このGWに考えたこと ~映画『エドガルド・モルターラ ある少年の数奇な運命』ほか
今年は、GW中、宗教がらみで考えさせられることが重なりました。
その1
映画『エドガルド・モルターラ ある少年の数奇な運命』
イタリア半島統一運動と、これに抗して教皇領及びカトリックの世俗的権力を死守しようとする動きとが同時進行する19世紀半ばに、イタリアで実際に起きた「エドガルド・モルターラ誘拐事件」を題材として、イタリアの巨匠マルコ・ベロッキオ監督が放った新作です。
<あらすじ>
1858年、教皇領のボローニャに暮らすユダヤ人のモルターラ家に、教皇警察隊が押し入る。異端審問官の命を帯びた彼らは、何者かに洗礼を施されたとされる6歳の息子エドガルドをローマに連れ去ってしまう。洗礼を受けた者はカトリック教会の元で育てられるべきだとする教義をかざして。まだ幼いエドガルドは、教皇のお膝元にある改宗者のための施設で、カトリック教育を受けることになる。
エドガルドの両親は息子を取り戻そうと奔走する。教会による誘拐の報は、ユダヤ人のネットワークを通して世界に広まり、問題は政治化。各地で非難が巻き起こる。しかしローマ教皇は、権力が衰えていく中、信仰の原理を盾に頑として返還に応じようとはしなかった…
誰が、何故、エドガルドに洗礼を施したのか?
そして
エドガルドを待ち受ける運命は?
エドガルドを演じる子役の瞳が純真無垢な輝きを放つだけに、圧倒的な権威と脅しで幼い子どもを支配する宗教の力の恐ろしさを感じます。
イタリアの統一に至る歴史と、ユダヤ教とキリスト教(特にカトリック)の複雑な関係をある程度は理解していないと難しい映画でした。大雑把な知識しかなかった私は、鑑賞中は消化が正直追いつかず、帰宅後にネットで勉強し直して、話の展開については一応理解したものの…。
これが史実だというのですからね。
神の名のもとに暴虐行為もできてしまう人間の業の深さについて改めて考えこんでしまうような作品です。
その2
憲法記念日の講演会
旧「統一教会」の問題を長年追い続けているジャーナリスト、鈴木エイト氏の講演を聴く機会を得ました。
エイト氏とほぼ同年代で、学生時代に「原理研究会」(統一教会に勧誘するための偽装サークル)が跋扈するキャンパスを実体験していることもあり、とても興味深くお話を聞きました。
・問題意識を継続することが大切
・取材したい相手に近づくときは笑顔で
・ユーモアを忘れない
といったあたりがポイントだったように思います。
その3
『戦雲 要塞化する沖縄、島々の記録』 三上智恵 著
「圧殺されたのは沖縄の声だけではない。
いつか助けを求める、あなたの声だ」
表紙に書かれたこの言葉が心に突き刺さります。
これを読んで、次の詩を思い起しました。
「ナチスが共産主義者を連れ去ったとき、私は声をあげなかった。私は共産主義者ではなかったから。
彼らが社会民主主義者を牢獄に入れたとき、私は声をあげなかった。社会民主主義者ではなかったから。
彼らが労働組合員らを連れ去ったとき、私は声をあげなかった。労働組合員ではなかったから。
彼らが私を連れ去ったとき、私のために声をあげる者は誰一人残っていなかった。」
ドイツのルター派の牧師であり反ナチ運動組織の指導者だったマルティン・ニーメラーの言葉に由来するとされる詩です。
さて、本書の中味について。三上智恵さんの取材活動における汗と涙が滲む渾身の一冊です。
この本と前後して公開された映画『戦雲』も鑑賞しました(感想:https://note.com/vast_ruff439/n/n7974a5fa3aeb)が、活字で色々と読むと、一層危機感が募ります。
「その3」は宗教と関係ないのでは?
と思われたかもしれませんね。
関係はあると私は考えています。
一神教は「唯一の絶対神」を信じる教義の本質上、非常に排他的・独善的になりがちです。
キリスト教しかり、ユダヤ教しかり、イスラム教しかり…。
アメリカがかつて「世界の警察官」を自認していたのも、今、その立ち位置を返上し、同盟国に「応分の負担」の名のもと「最前線を守り、自力で持ちこたえる」役割を強いようとしていることも、その宗教性と国の性格に起因する、同根の動きなのではないかと思うわけです。
他方、日本のような多神教の社会では、総じて他者の信仰心をはじめ、諸々に対して寛容なのではないでしょうか。
そのわりに、最近「はて?」と思わされる出来事が相次いでいますが…。
GWを振り返っていたら、何だか暗い気分になってしまいました。
気分転換しておきましょう。
春から初夏の花の写真でも♪
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