大学から募集が出ていることを知ると、どうすればビザを留学ビザから変更して滞在延長できるかを調べることになる。簡単に書くと、①日本人と結婚している(家族ビザ)、②日本の会社などから正式に採用される(就労ビザ)、③日本の専門学校などの教育機関から採用される(人文知識・国際教養ビザ)、④日本の大学で専任教員または多くのコマ数を担当する非常勤教員を勤める(教授ビザまたは③のビザの資格外活動ビザ)。そこで、非常勤講師を何コマ担当すれば(雇う大学の証明書が必要)、ビザが許可されるのかを調べると、だいたい6コマ程度ということが分かる。そこで、一端中国に帰り、その間いくつかの大学の非常勤講師に応募し、採用され、6コマの基準を満たし、4月から無事に教授ビザを取得し日本に滞在できることになった。その後、その方はいくつかの大学で順調に担当コマ数を増やし、今でも非常勤講師だけで、まあまあ豊かな生活をされている。その方の若い頃に聞いたのは「中国に帰ってもこんなに豊かな生活はできない。日本でこの仕事をしながら暮らせるのは幸せだ」ということだけど、実はこのような方は、中国人以外の外国人の方でも、本当に多くいるのである。

問題は、その方たちではない。その方たちは、自分の能力と資格の範囲で一生懸命生活している訳で、問題はそのような仕組みでしか大学を運営できない日本の教育の仕組みである。
簡単にまとめると、次のようになる。
1. 授業時間以外に学生と触れ合う時間が殆どない。
2. 多くの方たちの研究活動がおろそかになっている。
この問題は、当然日本人で非常勤講師だけで生活している方にも当て嵌まる。もちろん、中には、とくに若い頃は、専任教員目指して、論文を書き、研究発表を続けている方もいるだろうし、高齢になってからも、非常勤講師だけの生活で精力的に研究活動を続けている方も個人的に知っているが、ほぼ例外的だと言ってよいと思う。なので、共通教育(昔の一般教育)のとくに外国語系の科目なんかを専門学校なんかに丸投げしようという動きも出ているわけだが(実際に始めた大学もある)、それって、大学の教育機関としての役割を放棄していることにならないだろうか?でも、すでに外国語科目の非常勤講師の多くは、専門学校の語学教師と変わらないじゃないか、と言われれば、本当に反論できないし、僕がいくら叫んでも解決できない。

しかし、日本の教育・研究の底辺を支える意味で、この非常勤講師の制度の問題を今のままにしていては、今後ますます競争力を失い、大学不要論にも輪をかけることになると思う。

大学の経営と言う観点から、先のスペインのような例を挙げると、無期雇用転換権はどうなるのか、そのような雇用形態で大学側としてペイするのか、などなど否定的な意見しか出てこないと思うが、そこの発想を転換させ、この部分で他の大学がやっていないような制度を取り入れた大学こそ、実は将来生き残れる大学になるのではないかと考えていると、この論を結びます。

オルテガ・イ・ガセット
大学の使命は、その時代の共時的な教養の総体を大学全体が持っている全ての方法で次の世代にできるだけ多く引き継ぐことである。
(要約)

(2023年、1月1日)

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