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「非モテ」からはじめる男性学 を読んで

これは西井開さんの『「非モテ」からはじめる男性学』を読んで、感じた個人的な記憶を含めた感想です。客観的な書評ではないことを、あらかじめお伝えしておきます。

「非モテ」からはじめる男性学(西井開/集英社新書)

1995~1996年の頃の自分と、とあるグループの関係

前置き通りですが、唐突な自分語りを始めます。私は1995年~19996年の頃、20代の半ばで、あるグループに所属して表現活動をしていました(あいまいな表現にすることをお許しください)。そのグループのリーダーは、「メンバーのことを“とことん理解”しないと納得できないタイプ」の人でした。酒を飲み、深い会話をすると、“とことん理解”するための話になりました。
自分自身は、リーダーから「門構えはすごく立派だけど、母屋までたどり着くまでめちゃくちゃ遠い人間」と言われていました。

「大事な他人」から自分を定義されること

そのグループは、仲間内の口コミ評価から業界の人たちからの評価に広がりはじめ、食える可能性が見えてきた状況にありました。日雇いの仕事で食いつないで風呂なしトイレ共同のアパートに住んでいた時期でしたから、このグループに所属して自分の価値が認められることで、「食える側」になれるのではないかという期待を持っていました。

グループの表現はリーダーの存在なしではありえないものでした。だから、自分にとってリーダーはすごく「大事な他人」でした。最初はセンスと技術で入り込んだグループでしたが、自分の立場を安定させるためには、グループの欠くことのできない人になること、もう一歩踏み込んで「友だち」になれたら……と思っていました。

(今にして考えると彼自身、己の不安や欲望に衝き動かされてたのでしょう)リーダー自身の枠内で“とことん理解”される時間に付き合うことは、一言で言って恐怖でした。もちろん「センスと技術だけでグループに貢献することの何が悪い?」という反論はできたでしょう。しかし、その当時の自分にはできませんでした。

先行読書としての『加害者は変われるか?』

『「非モテ」からはじめる男性学』を読む前に、『加害者は変われるか?―DVと虐待をみつめながら』(信田さよ子著/筑摩書房)を読みました。

「親は子どものことを思っていてつねに正しい」のだから、家庭における「状況の定義権」は親に属している。M・フーコーは「権力とは状況の定義権である」と延べた。(『加害者は変われるか?―DVと虐待をみつめながら』p.91~92)

ストンと落ちた。他者から「状況を定義される」こと、それ以前に何者であるかを「定義される」ことを受け容れざるを得ない状況(必ずしも強制のかたちを取らなくても)が十分に権力的な関係に縛り付けられてしまうことなのだと感じました。
それは親と子どもとの関係に限らず、自分から抜け出せない、抜け出せないと思ってしまう状況において、ごくごくよく起きてしまうのでしょう。

「非モテ」からはじめる男性学

“男を問い直す”言説に対する、言葉にしづらさ

本書は西井開さんの単著です。さかのぼって2020年9月28日に“ぼくらの非モテ研究会”(以下「非モテ研」)編著として『モテないけど生きてます 苦悩する男たちの当事者研究』という書籍を青弓社から出版されています。

西井開さんの名前を知ったのは、もう少しさかのぼって2020年3月8日に公開された現在ビジネス『男性は「見えない特権」と「隠れた息苦しさ」の中で、どう生きるか』です。
『男らしさの終焉』(グレイソン・ペリー著・小磯洋光訳/フィルムアート社)を引用しながら、ご自身の活動とそれを通じた理解と、それゆえの困難について書かれていました。

例えば、フェミニズムや男性学に触れた男性たちが「自分も昔は男性規範に縛られていた」「以前は差別的なふるまいをしたことがあった」と、"過去形"を使って、まるでさっぱりと生まれ変わったように自分を語っているのをよく見かける。ここには、「私はもう縛られていない」「全く差別をしない」という含意があり、他の男性と違って自分は正解が「わかっている」という意識が存在する。
そして「わかっている」男性が「わかっていない」男性を軽んじ、上から目線で啓蒙していくような、「男の物語」が再び編み出されていくことになる。

この一節に注目しました。

これまでも、「男らしさはどう育まれるのか・醸成されてしまうのか?」について、いくつかの本が書かれてきました。しかし、それらの多くが、非男性ジェンダーのスタンスによって発信されていました。グレイソン・ペリー氏は異性愛者であり、お子さんもいらっしゃいますが、異性装者という側面を持っています。これはペリー氏が指摘する「デフォルトマン」(自らの“標準性”を疑わない男性)に対して、外部的な視点をペリー氏にもたらしているように思えます。

自分のなかの「男らしさ」を自分ごとと意識して、「その(往々にして“アップデートされた”と言われがちな)意識すらもやっぱり『男の物語』に回収されちゃう危うさ」に向き合うことの困難さを見ている人たちだな、と非モテ研と西井さんを意識することになりました。

本書について:男性カルチャーの構造化

『「非モテ」からはじめる男性学』では、「周縁化作用」という言葉がキーワードとなっています。
強烈やイジメや身体・精神的虐待が人と酷く傷つけることは言うまでもありませんが、そこまでいかない「からかい」や「緩い排除」が、男性集団内で周縁と認定された者には、ほとんど絶え間なく襲いかかってきます。

