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モスキートの夜



世界中の雨を凝縮したような台風の影響は、
各地に広がっていた。

カーテンを開けながら、
個室で入院されている吉井さんに話しかける。

「今夜はひどい雨ですね」

ベッドの上で横になっている
吉井さんは、話さない。

吉井さんは、
話せない訳ではないし、
動けない訳でもない。

ただ、だんだんと病気も進行して、
体力も衰え、
一日中ほぼ、傾眠状態だ。

私は話しかけ続ける。
「録画の野球、つけておきますよ。
それともNHKにします?」
吉井さんは返事をしない。

「汗を、少し拭きましょう。
除湿でも、蒸し暑いですね、吉井さん、空調どうですか?」


リモコンを枕元に置き、吉井さんの布団を掛け直し、点滴の速度を確認する。


ふと、私の目の前を小さな生き物が横切った。
素早い。
耳につく嫌な高音のキーは、まだまだ、現役である事を主張している。

蚊だ。

ぎゃっ!と私は言った。

「吉井さん!!蚊がいる!!」

私は、室内をクラップして回る。
チッ。
逃げ足の速いやつめ。

視線を感じてベッドを見ると、吉井さんの鋭い眼光があった。久々に目が開いている。

「仕留めたか」
吉井さんの声は低く、小さく、渋い。

「申し訳ございません、取り逃しました」

吉井さんは、ため息をついて、また目を閉じた。

私は、”蚊”を仕留めねばならない。
吉井さんの為に。
強くそう思った。


胸元のボタンを押す。

「エマージェンシー。405号室にやぶ蚊発見。
蚊取り線香を誰か探してきて欲しい」プツ。

私の働く職場では、インカムを採用している。
マクドナルドのドライブスルーなんかでよく使っている、あれだ。

夜勤に従事するスタッフは全員着用している。
最初は抵抗があったものの、
PHSより、作業効率が格段にいい。

『2階、御意』プツ…
『佐久間、至急捜索する』プツ…
『3階フリー、ヨロコンデ、急行する』プツ…

瞬く間に応答が乱戦する。
5分後には、インカムの応答を受けた3名が、吉井さんの部屋の前で集合していた。

「eri、ごめん、これしかなかった。」
2階の介護士は、ゴキジェットを持っている。
壮大すぎる。却下だ。

残りの2名は、蚊取り線香は発見できず、
丸腰で戦うと言っている。


戦士は、4人集まった。
モスキートバスターズである。


こんこんこん。
ノックして、吉井さんの部屋にゾロゾロと入る。
吉井さんはチラリとこちらを見た。
目が見開く。

「蚊を仕留めにまいりました」
我々は敬礼した。

吉井さんは満足そうに笑って、敬礼してくれた。
とても、楽しい夜だった。

吉井さんは時々ちらっと目を開けて、
目尻を下げていた。


5日ほど経っただろうか。
吉井さんは、あっけなくお亡くなりになられた。


こんこんこん、
私は吉井さんの部屋に入る。

すっかり雨は止んでいて、
台風は、どこかに消えて、
普段の世界に戻っていた。


まだ、片付けきっていないお部屋には、
吉井さんの甘い香りが
まだかすかに住み着いていた。

ベッドに手を置いてみる。
敬礼してくれた、細い肩と、腕。
まっすぐと光のある眼。

「ありがとうな」
ウィスパーな、私にだけ聞こえる声。
耳を澄ませる、2人だけの大切な時間。

私の看護は、正解でしたか?
誰もいない部屋に、
私の声はポツンと床に落ちる。

時々、泣きたくなる夜がある。
モスキート級の小さな声で。

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