見出し画像

早春の伊豆2泊3日 その② -韮山

「韮山反射炉」の名前は知ってましたよ、もちろん。世界遺産だもの。ただね、詳しいことは知らないし、地図を見てこの日の最終目的地である修善寺への通り道であることに気づかなければ、正直行こうとは思わなかったかな。
まだ時間があるから寄ってみよう、くらいの気持ちで三島スカイウィークから韮山反射炉に向かっていると、目に入ったのは「重要文化財江川邸」の案内板。わたしの好物の一つなんです「邸宅」。重文ということは、時代を重ねているということですよね。さらに好き。というわけで寄り道が決定しました。

お代官様のお屋敷訪問

江川邸の入口では韮山反射炉との共通入場券も売っていました。セットで見ていきなされ、ということですね。そして、結果的にセットがお勧めです。なぜなら、ここの家の当主である江川氏こそ韮山反射炉を作った人物だから。ここを見てから反射炉を見ると、無機質な建造物から、作った人の熱量も感じられること請け合いです。反射炉のガイダンスセンターでも感じられるんですけど、それはひとまず置いといて。

画像1
井戸と野菊の家紋は、家康に由来

江川家の沿革を見ると、江戸時代はほぼ代官として江戸幕府に仕えていたお家柄。代官というと、時代劇の「お代官様、これを」「越後屋、お主も悪よのう」というイメージだけど、こちらのお代官様は、もちろんそんなわけもなく。特に反射炉の築造に関わった幕末の36代太郎左衛門英柳(坦庵)は、「世直し江川大明神」と呼ばれて敬われるほどのお人柄だったそう。施政者としていくつもの立派な功績がある中、特に目についたのは、行政として初めて広い地域に対して種痘を行って領民を天然痘の流行から守り、兵糧としてのパンを初めて作った人だという点。憂国の思いからの、大砲、種痘、パン…やけに今の世相ともマッチしていると思いませんか。
行商の扮装で支配地の視察をしたという水戸黄門的な行いも記録されているほか、見開いた目が印象的な自画像も残っていて、人間的な魅力も感じられる人です。機会があればもっとこの人のことを知りたいくらいなので、立川志の輔師匠のアンテナに引っかかって師匠が落語にしてくれることを祈ります。
それにしても、世直し大明神、今の世に再来してくれませんかね。

肝心のお屋敷ですが。これまた、ものすごい歴史を持っていて「1261年に流罪で伊東にいた日蓮上人を泊めた」とさらっと書いてあって、日蓮って実在の人だったっけ?って混乱するくらいの驚きです。
もちろん、建物も途方もなく立派なものでしたが…肝心の主屋が修理中で足場が組まれていて外観がわからない。
入口で受付のお姉さんが「修理中でごめんなさい」とティッシュをくれたわけです。

画像2
これが主屋と思ったでしょ、これは米蔵。ここで生活できるくらいの広さがあります。

主屋の中は、昔の日本家屋らしい静かさを持ち、ひんやりとしていました。この主屋は、もともとは関ヶ原の戦いのあったくらいの時期に建てられたものらしいです。1600年、それは頭に叩き込まれてる年号なので、わかりやすい。

天井板もたいそう古めかしい和室には資料が並んでいます。

圧巻なのは、主屋の土間。その広さ約50坪。高さ約12メートル。ここは体育館ではというくらいの大きさです。天井板が貼られていないので、柱や梁の構造がまる見えで、天井の高さが直に感じられるのも迫力があります。バスケのゴール置いてない?と見まわして、見つけられたのはかまど。どれだけ広い台所よ。

広すぎる土間。

天井を見上げると、屋根を支えるという役目を担う木組みの緻密さと見た目の美しさにただ息をのみます。
この天井の一番上には、日蓮上人直筆の曼陀羅が収められている棟札箱があって、そのおかげで今まで火災にあったことがないと言われているそう。さらに、その言い伝えは江戸時代にはすでに有名で、江戸城が明暦年間に火災にあったときの修復時に、こちらの棟木を1本献上したとのこと。なんとまた歴史は入り組んで作られているのかと、韮山からはるばる江戸城へ棟木を運んだ人夫に思いを馳せたのでした。

