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英国への慕情、かわいいの手法

旅が好きだ。それが海外なら尚更だ。

されど海外旅行好きの間でよく交わされる「今までどの国に行って来た?」という質問に関しては、するのもされるのも好きじゃない。

「どこの国がいちばん好き?」「次に行きたい国はどこ?」
この方がよっぽど、わたしをわくわくさせてくれる。過去に行った国がどこで、それが何カ国かという数字より、これからの希望や好きの方にキラキラが詰まってる。それだけのことだ。

そんなわたしが次に行きたい国は?と問われれば、どうやっても英国は外せない。どこの国がいちばん好き?の回答に合致するのも、この国だ。
何故かと言われれば、わたしがいちばん最初に滞在した外国であるからだ。ただ単純に、記憶と思い入れが濃いというだけのこと。

夏の海岸線を一人で歩いた登下校、時には級友たちとのパブ、海に突き出した白いピア、朝晩マザーが淹れてくれたポットの紅茶。与えられたシャワー付きの個室。花柄の壁。そのフラワーウォールに大きく貼られた禁煙のステッカーが気に入らなくて、わたしはこっそり煙草を吸った。ウィークデイは語学学校、ウィークエンドは列車でロンドン。女の子たちは皆、短い袖のタイトなリブトップスに、ふんわりと軽やかな花柄のボトムスを合わせていた。あれはおそらく、ボーダレスな流行だったのかもしれない。

そういえばわたしが通った学校は、外国人の通学生のためにイベントやショートトリップをこまめに企画し、毎日のように何かしらのプランを催行していたのを思い出した。蝋人形を見に行くだとか、隣町の古城を見に行こうだとか、街を探検しようだとか、名物のアレを食べてみようだとか、まあ概ねそんなところ。そしてそういった学校のイベントは、エクスカーション(excursion)と呼ばれていた。日本で言えば、体験学習や見学付きの遠足みたいなものだ。

しかし元々が内向的であるわたしなので、知らない多数の人間と(ましてや意志の疎通もままならない多国籍の人たちと)同じ乗り物に乗って同じ場所へ行くなんて考えただけでも億劫だったし、たとえ日本人同士であっても御免被りたいと思っていた。なのに何故、あの時のわたしは行ったのだ?いや、きっと誰かに誘われたのだ。「NOと言えない日本人」が、脳から舌へと障害なしに言葉を連行する何処かの国の子にでも押されたのだ。適当なところだ。

そんなわたしがエクスカーションで訪れたのは、英国南東部にあるRyeという街だった。表現の乏しさよと思うが、なんてかわいい街なんだろう!と心がふわりと浮き立ったのを覚えている。石畳が続く緩やかな坂道、その小径の両脇に隙間無く続いていた小さなお店たち。販売品はおそらくアンティークと呼べるようなものだったのだろうが(20歳そこらの小娘に理解できる筈もない)古く錆びた小物たちは所狭しとバラバラの方向を向き、さらには明らかなる適当さでそこにいた。
あの風景は、そうだ、「ちいさなおみせ」だ。この字面から浮かび上がるイメージそのままの。

深い考慮が込められてないディスプレイが、全体で見るとなぜか「かわいい」になる。あの時のわたしは、殊更にそれを不思議なことだと感じた。計算尽くしの「かわいい」なら日本でよく見かけるけど、こういう「かわいい」の作り方もあるのだと思ったからだ。個に意義を持たせ、バランスを考慮し、緻密に計算して作り上げていく「かわいい」の一方で、それぞれに独自性があって関連性も僅かな個に、俯瞰を伴わせることで浮かび上がる「かわいい」もあるのだなと。

こういう些細でどうでもいい限定的な発見ほど、忘れたようで永く棲み続ける曲者であるのだ。人の体験とそれに伴う感覚というのはどこまで行っても限定的で、この限定感こそがたまらないのだ。だからわたしは、これまでの人生で自分だけが知っている感覚のすべてを宝物だと思っている。

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わたしが旅に出る理由のひとつは、その宝を増やすためなのかもしれないな。





【呟き】ああ、わたしは何を書こうとしていたのかしらね。
好きな国について書きたかっただけなのに。
こうやって考えなしに文章を書いてるわたしだって、いつか「ちいさなおみせ」になれないものかしら。

ありがたく生命維持活動に使わせていただきます💋