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わたしの躁うつ病記(混合編)

開いてくださってありがとうございます。
うつ編・躁編・混合編というかたちで書いていきたいと思っています。
ただのエッセイだと思って読んでいただけたら嬉しいです。

混合編では、
いろんな症状が短いスパンで繰り返される状態を時系列で書いています。

>>うつ編① うつ編② 躁編

東京から地元の家族のもとへ

約2年間の東京での別居生活の間、治療もすすみ、
順調に躁が落ち着いてきていた。
徐々に自分の気持ちに変化があり「子どもと一緒に暮らしたい」と考えが強くなっていた。
その頃には、主人とも連絡を頻繁にとっていて、家族のもとへ帰るのは自然な流れに思えた。
しかし、その3年後には離婚してまた東京に戻ることになる。

冬うつ、夏躁。

ひさしぶりの地元は爽やかな春の陽気。
青い空に、ツバメがツーと飛んでいた。私の体調もずいぶんよい状態。
私が別居前に住んでいた家からは引っ越し、私の生まれ育った家に格安で住まわせてもらっている状態になっていた。

わたしは、車の運転ができないし、仕事のあてもないので、
基本的にはずっと家にいることになった。
元気な状態で仕事をしないのは初めてのこと。

地元に戻る直前まで熱心にやっていたヨガをさらに熱心にするようになった。一日2時間。だんだん義務のようになってきていた。
楽しかったヨガが苦しいものになって、やがてやらなくなった。

久しぶりに会う娘は、
幼稚園の年長さんで来年からは小学生というじきになっていた。
とても落ち着いた物分かりのいい子なのだが(今現在も気質はかわっていないけれど)私が別居していた時期にきた「イヤイヤ期」は、それ相応に大変で生意気だったそうだ。
父親だけで対応して、とても大変だったと思う。

秋ごろに、自転車で行けるところにあるコンビニでアルバイトをすることになった。店長さんは女性でとても人当たりのいい人。
同僚さんもクセが強い人が1名いたものの(そんなことは良くあることなので気にしない)働きやすい職場だった。
朝から昼過ぎまでのシフトで仕事をさせてもらっていたが、
トラックドライバーの人が多く利用するお店なので、昼の混みようはすさまじい。コンビニはいろんなことをする仕事、わたしのポンコツになった頭ではさばき切れずミスをすることも多かった。

「この仕事、合わない」
今までデスクワークばかりしてきた自分からはギャップがありすぎた。
そう思ってしまったのだ。

他の人からみたら、そんなもんだよ、とか、それくらいで、と思うかもしれない。でも私の小さなプライドがコンビニは「合わない」と言ってきたのだ。
バイトを始めた頃は自転車通勤だったが、やがて冬がきて雪で一人で通うことができなくなっていた。朝は主人、帰りは一緒のシフトだった同僚が近くまで送ってくれた。
そんなこともきっと自分のプライドを傷つけたのだろう。

体調はだんだんと不調になった。
そんなとき娘は「お母さん大丈夫?」といつも声をかけてくれた。
本当に優しい子に育った。育てたのは主人だけれど・・・。

コンビニのバイトは止めて、また寝込む日々が続いた。
また春が来る頃に、今度は駅前の洋菓子店のバイトをすることになった。
電車で30分でつくターミナル駅の駅ビルに入っているお店。
自宅から最寄りの駅までは、以前のコンビニまでの距離の半分程度で自転車でも行けるし、徒歩でもそれほど遠くない。

お店では接客のほか、簡単な製造もおこなっており、そちらも担当することがある。お店の店長も同僚もみんな素直でいい人ばかりでとても仕事に行くのが楽しかった。
(特に製造の仕事がたのしかった。もくもくとこなす感じ)

夏がきて、主人が脱サラで始めた農業の収穫期を迎えていた。
私は、早朝に収穫を手伝って、そのあとバイトをするという生活を2カ月程度行っていた。普通ならかなりしんどい。
夏になって躁状態になり対応できたんだとおもう。
躁になると、普段ならできないこと・考えも及ばないことが簡単に対応できるから不思議だ。

何かが気に入らない、ずっとある絶望感

夏がすぎると、またうつ状態になった。
このままでいいのかな?このままでは嫌だ。ぐるぐると頭のなかを回っている。
苦しくて絶望的な気分がぬぐえない。

次第に、苦しさに飲み込まれ仕事の時以外の、飲酒をするようになった。
酔っ払っていれば苦しさから逃れられる。
とにかく酔っ払いたかった。ジンやワインを瓶で買って飲んだ。

そのうち、酔っ払って、自暴自棄になり、過食嘔吐するようになった。
もともとやせ型だったが、冬うつ太りをして痩せたいという思いもあって、食べるだけではあきたらず、嘔吐もしていた。
過食嘔吐は食べてるときは快楽でも、吐くときは苦しいし、罪悪感がすごい。
主人や娘がいないときに見つからないようにやるようにしていた。
その癖が抜けなくなってしまい、また2つ絶望の理由が増えてしまった。

飲酒と過食嘔吐。ぬけだせない絶望

飲酒も過食嘔吐も常習化してき、そんな自分が嫌いだった。
娘にばれたくないという思いもあり、自己嫌悪はひどくなるばかり。

季節は冬になっていた。
また辛さで泣きながらベッドで布団をかぶっている時間が長くなった。

もう何もかもが嫌だった、絶望で死にたいをという気持ちが大きく、
でも、そしたら娘はすごくショックだろうなと思って何とか踏みとどまっている状態。
でもやっぱりもう死にたい楽になりたい、ぐるぐる思考は回っている。

離婚してください。

自分の今の状態と、冬にうつが必ずくるということに耐えられない。
その思いから、地元で暮らすことはもう無理だと思った。
主人に「離婚してください、楽にしてください」とおねがいした。

主人は、「1週間考えるから待ってほしい」と答えた。

1週間後、離婚しようとだけ。答えがあった。
理由は何も聞かないし、意見も言わなかった。
きっと、最初の別居をする前の時、いっぱい話し合ったからもう私からは何も聞くことは無かったのかもしれないし、言っても私は変わらないと思ったのかもしれない。
私の状況を目の当たりにしていて、解放してあげたいと思ったのかもしれない。(主人はそういう人だった)

とにかく、離婚することになり、条件は何もなく、お金のやりとりもなく、
書類にサインをして役所に届けて終わりとなった。
もちろん親権は父親が持つことになった。

12歳からの付き合いのおわり

主人との出会いは12歳。16歳の頃から付き合って、22歳で結婚した。
人生のほとんどを彼と過ごした。
それが病気のせいで、終わることになってしまった。
あの時はそうするしかすべがなかったと思っている。
しょうがなかったんだと。
でも、やっぱり娘のことも含めて悲しい気持ち、やるせない気持ちは今でも胸にあり、時々うずく。
私にはもう何もできないけれど二人が幸せになって欲しいな、と思っている。

そして今

東京にもどり、転職活動の末、フルタイムの会社員として働いている。
ひょんなことから、再婚し、1歳10か月の娘もいる。
ちょうど上の子が今の娘の頃に発病した。だからこの先の子育ては未知。
今も体調が万全ではないが、だいぶ波も落ち着いて、低空飛行(躁うつの人が目指すべきとよくいわれている)状態を続けている。
治った(寛解)とは、言えないけれど、発病前の状況や心の状態を思い出す日が増えてきている。
焦らず、頑張りすぎずやっていこうと思う。

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