【歌詞考察】井上陽水「氷の世界」-孤独の世界から僕を助けて!

はじめに

井上陽水という名前を聞いて、どんなことを思い浮かべますか? 「サングラスかけてる人だよね!」「ミュージシャンってのは知ってるけど」「神無月がモノマネしてたよね(笑)」 こんな感じでしょうか?
井上陽水は1948年生まれのシンガーソングライターで、1969年から現在に至るまで活動されている日本の音楽界を代表するミュージシャンです。代表曲は、「傘がない」「夢の中へ」「最後のニュース」「少年時代」など。他のアーティストへの楽曲提供も多く、中森明菜の代表曲「飾りじゃないのよ涙は」、安全地帯の最初のヒット曲「ワインレッドの心」、PUFFYの名曲で作曲を奥田民生が担当した「アジアの純真」などがあります。最近では映画『すずめの戸締り』で「夢の中へ」が流れたり、B'zの稲葉浩志が「ダンスはうまく踊れない」をカバーしたりして話題になりましたね。
そんなヒットメーカー井上陽水の初期の代表曲として知られるのが、この「氷の世界」です。一見難解で意味のワカラナイこの曲ですが、よーく噛んでみると旨味が溢れ出す一曲なんです。今回はこの「氷の世界」について私的な考察や感想を書いていこうと思います!

「氷の世界」

「氷の世界」概要

「氷の世界」は、1973年に発表されたアルバム『氷の世界』(日本初のLPレコード販売100万枚を突破した大名盤!)の表題曲で、アルバムの5曲目に収録されています。作詞作曲はともに井上陽水。編曲は星勝(ほしかつ)とニック・ハリソンが担当しました。ロンドンで録音が行なわれ、コーラスは現地の歌手がうたっています。

「リンゴ売りのまねをしているだけなんだろう」?

それでは歌詞のほうに入っていきましょう!
まずは冒頭の部分からです。

窓の外ではリンゴ売り 声をからしてリンゴ売り
きっと誰かがふざけて リンゴ売りのまねをしているだけなんだろう

井上陽水「氷の世界」

序盤から、もう、やばい。お尋ねしますが、あなたは「リンゴ売り」なる人間を見たことがありますか? 八百屋でもリンゴ飴売りでもなく、ただの「リンゴ売り」。お店なんでしょうか、それとも屋台なんでしょうか。リンゴの入った籠を前に、声を枯らして客を呼び込んでいる様子が目に浮かびます。
以前、NHKの「名盤ドキュメント」でこの曲が取り上げられた際、作家の伊集院静氏はこの奇妙な冒頭についてこのように分析していました。

ヨーロッパとかアメリカっていうよりも、ロシアとか北欧とかのにおい。不条理?質屋の老婆を殺す若者じゃないけれども、そういうドストエフスキーの持っているような世界みたいなものを、彼も感じていたんじゃないですかね。

伊集院静

ここでいう「質屋の老婆を殺す若者」は、ドストエフスキー『罪と罰』の主人公ラスコーリニコフを指しています。リンゴとはすなわち、人間が隠している「衝動」、金を奪いたい、殺してやる、といった感情を表しているのかもしれません。
ふとここで気になるのは、語り手が「リンゴ売りのまねをしているだけなんだろう」と言っている点。語り手はリンゴ売りなのか、リンゴ売りのまねをしている人なのかを確かめずに、ただぼんやりと推測しているだけなのです。そんな気になるなら、実際に見て確かめればいいのに。でも、語り手は見ようとしない。このフレーズから、語り手が自分の外の世界に関心がないことが読み取れますね。

どいつもこいつもニセモノさ

リンゴ売りが去って、次に出てくるのは「テレビ」と「あの娘」です。

僕のテレビは寒さで画期的な色になり
とても醜いあの娘を グッと魅力的な娘にしてすぐ消えた

井上陽水「氷の世界」

寒い部屋で語り手はテレビを見ている。映し出されるのは女の子。歌番組なのでしょうか? しかし顔が醜い。ひどい言い方をすれば「ブス」。きっと対面したら「ブスだなあ」と思うだろうけど、テレビの鮮やかな色彩と番組の演出でなんだか魅力的に見えてくる。番組が終わると女の子はパッと消えてしまい、女の子は番組の魔法を解かれて現実の醜い顔になってしまう。
楽しくテレビを見ていればいいのに、語り手はそうせずに出演者の容姿を疑うのです。「あの娘の美しさは本来の美しさじゃない。飾られてるだけのニセモノさ」とでも言いたげに。この前でも語り手は「リンゴ売り」が本当のリンゴ売りでないと疑っていますが、どうやらいろんなものや人に疑いを感じてしまう性格のようです。

