多面体とたましい

『ちょっとあんたたち!おばあちゃんに手合わせた?』と母が言う。
私は、祖母の仏壇に手を合わせることが苦手だ。
だって、この仏壇におばあちゃんがいるわけじゃないじゃん、と思う。
祖母が亡くなってからよく、おばあちゃんはどこに行ったんだろう、と考える。
お葬式でお経を読みにきたお坊さんは、仏様になったと言った。
またある人は、『タマシイ』となり私の心の中に住んでいると言った。
けど私は全然信じられない。
だって私は、祖母の体が焼却炉でごうごう焼かれ、灰になったのを見た。
骨すらあまり残らなかった。私に鮭といくらのちらし寿司を作ってくれたあの茶色いシミのある、少しぶよぶよしたあの手、あの手は一握りの灰になった。あの灰をみた私に『タマシイ』の存在を信じろなんて。ちゃんちゃらおかしい。
今でもたまに祖母の夢を見る。昨日は、夢の中で祖母と中華を食べた。私は祖母に会えたのが嬉しくて嬉しくて
『おばあちゃん、久しぶりだがね、ずっと会えなくて私、寂しかったんだに。どこ行ってたの?』
と話しかける。祖母はいつもの真っ赤な口紅をして微笑むばかりで返事がない。遺影と同じ微笑み方。目が醒める。天井が滲んでいる。あ、そうだったおばあちゃんは死んだんだった。天井が滲む。ほんとに、祖母はどこに行ってしまったんだろう。
人間は多面体だ、とつくづく思う。私の中には、『オーケストラをする面』、『研究室で実験をする面』、『親友と話す私の面』、いろんな面が無数にあって、サッカーボールのような多面体ができている。
祖母と対峙し話すときの私の面は、コテコテの名古屋弁を話していた。河村知事もびっくりくらいの。
ちなみに『短歌を作る私』は球体で、無数の面からなるサッカーボールをまあるく包み込んで、いろんな面を俯瞰して見ている。
祖母の死から三年経って、日常で祖母を思い出すことはめっきり減ってしまった。しかし、私の脳の中の、夢を見る部分は、『祖母といたときの面』のことを忘れないでいて、たまに祖母の夢を見せてくれる。
結局、私は腑に落ちないまま、今日も仏壇の前で手を合わせる。
祖母はどこに行ったかわからないけど、少なくとも私は、『祖母といた時の面』を忘れないように。
この面が、研究室で実験をする面などの、大きくて強い面に、飲み込まれてしまわないように。
この面が、私の多面体の中で、一番あたたかい面だから。
この面が、短歌を詠む球体の私を育ててくれた気がするから。
いつか自分に子が、孫ができた時、この面で抱きしめてあげたいから。
たましいが、もし存在するとしたら、きっとサッカーボールのような形をしている。


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