ツインレイ?の記録16
3月30日のメッセージを最後に彼からの連絡が途絶えた。
日本に帰ったら連絡はくれないだろうと思っていが、その日はまだ帰国していないし、もしかしたら返事がくるか期待をいだき抱きつつも、結局は何も来なかった。
自分が体調不良でも絶対に仕事を休まず、11連勤もして達成感すらあると言っていたワーカホリック気味の彼が、家族の体調不良なら即休みを取り二週間も仕事を離れて帰国する。
この時は、「家族」が誰を意味するのかわからなくて、それは子どもかもしれないし、もしかしたら親かもしれないと思ったが、結局のところ奥さんだった。奥さんが体調不良で三人の子どもの世話も大変だから戻ったというのが理由だ。
この時はまだ知らなかったけれど、当然のこととはいえ、足の怪我が悪化して動けなくなった私のことは見向きもせず、日本の家族に目を向けていることに私は深く傷ついていた。
「お大事に」ぐらいの社交辞令も言えないのかと思った。
人の怪我のことを知りながら、既読無視はあまりにもひどいと思った。
でも仕方ない。
彼にとっては「家族」が何よりも大事。
そして私にとって「家族」は呪い。
私のトラウマが引き出され、私はまた一人必死にインナーチャイルドと向き合っていた。
パソコンで文字を叩き、溢れ出る自分の感情と向きあった。
4月1日
『家族家族うるせーよ。結局父だって私を必要とはしていない。
私も必要じゃない。私には家がない。帰る場所なんてない。
「ただいま」が言えない。「おかえり」もない。
法律で認められた公正な関係、血のつながりのある分身、家族。
美しいかよ。反吐が出る』
『誰も私のことなんてかまってくれなかったし関心もない。
気まぐれに関心を示しても都合が悪くなったら簡単にポイ捨てする。
私のことを一番に大切にしてくれる人なんていない』
4月8日
『家族なんてうざいんじゃぁ!!!!!!
何が家族だ!エゴやんけ!
家族家族家族家族は自分の分身、結局家族以外はどうでもいいってことでしょ?』
『私が具合悪くても、ママは自分のことばかり。
家族って自分にとって都合のいい道具じゃない?
自分を満たすために使うだけじゃない?』
『どうしてどうしてどうして
私はあの人が手に入らないの? どうして私にはよりそってくれないの? 家族じゃないから? 家族じゃないから愛さないって決めたの?』
『なんで出会ったの?ツインレイなんかじゃないでしょ?
なんでなんでなんでなんででなんでなんで』
『私を見ないママが嫌い。いつまでも女で、美しさに注目されたがって、美しいことで承認された。だからいつまでも女でいる。自分のことばかり。私を見ない』
『私がここにいていいの? 安心できる場所がほしいよ』
『いつもいなくなる、私を見ない、信用できない、大嫌い』
『両親でさえ私を愛さなかった。愛だと思ったものは条件がついた。何かをすればほめられる。しなければ怒られる。愛してもらうためには条件が必要で、でもその条件で得たものも、愛なんかじゃなかった』
家族は助け合うのが当然だと思っている彼にいらついた。
でも私にとって家族は、無関心か、いざというとき逃げるか、疎外するかのどれかでしかない。私はネグレクトされた子どもだった。
父は私を溺愛したが、そこに私の人格的尊重などない。
ただ「子どもを愛するパパ」がいただけだ。そこに私はいない。
それは時に「妻」の役割になり、祖母が死んでからは「母」になる。
無自覚の依存。「家族」という言い訳の元に許される甘えと暴力的言葉。
愛情はお金で変換したり示すものだと思っているかのような祖母や父だった。そして退職し稼げなくなったと同時にまるで愛情が枯渇したかのように卑屈になった父。
金金金金、なんでも金か。
お金がなくても「おかえり」ぐらい言える。
温かい言葉は関心は、時にお金で買い与えられた物より勝ると私は思う。
私はインナーチャイルドの叫びから、自らのお金のブロックの根本となるものを知った。
『お金なんていらない。何でもお金で解決できると思って。だからお金なくても人の愛で生きていけることを証明したかったんだ』
だから自ら稼ごうとしなかった。
収入のいい仕事を選ぼうとせず、むしろお金で解決しない方法を選んでいた。それは物々交換だったり、私は人のためにお金より時間や労力を使う。
だけど、お金自体が悪い物というわけではない。
お金は純粋なエネルギー。そこにエゴが入るから汚れる。
