好きな曲は好き~ばらの花/くるり~
はじめに
今日はくるりの『ばらの花』についてお話しします。
先日くるりの『旅の途中』という曲についてお話ししました。
今日お話しする『ばらの花』はアルバムの2曲目に収録されており、シンプルで軽やかなイントロが印象的でした。
くるりにハマっていた中学生の頃、吹奏楽部でトランペットを演奏していたので、このイントロが流れると、ドミドレドソドラ、ドミドレドソドラと口ずさんでしまっていました。
一般的なピアノのドレミファソラシドとトランペットのドレミファソラシドの音は異なっているので、ピアノで弾く際は、シ♭ミ♭シ♭ドシ♭ファシ♭ソ…となります。
会わないとで会いたくなくて
中学生の頃、私にとってこの曲は“暗い日”の曲でした。
暗い日とは雨の日もそうですし、気分的にもです。
『ばらの日』というタイトルにあるようにバラと言えば、赤色を私は想像していました。
赤いバラは情熱的と言われるように、“勢い”とか“情熱”、“愛”といった力強いイメージです。
なのに、始まりは『雨降りの朝で今日も会えないや』です。
なんだか哀愁を感じました。
そして、会えないことにほっとしているということが印象的でした。
会わないといけなかったのか、会いたくなかったのか疑問でした。
会う、会わないという話なので、なんとなく人を想像しました。
実際に、のちの歌詞で『君』という歌詞が出てくるので、誰か会わないといけないけれど、いざ会うことができないとなると、ぼんやりと「別に会いたくなかったなあ」となるような存在の誰かがいるということを考えました。
「いざ会うことができないとなると、ぼんやりと「別に会いたくなかったなあ」となるような存在」ということは、
それまでは漫然と、習慣的になんとなくあっていた人ということでしょうか。
大げさに言うと、会わなくなってやっと自分の負担になっていたことを気付いた存在ということでしょうか。
私は中学生の頃までジンジャーエールを飲んだことがありませんでした。
そのため、高校生になってジンジャーエールを飲んだ時に「これがジンジャーエールか!!」となりました。
…こういうことってありませんか?
始めて曲で聞いたこと、曲でしか知らなかったことを実際に見た時にBGMでこの曲が流れるのです。
シ♭ミ♭シ♭ドシ♭ファシ♭ソ…
この瞬間がとても印象的でした。
大切な瞬間でした。
経験でした。
今日からばらの日
ここのサビでは、安心して自由に思う通りにふるまっているように見えました。
まるでそれまでの歌詞とは一変して、負担が吹っ切れたような雰囲気を感じました。
会わないといけなかった人が負担に感じていたことを自覚して、自由に動き出したような様子です。
ああこれがばらの日かと思いました。
この曲の主人公は、これを自覚した日がきっとばら色の日だったのかもしれません。
それまでは『思い切り泣いたり笑ったり』できなかったのかもしれません。
その日を境にできるようになったのなら、それは薔薇の日でしょう。
毎日が力強く色づき始めたのかもしれません。
愛のばらを掲げて
二番です。
薔薇は愛の象徴にもなりますが、こんなにも直接的に愛に結び付けているのは、すこし驚きました。
また、愛と会いが同じ音なので、かけているなあと思いました。
私はどうしても両親のことを考えてしまうので、
『愛のばら掲げて』は「愛を振りかざしてなんでもかんでもするような人」を想像しました。
「愛しているから」「心配だから」という理由で過干渉になって、相手の人権を奪うような人です。
友人や恋人だったら心苦しくも縁を切ることができたかもしれません。
しかし親です。
会いたくなくても会わないと行けなくて、
無下にしたいけれども昔からの愛情がずっとしかたなく私の根っこにずっと、ずっとあるのです。
いっそ、縁を切ってしまえとも思わないことはないのですが、やっぱりこの根っこを無視するはできません。
そうやって私と両親は、お互いを思いやって空回りして、ときどきこけてしまう。
何度も悲しいな、と思いますが、たぶん
お互い愛のばらを掲げているつもりなのです。
私の両親に対する気持ちはこのようなものになってしまったので、帰省することがとても億劫になりました。
電話で話をする事さえも、とてもつらく苦しいものになりました。
両親の話を聞いて、「へえ、そうなんだ」ということが辛くなりました。
全然話に集中できなくて、自己中心的なこと、言質になりそうなことを記憶するようになりました。
そのため、中学生の頃には響かなかった『相づち打つよ君の弱さを探す為に』という歌詞が、響いて、共感して、納得できるようになってしまいました。
昨年、米澤穂信作『栞と嘘の季節』という本を読みました。
(※ネタバレ注意です!)
