【髙島宏平】20代で極限まで頑張る経験、最悪の事態を乗り越える経験が、その後の人生を左右する
「自分の力で道を切り拓き、生きていける人になりたい」と考える大学生や20代の若者は、どのようなキャリアを歩んでどのような力をつけていくべきか――。本企画は、日本を代表する経営者が悩める若者にエールをお届けする連載企画。第四回目のゲストは、オイシックス・ラ・大地株式会社 代表取締役社長の髙島宏平氏です。学生時代のインターンシップの経験から起業を選択した髙島氏は、20代の頃にどのような意思決定をし、どのような経験を積んできたのか、VENTURE FOR JAPAN代表の小松が話を伺いました。
3年後の起業のために、経営を学べるマッキンゼーへ
――髙島さんは、どのような学生時代を過ごしたのでしょうか。
キャリアイメージは全く持ってなくて、行き当たりばったりの学生生活を送っていました。その中でも今につながる経験になったのは、小さな企業でインターンシップをしたことです。
毎日朝から晩まで働いて、報酬は月に1万円というブラックな環境で(笑)、社長の他に社員が2人、私を含めたインターンは6人という状態でしたが、その6人のうち5人は現在上場企業の経営者になっているんですね。
18歳のときに自分とはたいして年齢の変わらない社長を間近で見て、「社長」と「事業」が身近に感じられるようになったのだと思います。
――就職に関してはどう考えていましたか?
私は就職活動をまったくやっていなくて、気がついたら就活の時期が終わっていました。ただ、社会に出る覚悟はまだなかったから大学院に進学。そこで先ほどのインターンシップで刺激を受けたのと、世の中に出始めたインターネットに夢中になったことが重なって、会社を作りました。
とはいえ、事業計画やビジネスモデルがあったわけではありません。社会を変化させるインターネットを使って活動するための箱が必要で、サークルよりもちゃんとした箱として会社を作りました。
そこで、航空会社の売れ残った航空券をインターネットで格安販売したり、イベントをインターネットで生中継したりと、いろんな企画を形にするうちに、自分は経営者に向いているかもしれないと思うように。
一方で、この事業は人生をかけてやりたいことではない、やるからには意義のあることをやりたいし、小さく成功するのでは意味がないと思ったんですね。
だから、大学院の卒業と同時に、仲間たちと3年後の合流を約束して、それぞれ違う分野で社会を学びに行きました。私は経営を学ぶためにマッキンゼー・アンド・カンパニーに入社。このとき、3年後の起業を意思決定したのが最初の大きな分岐点だったと思います。
起業後3年間はいばらの道。資金調達に奔走
――その後、仲間たちと合流して起業してからはうまくいったのでしょうか。
約束通り少し早く、2年で仲間と合流して2000年にオイシックスを設立。インターネットで安心安全な生鮮食品を販売するという、誰もやったことのない事業への挑戦を始めました。
資金調達をするためにVCに相談すると、当時はインターネットバブルに湧いていたため「大きく儲けられるビジネスにしてほしい、チームメンバーは最初からできるだけ多く集めてほしい」と言われました。
だからいろんな人に声をかけて、約20人のチームを作ったのですが、そのタイミングでバブルが崩壊。VCに20人のチームを作ったと報告しにいくと、「黒字化している会社にしか投資しない」と言われてしまい、起業から2ヶ月後には潰れかけたんです。
そこから3年くらいは資金調達に奔走することになりました。あらゆるコネクションを使って、いろんなVCに片っ端から何度も電話をかけたことで、どうにか生き残れましたが、このやり方はお勧めできません(笑)。きっと、最初から資金調達ができていたら、もっと早く会社を成長させられたかもしれません。
ただ、この状況でも事業には手応えを感じていました。2000年当時はインターネット自体が珍しく、ましてインターネットで物を買う発想がなかった頃です。そんな時代にインターネットで野菜を売り始めたのですが、お客様数は少ないものの大半の方がリピートしてくれたんですね。価値を感じてくれた人は、その価値を使い続けてくれる実感を得られたのは原動力になりました。
配送センターからの廃業宣言。最悪の事態を死に物狂いで回避
――資金調達の話もしんどい経験だったと思いますが、他にも20代でしんどかった経験はありますか?
資金調達が苦しんでいた創業2年目に、委託していた配送センターから突然「明日にでも廃業する」と電話がありました。赤字だけどお客様は増え続けていたので資金調達ができましたが、そもそも配送センターがなくなると事業を止めることになります。
その影響で一瞬でも業績が悪化したら、次の資金調達はできないと思って、すぐに配送センターに行って1日だけ業務を延長してもらいました。その間に移転先を見つけて契約。野菜の仕分けなどのオペレーションをゼロから整えて、ほとんど事業を止めることなく業務を再開できたのですが、そこからの1ヶ月間は本当に戦争状態でした。
私はもちろん、メンバーにも手伝ってもらって、日中は品川のオフィスで働き、夜は神奈川県の配送センターに行って野菜の仕分けをする働き方が1ヶ月続いたのですが、今思い出しても吐き気がするほど大変でしたね。
このとき学んだのは、どんなトラブルに遭遇しても、問題を解決しないと生き残れないのだから、深刻に対応するよりも大変な状態にある自分たちを楽しんで問題を解決した方がいいということ。だから、困難を乗り越えるためのテーマソングを決めて、深刻な会議ではお菓子やフルーツを用意して食べながら話をするようにしました。
それ以来、何かトラブルが起きるとお菓子を買ったりフルーツを準備するようになり、今でも会議室に入ってお菓子が並んでいると「危ないことが起きたな」とわかるくらい、問題を楽しく解く姿勢はカルチャーになっています。
VFJは「頑張り矯正器」。背伸びする経験が人生には必要
――得がたい体験をいくつもされてきた髙島さんから、キャリアに悩む20代の学生や若手社会人にメッセージをお願いします。
自分が何をしたいかは、20代でも40代になってもわからないと思います。だけど一つだけ言えるのは、若いときに成長する経験や背伸びをするような経験をしておかないと、努力の仕方がわからなくなるということです。
どんなことでもいいので、20代のときに極限までストレッチした経験があれば、その先に辛いことや壁にぶつかったとしても「あのときに比べたら」と乗り越えられます。
だけど、背伸びをした経験がないまま30代、40代になってしまうと、直面する問題の大きさや責任がどんどん大きくなるので足がすくんで、どうしたらいいか判断できなくなる。だから、何をやりたいのかで悩むより先に、背伸びする経験を積むことに注力するのがいいと思いますよ。
その意味では、背伸びしないといけない環境が強引にセットされているのがVFJだと思うので、どこで何を頑張ればいいかわからないなら、「頑張り矯正器」といえるVFJに挑戦するのが得策だと思います。
私の20代でのストレッチ経験は、マッキンゼーを退職して野菜を売り始めたことです。それまで、私立の中高一貫校から東京大学、大学院と進学し、マッキンゼーに入社したところまで1本のレールの上を走っていたとしたら、そこから飛び降りたのと同じ。
レールを飛び降りられたのは、仲間たちと3年後に集まろうと約束した「強制力」があったからです。VFJはストレッチする経験にはもちろんなりますし、2年間という縛りが強制力になって、新しいレールに飛び移るチャンスにもなると思いますよ。
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