私はお金のブロックを解除することを宣言した。
自分が稼ぐことを許した。
お金へのこだわりで「不要だ」と思う執着を捨てようと思った。
そしてまた「家族」の問題に取り組む。
その根本は父だ。
『家族のためにってかっこつけてるパパは嘘だ。家族家族うるさいんだよ。閉塞的。呪い。私を縛り付ける。重い。暗い。不自由』
『家族だからって甘えるの? 何されてもいいの? 人格は? 私にも気持ちがある。心がある。何で無視するの? なんでわかってくれないの? わかろうとしないの?』
『おまえのドラマに私をおしこめるな、あてはめるな』
『私は私でママじゃない。私は自分が好きであの家にいたんじゃない。私の家じゃない』
両親の離婚、父は「悪い母親から引き離すために」私のために離婚したと言う。でもそれは、父が作り出したドラマだ。
娘のために何もかも捨てて生きている自分というドラマ。
父の自己陶酔的態度、晩年に入っての自己憐憫に酔っているような態度も大嫌いだ。
むしろ母の呪いより、父との呪いもあったと知った。
祖母に溺愛されて育った父は離婚後、私の世話を祖母に託す。
でも祖母は私を引き取りたがらず、最終的に父の頼みから引き取っても、私は「孫」というよりは母の姿を重ねられた「嫁」だった。
『私はこんな世界に来たかったわけじゃない。なんだこれ。思ってた世界とちがうじゃないか。周りは未熟な大人ばかり。冷たい布団。自分の家じゃない感覚。ごはんがおいしくない』
『私には愛されてるって感じがわからない。私はここにいていいの?』
幼い頃の孤独、母に捨てられ、祖母からは愛情が得られず、未熟な父の暴言に傷ついてきた日々。「愛されていい」と思えなかったあの頃。
さらには自分の女性性もブロックされていたことを知った。
父親が母親に似ることを嫌がった。
祖母も母を嫌っていた。私への態度にも愛情が感じられなかった。
『バレエをやってても、女らしいしぐさをするのが嫌だった。できなかった。自分のキャラクター作り上げて、女性らしさを失わせて、そのくせ女っぽい子と仲良くなって、いつも女の子っぽい子と比較されて嫌だった。本当は自分で女っぽくしたくなかっただけなのに』
モテないというキャラを作って、自分のことを好きな男のことはカウントに入れず、自分がフラれそうな相手ばかり好きになった。
性的なことは一才封じて、自分が女っぽくなることはしないようにして、だから恋愛もフラれるぐらいでちょうどよかった。
もうそんな制限はいらないと思った。
そして解除しようとインナーチャイルドに語り掛けると、傷ついてきた私の中の子どもはやっと同意した。
私にとって、女性=母親だったので、女性らしさ=媚びでもあった。
私は何より媚びることが嫌いだ。
でも、そもそも女性らしさは媚びることではないと考えを改めた。
私はモデルだった母親の自己顕示欲の強さが大嫌いで、生まれてすぐ私の鼻が嫌いだと言った母親が嫌いで、それをおもしろおかしく伝えてきた父親も嫌いで、本当に思い出せば思い出すほど、悪の根源みたく思わされていた母親だけじゃなく、私は父親にも十分傷つけられてきたのだ。
父は悪い人ではなく、優しい面もあり、幼かった私を溺愛したが、何しろ未熟な人で、子どもに絶対言ってはいけないような言葉を感情に任せて言う人だった。それも何度も何度も。「母親のところに行っちまえ」とか「出ていけ」とか「消えてくれ」とか「おまえなんて」とか「母親そっくりだな」とか。だから、私にとって母親は呪いでしかなくなり、女性性もいつのまにか閉じていた。
父の母への愛情は感じられない。
いつか私に「同情で結婚した」と言った。
私はよく母親に重ねられた。つまり女性としての私は愛されない存在だ。
誰かと付き合うたび、私のインナーチャイルドは
「親にさえ愛されない自分は愛されるわけない」と思いながらも、愛を渇望し、満たされない空虚な穴を埋めてもらいたがっていた。
しかし、それと同じぐらい、愛されることも怖かった。
『自分が愛した人が愛してくれないのが怖かった。そしてそれに慣れていた。それが当たり前だって思うことで、傷をごまかしてきたの』
それは、彼に対してもそうだ。
『家族じゃないから愛されないんだって、メスを出すから愛されないんだって、でも愛されないってことにどこかほっとしていて、それは慣れている感情で、本当は愛を受け入れるのがこわかった』