「寒さ」という真実

今年の寒さは記録的なもの こごえてしまうよ
毎日 吹雪 吹雪 氷の世界

井上陽水「氷の世界」

リンゴ売りにも、テレビの娘にも疑いの目を向ける語り手。そんな中でやってくる曲のサビが上の歌詞です。
ここでいう「寒さ」や「吹雪」は何を意味しているのでしょう?
私はこれを「真実」の象徴だと考えます。
寒い、という感覚。感覚ですから、誤魔化しも嘘をつきようもありません。まぎれもなく寒いのです。しかも「記録的な」寒さです。具体的に数字に出ているわけです。温度計に出ている数字に「これって嘘の数字じゃない?」と疑う人はほとんどいません。
リンゴ売りやテレビの娘を信じることができない語り手ですが、感覚的な寒さや数字は信じるしかありません。この世界はみんなニセモノ。安心して信じられるのは寒さだけ。これってとても悲しいことだと思いませんか? ここで言う「氷の世界」は、文字通り吹雪の世界であると同時に、疑心暗鬼な彼が安心して寄りかかれるとても狭い世界なのかもしれません。

ねえ、誰か「指切り」しようよ

寒さ以外信じられない語り手。一見冷酷に見える彼の本心がわかるのが二番の歌詞です。

誰か指切りしようよ 僕と指切りしようよ
軽い嘘でもいいから 今日は一日はりつめた気持ちでいたい

井上陽水「氷の世界」

ちょっと雰囲気が変わりましたね。さっきまで冷たい雰囲気だった語り手が、ここでは誰かに呼びかけています。それも、とても悲痛な調子で。「ねえ、誰か指切りしようよ。指切り、しようよ……」。
「指切り」。何か約束するときにする儀式ですよね。約束をしたからには、自分は相手がその約束を守ってくれるだろうと信じますし、自分も相手に信じられていると思って行動していきます。言わば、「信じ、信じられる関係」です。太宰治『走れメロス』では、セリヌンティウスがメロスの帰還を信じて待ち続け、そしてメロスも友の信頼に背かぬように走りました。
語り手はこうした関係をもちたいと思っています。「信じ、信じられる」体験をしてみたいのです。でも、なかなか指切りをしてくれる人は現れない。そこで彼は一歩下がって「嘘でもいいから指切りして!」と願うのです。こうした姿からは、一番の歌詞には見られなかった彼の人間らしい一面が見えますね。
語り手の「約束」願望はさらに強くなります。

小指が僕にからんで動きがとれなくなれば
みんな笑ってくれるし 僕もそんなに悪い気はしないはずだよ

井上陽水「氷の世界」

語り手の呼びかけはもっと必死になりました。「小指がからむ」というのは、指切りの動作で、約束をするという意味です。
「約束によって僕の行動に制限がかかったとしても、きっと周りの人は僕を見て笑ってくれるだろうし、僕は僕で約束を守れていることに嬉しさを感じられる。だから誰か指切りしようよ。約束しようよ」。
ここでいう「笑ってくれる」というのは、約束を守った彼に対する称賛の笑みなのか、約束を守るあまり窮屈になった彼を嘲る笑いなのかはわかりませんが、どっちにしろ彼は約束がしたくてしょうがない。自分がどうなってもかまわない。信じ、信じられたいのです。

叶わなかった願い

流れてゆくのは時間だけなのか 涙だけなのか
毎日 吹雪 吹雪 氷の世界

井上陽水「氷の世界」

約束をしたい語り手。しかし結局願いは叶わず、時間だけが過ぎていき、目からは悲しみの涙が流れる。相変わらず彼がいるのは、「氷の世界」という疑いに満ちた狭い世界の中。
ここで注目したいのが、果たして彼が本当願いを叶えようと行動したのかということです。指切りをしようと、自分から声をかけたのかどうか。
私は、彼はただ指切りの相手が来るのを待っていただけではないかと思います。冒頭のリンゴ売りのくだりで、彼はリンゴ売りの正体を確かめずにぼんやりと推測しているだけでした。この指切りの場面でも、彼は誰かに声をかけるわけでもなく、心の中で「指切りしようよ」と叫んでいただけではないか。ここまでの歌詞のすべてが語り手の内省にとどまっていて、行動に繋がっていないのではと思ってしまいます。行動しなければ世界は変わりません。天気は晴れになることなく、外は一面の吹雪です。

傷つけたい、だけど恐い

「氷の世界」のなかでも特にショッキングなのが三番の歌詞です。

人を傷つけたいな 誰か傷つけたいな
だけどできない理由は やっぱりただ自分が恐いだけなんだな

井上陽水「氷の世界」

「人を傷つけたい」という言葉が印象的な歌詞ですが、この部分は「氷の世界」の中でも重要な意味を持っています。人類学者の中沢新一氏は、「名盤ドキュメント」で以下のように述べています。

