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『あの店は私のオアシス』

私が前職で働いていたころ。
ズタボロに心を壊す、ほんの少し前の話だ。

別店舗への異動が決まった。
それは昇進してまもなくのこと。
私は入社時から「異動はしない」と公言してはばからなかったし、面接のときも、そこだけは社長に念を押していた。

だが、そんな口約束はなし崩し的に”なかったコト”にされて、”ならば明日から職を失うか?”と直接的に脅しをかけられれば「嫌」とは言えない。

仕方なかった。
その後自分に降りかかる運命を考えれば、「仕方ない」のひと言で済ませてよいわけがないのだけれど、こればかりは仕方なかった。

その店が、スタッフ同士のウワサで”流刑地”と呼ばれていることは知っていた。

曰く、社長の嫌いな者、厄介者が最期に行きつく店が、あそこなのだそうだ。
そして誰もが精神を病み、ほんのひと握り、店長に迎合した人間だけが生を得る。そんな場所なのだと。

パワハラなんて概念が生ぬるく感じるくらい、朝から晩まで常に誰かの怒鳴り声が飛び交っているような場所で、私は日に日に消耗していった。


その、それなりに立派な店構えの定食屋ーー涼川は、そんなクソみたいな店のすぐそばにあった。

東京じゃどうか知らないが、我が地元のような地方都市では、夜、ただ単に飯を食える場所というのは貴重である。

開いてるのは居酒屋か焼き鳥屋かラーメン屋か。

酒を飲むか、コッテリした麺を食べるか、それくらいの選択肢しかなくて、女がひとり、フラッと店に入れて食事できる店というのは貴重なのだ。

外で酒は飲みたくなかった。
飲めば次の日に差し支えるのがわかっていたし、疲れ果てた体に酒を入れて、ベロベロになって醜態を晒すのも嫌だった。

でも、家に帰ればまたすぐに明日が来る。

それが嫌で、どこかで時間を潰したくて。
ただ普通にご飯を食べたくて。そんな私が見つけたのが涼川だった。

駅前通りの反対側。
そこそこ交通量の多い、幹線道路沿い。

古民家風と言えば聞こえはいいが、ちょっとぼっちい、でも立派な建物。その周りにはためいていた”定食あります”の幟を目にして、私は吸い寄せられるように店に入っていった。


あれは冬だったか、春だったか。
足を踏み入れた店の中はとても暖かくて、なんだかやけにホッとしたのを覚えている。

「いらっしゃいませ」とふくよかな女将さんに声をかけられて、思わずドキッとした。
今さらながらに、根暗がひとりで飲食店に特攻するべきではなかったと後悔した。
けれど「やっぱりやめます」とは言えなくて、せめてカウンターじゃなけりゃいいな、と根暗らしい発想をしたのが通じたのかそうじゃないのか、女将さんは私を、小さな半個室に案内してくれた。

渡されたメニューを見ると、なるほど、確かに。
酒もあるし、つまみもあるが、ちゃんと定食がたくさんあった。

しかもそこそこ良心的なお値段で。
安月給の身にはありがたい価格だった。

ザッとメニューに目を通して、私は大好物の”刺身定食”を頼んだ。

どんなものが出てくるかはわからなかったけど、正直、もうまずかろうがなんでもよかった。
私がここへきたのは、ただ当たり前のように”明日が来る”のを少しだけでも遅らせたかっただけなのだから。

注文を済ませて、温かいお茶を飲んで。
なにを考えるでもなく、微睡むような時間を過ごしていると、ほどなくして刺身定食が運ばれてきた。

本日の画像がそれであるが、1000円のわりにはとんでもないものが出てきたな、と率直に思った。

刺身はとても新鮮で、お米はツヤツヤしておいしかった。
付け合わせのお漬物も、味噌汁も。
箸をすすめるごとに、思わず夢中になってしまうくらいおいしかった。

なんの根拠もなく”救われた”と思った。
かすかに”明日も頑張ろう”という気持ちが顔を出した。

そうか、単純なコトでいいんだ。
ここの定食をまた食べるために頑張ろう。
それだけでいいんだ、と思った。


何かが変わったわけじゃなかった。
明日は変わらずにやってくるし、店に出勤すれば今日も誰かが怒鳴られている。

だけど、私は逃げ場を見つけた。
どうしても。
どうしても辛い日には必ず涼川でご飯を食べた。
涼川の暖かい空気と、大将が腕によりをかけて作る定食は、いつだって私を癒してくれた。

時々、仕事帰りに迎えにきてくれた母と一緒にご飯を食べた。
そういえば、なぜか旦那には教えなかったな。
きっと涼川にいる私は、小さい子供のような気持ちだったのかもしれない。

私を、私という存在を、庇護して守ってくれる、大切な空間。
ここには誰も、私の敵はいない。
無条件で安心できる場所だから、母と一緒にいたかったのかもしれない。


一度、女将さんに訊いたことがある。

「女将さん、この店、定食屋じゃなくて割烹だよね?」

店構えも立派だし。出される料理は、そこらへんの定食屋を軽く超えていた。
だからここは割烹で、本来なら、酒を飲む人間が来るべきなんじゃないか、って。
不安に思っていた私は、女将さんに訊いた。

そうしたら、女将さんは豪快に笑って。

「ここは定食屋でいいのよ。誰でも、どんな時でも、普通にご飯を食べられる場所。お酒のつまみじゃなくて、”ちゃんとした”ご飯を食べられる場所にしたいの。だから、ここは定食屋なのよ」

涼川が大好きだった。
女将さんも大将も、優しくて好きだった。
私が前職を続けられたのは、間違いなく涼川のおかげだと今も思っている。
いつだってここは、私の心のオアシスだった。


前職を辞める前。

私は、外を歩けなくなった。
外に出られなくなった。
家の周りを歩くのすら精一杯で、最初は車にも乗れなかった。

どうにか車に乗れるようになっても、前の店がある方向に向かおうとすると、必ず体が震えて発作が起きた。

トラウマなんだろう。全身が拒絶していた。
だから、あの店の近くにある涼川にも、もう長いこと行けていなかった。

表面ではもう治ったような顔をしていても、あの付近に近づくことをどこかで心が拒否している。

涼川の近くに実家がある旦那は、今も涼川が元気に営業していることを教えてくれる。

いつからか。
それでいいか、と思うようになった。
たとえ自分が、もう2度と。
涼川の刺身定食を食べられなくても。
女将さんと大将が元気なら、それでいい。

けれど、そうして何年もの時が経ち。
私は今、涼川にいる。

定食が食べたくなったから。
心が疲れているのを自覚したから。

だから、ほんの少しだけ元気を分けて貰いたくなった。


なにも変わらない、ボロい店。
でも大きくて立派な佇まいの定食屋。

カウンターに立つ大将と、少し痩せた女将さんに「ひさしぶり」と声をかけられながら思う。

ああ、ここはやっぱり。
私の心のオアシスなんだ、って。


もしもサポートをいただけたら。 旦那(´・ω・`)のおかず🍖が1品増えるか、母(。・ω・。)のおやつ🍫がひとつ増えるか、嫁( ゚д゚)のプリン🍮が冷蔵庫に1個増えます。たぶん。