高くて美しい天井

江川邸の資料には、他にも千利休やジョン万次郎など、そうそうたる歴史上の人物の名前が出てきて都度おおっと驚くし、敷地内にも他の見どころが多々あったのですが、わたしがどうしても紹介したいのが、「パン祖の碑」。
敷地内に「パン祖江川坦庵先生邸」と刻まれた傘をかぶったような不思議な形の碑があるのです。片仮名が刻んである碑も珍しい。
4月12日がパンの日なのは、みなさんご存じでしょう?わたしは知りませんでしたけれど。坦庵先生が初めてパンを焼いたのが1842年4月12日なのでそれに由来しているのですぞ。えっへん。
ところで、わたしは以前、おそらくイーストが古かったせいで、かちんかちんのペッチャンコのパンを焼き上げたことがあり、古代パンと名付けてスープに浸しながらようやく食べたのですが、坦庵先生が焼いたパンもおそらくそういう類だと思われます。興味がある人はおみやげで買ってみるのも一興。(多分おいしくは…。)

韮山反射炉で大砲の作り方を知る


大砲の作り方を知ってますか。わたしは知ってます。
韮山反射炉のガイダンスセンターで学びました。
反射炉では最初にめちゃくちゃ立派なセンターでお勉強映像を見ます。なかなか良くできていて(何様?)、反射炉ができた経緯、作る様子、近代化への道などをばっちり理解をした上で反射炉を見ることができます。
ちなみに韮山反射炉は、鉄製の大砲を作るための施設で、「明治日本の産業革命遺産」の一つとして世界文化遺産に登録されています。悲しいことに産業の発展って、軍事と密接に関係があるのですよね。インターネットもそうだしね。

実際の反射炉ですが、まず目に入る四角い塔がものすごくきれいなことに驚きました。積み上げたレンガの塔は、ヨーロッパにあっても違和感がないくらいモダンに映ります。もっとも幾度も補修を重ねたうえの現在の姿で、やはり美しい外観を保つにはお手入れが大切なのです。聞いてる?わたし。1857年にできたときには漆喰が塗られていたそうで、それもきっと美しかったでしょう。もちろん役割的には美しさは不要の施設ですが。ちなみにパン祖でありこの反射炉の築造の責任者の坦庵先生は、完成を待たずに亡くなり、息子が後を継ぎ完成させたそう。

役割を終えて150年以上


思っていたよりも小さい、というのは製鉄と聞いて大きな工場をイメージしていたからかもしれません。大きな公園の遊具だと言われたら納得するくらいの大きさ。上りたくなってしまうけれど、中には入れません。
この中で鉄がドロドロになって、鋳型に流されるわけですが、驚いたのは大砲は筒型なのに鋳型は中がくりぬかれてないこと。どうやって穴を開けたかというと、水車で大砲を回して、錐で開けたそう。そりゃ、途方もない時間がかかったに違いありません。と思ったら30日ですって。大砲って量産できるものではないのですね。

大砲のレプリカ。これで3.5メートル、3.5トン。

ここで作られた大砲の一部は品川のお台場に送られたそう。お台場=遊びに行く場所と思っているわたしたちは幸せ。元々は沿岸を守るための砲台を置く場所だったんですよね。ただ、これが実戦で使われたことはなかったようです。良かった。
韮山は、思いがけず歴史とともに平和のことにも考えを巡らせる場所でした。

修善寺へ



宿泊は修善寺。旅館ではなくホテルです。温泉街の賑わいのあるあたりを過ぎ、山の中のカーブをくねくねのぼったあたりにあるマリオット。ここは初めてでしたが、隣のラフォーレには泊まったことがありました。結婚前の話。友人たちと来てテニスをやらされたのでした。体育の授業以外では初めてのテニスで、振っても振ってもボールはわたしのラケットに当たらず、徒労以外の何物でもない時間を過ごしました。テニス自体も辛かったけど、その後の食事の時に、わたしの右手がプルプルずっと震えっぱなしだったのも泣けた。そんなことを思い出しながらのチェックイン。何が言いたいのかというと昔からある老舗のリゾート地だということです。
食事はホテルのレストランで。気取りながら、おいしくいただきました。

メイン以外はビュッフェスタイルだったので、山ほど食べました。


この記事が参加している募集

#旅のフォトアルバム

39,124件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?