ここで私のインナーチャイルドは不思議なことを言っている。
彼に愛されるわけないと思いながらも、どこかで彼の愛を感じ取っていたのだろうか。出会ったばかりの頃はともかく、今の彼の表面的な言動からは、そんなもの感じる要素なんてないはずなのに。
『受け入れた愛がある日突然消えるのが怖かった』
インナーチャイルドはそう言った。
私にとって、愛は制限のあるものだった。
時間の制限、血の繋がりという前提があって受け取れる物資や環境という制限。相手が機嫌がいい時だけ気が向いた時だけ気まぐれに与えられる制限。
だけど本当に求めているのは何の制限も条件もない愛だ。
無条件の愛を自分は強く望んでいた。
「家族愛」といえば一見美しいようだが、私にとってはこれは条件付きの制限のある愛だ。
家族は愛というよりは、義務や責任、契約もしくは血の繋がりという前提条件があってこそのものだと私は思っている。
それを超えた愛が知りたい、それを超えて愛したい。
それが自分の魂からの望みだった。
傷だらけで愛されたいと強く願っていた子どもの願いは、心から誰かを信じて愛したいというものだった。
彼は家族を一番愛し、家族を一番大事にすると決めている。
だから私に分け与えるような愛はもたない。
家族のために私と距離を置く。
私の愛を受け入れない。
そのことに私は怒ってもいたのだ。
彼が愛に制限を設けることに怒っていたのだ。
家族が安心するから帰ると言って、家族を言い訳にしたけれど、
本当は彼自身がもう心身ともに限界で家族を求めていたのでは?
それが悪いこととは思わないけれど、どうしても彼に父が重なって、家族を名目に自己犠牲的に働く自分に酔いしれているようにしか見えなかった。
社会的な立場、法的な義務と責任の観点から見れば彼の態度は決して間違ってはいない。私も別に彼に不倫関係を望んでいるわけではない。
ただ、もっと私に向き合ってほしかった。
そして私のインナーチャイルドは、彼が「逃げた」と思ったのだ。
でもそうじゃないとしたら?
私は彼が今この国にいれば、きっと彼に助けを求め、安静状態の自分であることをいいことに彼に来てくれと言っただろう。
そして断られたら、深く傷ついて、インナーチャイルドがまた荒れる。
でも、物理的に離れていれば、私は一人で自分と向き合うしかないし、彼が物理的に「家族」と向き合う間、私はずっと心の中の過去の家族と向き合っていたのだ。
その機械を与えてくれたのは彼だ。
もはやインナーチャイルドワークは私の習慣になっている。
私は理性的な判断からも彼が家庭を最優先にすることを支持しているが、本当はそんな彼の姿から、どこかで彼に本当に家族を愛していることを証明してみせてほしいと思っているのかもしれない。
彼が真剣に家族と向き合っているからこそ、私も真剣にインナーチャイルドと向き合い自分のトラウマ「家族」と対峙している。
そして彼が私に寄り添わなくても、私が私に寄り添っている。
結果的に私は私を救い、自分自身に寄り添うことでインナーチャイルドを癒している。それは間接的に彼に救われ、愛されたと言えなくもない。
それは不思議な感覚だ。
インナーチャイルドの傷が私の愛情問題を拗らせてきたことは知ってはいたものの未解決なままだった。
誰を好きになっても、不信感しかなくて、試し行動ばかりして、自分を傷つけさせるよう仕向けることしかできなかった。
彼が既婚者だから、彼が家族を本当に愛している人だから、彼だから私を変えることができた。
どんなに傷ついても、彼だけは信用できた。
なぜかわからないけど、たとえ逃げたように見えても、それでも彼を嫌いになることはできなかった。
どうしても彼を信用できてしまって、悪者にすることができなかった。
そうなるともう逃げ場がなくて、自分の中の根本原因と向き合うしかなくて、毎日インナーチャイルドの傷と向き合った。
4月の始めの一週間、足の怪我から家で安静状態となったこともあり、私はずっとこの作業をやっていた。
今頃彼は家族のもとで楽しくやっているのだろうと思うと途端に苦しくなった。
後で知ったことだが、彼は彼でたいへんだった。
でもこの時の私にはわからない。
彼への怒り、自分のトラウマの再発、暴れ狂うインナーチャイルドとただただ向き合う毎日だった。
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