そこで、とても印象的なセリフがありました。
とても極端な例かもしれませんが、いろんな事情で簡単には切り離すことができない関係をずっと続けなければならない時、逃げ出すことができない時、このような心理になっていたからこそ、私はこのセリフに深く共感しました。
後半の歌詞とも解釈が似てくるように感じます。
中学生の頃、この二番のサビは恋愛のことだと思っていました。
端から見たら両想いなのに、本人たちはいじらしくも一歩前に踏み出せない様子です。
しかし、大学生になって見方が全く変わりました。
母親と電話で喧嘩した時、しかも、何回も言い合いになった時、毎回言いたいことが言えなくて不完全燃焼のような気持ちを抱えていました。
私の意思や気持ち、想いすべてを伝えることができていなかったような気がしていました。
そのたびに、毎晩眠れなくて、「どうしていつも言えないんだろう」とか「どうして言えないままで言われっぱなしになるんだろう」ともやもやを抱えていました。
そして「母親に嫌われること、見捨てられてしまうことが怖いんだ」と気付きました。
二十歳越えたいい大人が、と思われるかもしれませんが、両親と私は所謂共依存の関係です。
私も怖かったし、両親は私が手の届かないところに行ってしまうような気がして、怖かったのかもしれません。
そうやってもやもやを抱えていても朝は来ました。
こうやって気付いた日が私にとってのばらの日だったかもしれません。
あれが薔薇ならこれは虚無
ここの歌詞は、文章の切れ方が良くわかりません。
よくわからないようにしているのかもしれませんが。
暗がりを走っているのは僕でしょうか、君でしょうか。
こうやってわからなくなること自体が、『僕』の中で『君』という存在が重要になり過ぎているのではないかなと思いました。
だから暗闇を走っているときでも『君』が見ているような気がして、本当はいないのに。
それが『僕』だけではなく『君』もだったら。
一番の歌詞があるため、君に会うつもりだったのに会えなくなったのは、バスのせいにしているように聴こえました。
言い訳を作って、「あーあしょうがないや」って言いながら、心では何とも思っていない様子が目に浮かびます。
『あんなに近づいたのに 遠くなってゆく』のは、心が通じ合うと一瞬でも感じたからこそ共感し合えないと気付いたときの絶望感が大きいことを彷彿とさせました。
お互いのことを思っていた頃を「ばらの花を掲げていた」と表現するのであれば、
お互いの関係性に疑問を感じて失望して絶望して、会えなくなったことにほっとしている様子は、何の花にたとえられるのでしょうか。
何の花にも例えられないような気がします。
何にもない空っぽの手のひらを眺めているように感じました。
それでも『だけどこんなに胸が痛むのは』と言っている部分が、切りたいのに切ることができない、自分の中で愛情を完全になくすことができない様子が伝わってきて、私の胸が苦しくなります。
前みたいな味には戻れない
ジンジャーエールが思い出の味ならば、きっと、一番の歌詞で飲み干して気が抜けたジンジャーエールは特別な感情が亡くなり、失望や絶望を表していたのでしょう。
だからこそ、ここでジンジャーエールを改めて飲んでみても、前みたいな味は得られないのかもしれません。
前みたいな心情で、前みたいな関係になることは不可能なのかもしれません。
それでも、「これまでできなかったことを自由に思い通りにやっていこうね」という意思が感じられる最後です。
もう大丈夫、こわくてもいいよって言ってくれているような気がしました。
それまでそろっていたハーモニーが崩れていく様子が、二人がそれぞれの道を歩み出したような表現になっているのかなと思いました。
さいごに
ここまで読んでくださってありがとうございました。
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