やっぱり、今に通じている、いちばん強烈に通じているっていうのがここだと思うんですね。「人を傷つけたいな 誰か傷つけたいな」。

中沢新一

では、この歌詞について考察していきましょう。
一、二番の歌詞の考察では、語り手が人や物を疑いがちな人間でありながらも、内面では他者と信頼の関係を築きたいと思っている、しかし自分から行動を起こすことが出来ずに彼の願いは内的な叫びに留まっている、といったことがわかりました。
三番ではこうした感情がさらに過激な形で成長し、「他者と関係を持ちたい」という願望が「他者を傷つけたい」という衝動に変わっています。傷つける、というのは人間関係の最果てに位置する行動です。時々、ニュースやドキュメンタリー番組で殺人事件を起こした犯人が孤独な境遇にあったというケースが紹介されますが、この語り手もそれと同じようなタイプだと言えます。
ただ、「氷の世界」で特徴的なのはこの後。傷つけたいのにそれが出来ない理由が語られます。「やっぱりただ自分が恐いだけ」。この「恐い」という感情はどういった類の「恐い」なのかは色々考えられます。人を傷つけるという行動が「恐い」、人を傷つけたことで社会から追われるのが「恐い」、そして自分から他者に働きかけるのが「恐い」。ここがとてもリアルですよね。語り手が映画や小説のサイコパスなどでは決してなく、恐怖を感じて行動を止める人間に描かれていることで、より彼の存在を私たちの近くに感じます。

みんな僕と同じこと考えてるはず

そのやさしさをひそかに胸にいだいてる人は
いつかノーベル賞でも もらうつもりでガンバッてるんじゃないのか

井上陽水「氷の世界」

「やさしさ」、つまり人を傷つけたいという衝動を抑えて他者と接しようとする感情を持っている人を嘲るようなこの一文。「ハハッ、ノーベル賞受賞者みたいに道徳的な人になるつもりなのかい?」と、人間の社会性を疑う語り手の心情が読み取れます。しかし同時に、自分と同じように破壊的な衝動を持った人間が周りにたくさんいるに違いないという前提のもので発せられた言葉でもあることがわかります。他者とかかわりを持つことができず、悶々と悩み続けた挙句、ついに人を傷つけようとまで考え始めた自分の心を、きっと他の人も理解してくれるはずだ。きっと多くの人がうなずいてくれるはず。そんな心情が隠れているように思います。

変わらない現実

ふるえているのは寒さのせいだろ 恐いんじゃないネ
毎日 吹雪 吹雪 氷の世界

井上陽水「氷の世界」

「寒さのせいだろ」という言葉からは、本当は「恐い」けれどそうではないんだと自分自身に言い聞かせているような印象が伝わってきます。いくら他人の中に自分と同じ衝動を見出したとしても、彼自身が孤独であることは変わりません。依然として彼がいるのは疑いと不安に満ちた「氷の世界」。同じような生活が、明日、明後日、明々後日と続いていきます。語り手はそんな暮らしに怯え震えながらも、やっぱり現実と向き合えずにいます。これを踏まえると、「寒さ」や「吹雪」は、孤独であり続けることに対する不安感の象徴のようにも読み取れますね。

「氷の世界」の現代性

独創的な詞と音楽で現代にいたっても多くの愛聴者がいる「氷の世界」。とりわけその歌詞は、伊集院静氏や中沢新一氏らも絶賛するほど奥の深いものとなっています。
「氷の世界」が発表されたのは1973年。時代としては学生運動が挫折し、大きな虚無感が若者の間に漂っていました。学生運動の流れにのって流行したフォークソング、プロテストソングの勢いが弱まり、井上陽水や荒井由実といった新しいミュージシャンが人気になったのもこの時代です。
「氷の世界」で描かれたのは、そんな時代の若者の虚無感や無気力感だと私は思います。この曲の語り手は、叶えたい願いがあるにも関わらず行動を起こすことができず、終始個人的な内面の世界に閉じこもっています。この語り手がどうしてこうなったのかは語られていませんが、その背景には、当時の社会の淀んだ空気があるのではないでしょうか。
ところで、現代では「引きこもり」や「ニート」といった言葉をよく耳にしますよね。また、「最近の若者は行動しない」「もっといい暮しをしようという願望がない」というニュース記事も度々あがっています。度重なる災害や経済不況によって、社会全体に虚無的な空気が漂っているように感じます。
一方で、SNSやネットニュースのコメント欄では、今日も批判コメントや誹謗中傷の言葉があふれています。社会全体の無気力感に比べ、ネットの世界は過激で、燃えるような空気で充ちている。自分の心の内を、匿名の空間で容赦なく吐き出す現代人たち。この二つの世界の差は何でしょう。
もちろん、必ずしも無気力な人間=ネットに誹謗中傷の文言を書き込む人間ではありませんが、社会全体を一人の人間と見なして考えてみると、「氷の世界」の語り手と共通するものがあるのではないでしょうか。考えてはいるが行動する気力がない。行動しないから鬱々とする。鬱々とした気持ちは時に暴発する。どうでしょう、似ていませんか?

さいごに

発売から50年経った今も、魅力的な光を放ち続ける「氷の世界」。今回はその歌詞に関する考察をまとめてみました。未熟な点、拙い点等多かったと思いますが、そこはぜひ、みなさん自身で考えて補っていってください。今後も機会があったら歌詞の考察を行っていきたいと思います。
ありがとうございました。それではまた!


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