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病気との向き合い方。あえて鈍感になる。

noteを始めたのは、休職中の自分の心を整理するためだったんだけれど、過去の記事を読むとだいぶ脱線している。

最初は双極性障害に特化したものを書こうと思っていたけれどただのエッセイみたいになってるものもある。

理由は毎日病気のことばっかり考えてたら、しんどくなっちゃうから。なんか窮屈な生活になっちゃうんだよね。

まあこれは病気に対する立ち位置で変わってくるんと思うんだけれど、「双極障害の僕」と「僕の中の双極性障害」とではちょっと違う。

最初、双極性障害と診断された時はずーっと病気のことを考えていた。常に「双極性障害の僕」だった。不治の病なんて信じられず、関連する本を読みあさったし、医学生が読むような専門書まで買っていた。

なにせこの病気のカラクリを解き明かせば薬に頼らず自分で治せると思っていた。ジグソーパズルのピースを変えれば違う景色を作れると思っていた。

でも、そんなロジカルなものはなかったんだよね。調べれば調べるほど、双極性障害の原因って確たる証拠がないということが分かった。脳の一部の体積の変化であったり、カルシウム濃度やミトコンドリア説とか色々書いてあったけど予測にすぎない。

そんな中で双極性障害という殻を自分の外側に作ってしまうと世界が狭くなってしまうことに気づいた。四六時中、病気と向き合わないといけないと思った。前の主治医にも、何でもかんでも病気のせいにするなとよく言われた。

だから「自分の中の双極性障害」くらいに思うようにした。病気は自分の一部にすぎないと思うようにした。数時間程度の気分の波なら健全な範疇と思うようにした。

それでも、時おり病気に心が全部占領されてしまい、自分の根幹や感覚までもがカメレオンのように変化することがある。躁とうつを何度繰り返してもこれには慣れない。この症状は今回初めてだなと思う。でも妻には前と同じだよと言われる。そしていつか潮が引くように消えていく。

全ての因果関係を病気のせいだとしてしまうと僕は余計にしんどくなってしまう。だからある一線を超えない限りはわざと鈍感になろうと努める。突き詰めないようにする。僕って誰なのかなあと思っても、そう思うことを普通だと思ってボケてみる。

でも、ある一線を超えると、、、。うつの場合は今の僕のように休職になるハメになる。躁の場合は抗精神病薬を使って気分を下げるハメになる。予防策を講じててもね。

ほどほどで現状維持というのが永遠の目標だね。

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