そんな「からかい」や「緩い排除」の場合、“からかい・緩く排除する側”から“される側”に対して、その理由を示されることはありません。そして、その理由も固定的なものではなく、“する側”によって、いつでもどのようにでも変更することが可能です。

具体的な言葉を口にせず困惑の色を浮かべるだけで相手に居心地の悪さを与える緩い排除は、そうした(=排除するものとしての立場を引き受ける)責任や罪悪感を免責・免罪する効果を持っている。なぜなら、最終的にコミュニティから退くという選択肢を取ったのは、相手の方だからだ。(中略)説明を求める側を「必死になっている困った存在」として位置づけて黙らせ、さらに周縁に追いやっている。
緩い排除は相手を排除しきらない。(p.82 引用のため若干補足を入れました)

つまり「優位にある他者により状況を定義される」状態に陥ります。状況を定義されて、その理由が示されない以上、“される側”は「なぜ?」を求めて自閉して自問しつづけることになります。

理想的な「普通」の男性像はあらかじめ決められているのではなく、周囲の男性を貶めるための手段として、権力を持つ男性の手によって恣意的につくられていくのだと考えられる。その結果、「非モテ」男性は自分のアイデンティティを自分で決める権利を奪われるのである。(p.73)

そんな状況は嫌だ、退却したいと思える人もいるでしょうが、閉鎖的なコミュニティで、かつ代替するコミュニティや逃げ場がない、またしんどくてもコミュニティにいることで自分に何らかのメリットを感じられる限り、“される側”の男性は、際限のない自問の結果として自分が「一人前の男」になれていないという「未達の感覚」に、長く長くとらわれることとなります。

もし、“される側”だった人が、運良く代替するコミュニティを見つけられたり、自分が中心となって作ったりしたら……。

あぁ、悲しいことに新しいコミュニティの中で“定義する権力”を得たことによって、“彼”は新しい環境でその権力を行使して「からかい」や「緩い排除」の再び行ってしまうのです。

本書において、この男性カルチャーの構造化は、非モテ研のメンバーのそれぞれの語りと対話によって徐々に明らかにされていきます。

本書の普遍性~徹底して「非モテ」スタンスから

冒頭に自分の過去と、信田さんの『加害者は変われるか?―DVと虐待をみつめながら』を持ってきたのは、この本で書かれていることが、(いい意味でなく)とっても普遍的だなぁと感じたからです。つまり、『「非モテ」“から”はじめる男性学』であって『「非モテ」“の”男性学』ではないんです。

「西井さん、もう“「非モテ」男性”って書かずに“男性”って書いてもいいんじゃない!?」
と、私は読んでいる最中に何度も思いました。

それでも本書は徹頭徹尾“「非モテ」男性”というワードを使いながら、非モテ研のメンバーの言葉をピックアップして、まったく非モテ男性だけの問題ではない暴力性:「自分のアイデンティティを自分で決める権利を奪われる」ことが、どれだけ人を痛めつけるのかを徐々に、しっかりと浮かび上がらせています。その点で、本書は「自分は「非モテ」ではない」「シスヘテロ男性ではない」という認識の人にも開かれていると思います。

「あわよくば生きやすく」

本書の中で、素敵だなぁと笑ってしまったことがあります。「非モテ研」の目的を以下に引用します。

この会はいわゆるモテ講座ではありません。「非モテ意識はなぜ生まれるのか」「どうしたら非モテの苦悩から抜け出すことができるのか」などをテーマに自分を研究対象にし、あわよくば生きやすくなる方法を見つけることを目指します。(p.40)

この「あわよくば」という言葉を選んだところに「非モテ研」の真骨頂があるような気がしました。

指導的になったり、しんどい自慢になりそうなところを、絶妙に、低めの角度でいいから、とりあえず前向きのベクトルで行こうというスタンスと、そして会が自身の加害性への振り返りのきっかけとなったとしても、ただ断罪や排除するではなく、自分で考えて自分だけの答えを出すための猶予が与えられているように受け取りました。

これから男性学に興味を持つ人に

ここ数年、「男のしんどさ」や「男の加害性」を男性著者が書いた本が出版されています。いくつかの本はタイトルが煽り気味であったり、内容が反省的・内省的すぎたりして、かえって読む側を辛くする本が多いように思えます。自分自身もそのジャンルの本の読者として、これらの本を読んで正直お腹いっぱいと感じています。

本書は、その手の本と比べると、少しとっつきづらいかもしれません。でも、男性学に少しでも興味持つのであれば、ちょっと考えてみてほしいのです。

あなた(が男性と仮定して)は、
●「価値観をアップデートした男性」として、他者をマウントする側に回りたいですか?
●自分の罪悪感を刺激する言葉をアウトプットすることなく摂取しつづけて、自らを否定し続けていたいですか?

どちらも違うんじゃないかな、と思う人に『「非モテ」からはじめる男性学』は一読の価値があります。

だって、“あわよくば”生きやすくなりたいじゃないですかー。

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