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憂鬱について

むかし読んだ本に抑鬱のことが書いてありました。

この先、自分の人生に良いことなど起こるはずがない、と勝手に予測して憂鬱になり、精神が弱ってしまう。

そんな内容だったと記憶しています。

逆に躁状態については、明らかに騒々しく振る舞っているのに、周囲が辟易していることに気付けない状態、と書いてありました。

程度の差はあれ、多くの人が一歩間違えば、今述べたような状態になる恐れがあるのではないでしょうか。

鬱や躁だけでなく、現代は症状の分類が進み、事細かにラベリングされています。

つまり当てはまる病名が豊富にストックされている。

病院に行かなくても、自分が抱えている苦しみについて検索すれば、名づけられた症例を、比較的容易に見つけられます。

名前がついて対象化された心身の不調は、ある程度、その傾向と対策を探すこともできる。

もちろん自己診断では限界があると思いますが、見方を変えれば、現代は自分の病理を「発見」しやすい時代とも言えるのではないか。

しかし、なぜ抑鬱に襲われるのでしょうか。

より良く生きたい、という欲求が健全に満たされない時に、抑鬱がやってくるのだと私は考えています。

美味しいものが食べたい、素敵な人に出会ってコミュニケートしたい、社会の中で存在価値を認められたい、強く興奮することを経験したい…欲望のバリエーションと、その量には限りがないのではないかと、若い頃は特に強く思っていました。

全ての欲望を満たして、望む通りに生きれたら、どんなに楽しくて充実した人生だろうか、と思いながらも、実際には限られた充足に甘んじて生きるしかない。

全ての欲望を満たすことは、ほとんどの人にとって不可能だと思います。

どれだけ富や権力を持ち、またさらには頑健な身体と適度に澄んだ精神を持ち合わせた人でも、望むもの全てを手に入れ、あらゆる欲望を満たすことはできないかもしれません。

意に染まない仕事をしたり、過酷な通勤電車に耐えたり、誰かの思いもよらない言葉に傷ついたり…嫌な思いをするたびに、悲観的な気持ちになり、ネガティブな心の状態が記憶され、蓄積されていきます。

そのうちに、自分はあらゆる快楽から隔てられているのではないか、幸福という概念を知ることは一生ないのではないか、など、極端なことを考えてしまったりして、しまいには「この先自分の人生には良いことなど一つも起こるはずがない」という思いを抱くようになる。

安らぎ 懐かしさ/追憶の音楽』でも書きましたが、私は自然の風景や音に救われたり、あるいは素敵な音楽に、泥沼のような場所から助け出してもらったことが何度もあります。

自分自身を傷つけたり、最悪の場合殺めてしまうほど追い詰められている方の気持ちは正直に言って理解したり、想像することも難しいです。

そんな方にかける言葉を、残念ながら私は持っていなませんし、また私の作品など何の力にもならないかもしれない。

でも、私はやはり、(最初から狙って作るのではなく)結果的に、一瞬でも憂鬱から目を逸らすことが可能になるような、そんな作品が作れれば、という思いを抱かずにいられません。

verde esmeralda

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