5-1 顧客シナジーの罠
「あまよみ」の罠
M&Aのシナジーでよく語られるものの一つに顧客シナジーがある。コンシューマー向けビジネスでも、法人向けビジネスでも、似たようなニーズを持つターゲット顧客に対して双方のプロダクトをお互いに販売することで売上を高めていこうという、いわゆるクロスセルによるシナジーである。目の前に実際に顧客が存在しているので、戦略紙面上では簡単に実現できそうに語られやすい。しかしながら、以下の要因での障壁が立ちはだかりやすいことを理解しておかなければならない。ポイントは「あまよみ」の存在である。
ターゲットの「あまよみ」
まずはターゲットの「あまよみ」である。例えば営業関連のシステムを販売する会社が新しく物流関連のシステムを販売する会社をM&Aした場合である。顧客のリソース共有を狙って既存クライアントに営業をかけようとしてもそもそも窓口が違うことが多い。そのため、結局のところ同じクライアントであったとしても二つの窓口に営業せねばならず営業コストもその分かかってしまう。窓口を互いに紹介してもらうという行為も考えられるが、そもそも現在のクライアント窓口のニーズに応えるのにいっぱいいっぱいでその余裕が無かったり、現在の提供サービスに満足感を感じていない場合は紹介してくれないこともある。結果として、サービスブランド維持コストも営業要員も営業工数も、特に効率化できずに終わってしまうことも考えられる。
ニーズの「あまよみ」
次にニーズの「あまよみ」である。例えばダイエットを目的としたトレーニングジムを運営している会社が、モデルなどに対して自身の美容を目的としたジムを運営する会社をM&Aした場合である。目の前に指導している顧客に対して追加の営業をかけることでさらなるLTV(顧客生涯価値)を高められることは十分に考えられる。しかし、トレーニングジムに通ってダイエット目的で体重を減らそうとしている顧客にとっては、体重が減ったらゴールであり、さらにそこから先の美容まで取り組むとなるとさらなる時間や費用がかかり敬遠する人も多い。逆に既に美容目的で活動している人にとっては単なるダイエットジムでは物足りない。結果として思うようなシナジーが見込めず成果が上がらないことも考えられる。
クオリティの「あまよみ」
次にクオリティの「あまよみ」である。例えばWEBマーケティング会社がカバーサービス拡大のためにSNSに強いマーケティング会社を買収した場合である。WEBマーケティングの会社からすれば時代のトレンドに合わせたサービスラインナップを並べられたと思ったところ、買収した会社の業務プロセスはそこまで仕組化されておらず属人的なサービスを提供しており、到底現在のクライアントに提供できるようなサービス基準に達していないこともある。DD段階では業務プロセスのクオリティやその精度まで正確に見極めることは困難であり、買収後に分かることも一定存在する。DD段階で見せられた過去の実績も、かつて所属していたスーパーエースが成し遂げてきた業績であり、買収前にその人物が独立して辞めているなどもある。一方で売却したサイドの顧客に営業をかけようとしてもその顧客はそこまで高いクオリティ基準を求めておらず上手くはまらないこともある。
セールススキルの「あまよみ」
次にセールススキルの「あまよみ」である。例えば子供向け教育教材を通信販売する会社が、新しく英会話教材を販売する会社を買収した場合である。子供向け教育教材を販売する会社のセールスパーソンは子供の教育というテーマで顧客と向き合ってきたので、比較的スムーズに英会話教材を提供することができたものの、英会話教材の販売に特化していた会社は、英会話の重要性や有用性を語ることはできるものの、子供の教育全般を語るスキルを持ち合わせていないため、まったくその他の商材を販売することができないなどがある。無理に販売しようとしてもセールストークがチグハグになり、これまでの商材の成約率が下がってしまったため全面的に販売ストップになってしまうなども良くある話だ。
考え方の「あまよみ」
最後に両社の考え方の「あまよみ」である。例えばこれまでコーチングなどに特化していた研修会社が、ロジカルシンキングやIT知識などをメインに扱っている研修会社を統合した場合である。同じ研修会社としてクロスセルは一見容易なように見える。しかし、「人材を伸ばすためには、単なる研修で知識を強化するのではなくコーチングによる内発的な動機付けが大切」ということを顧客への営業トークとして繰り返し謳ってきた会社にとっては、いきなり「知識も大事です」と言って販売するには躊躇するのは当然である。結局、それぞれがサービスの根幹価値を理解しようとせずに中途半端サービス紹介や顧客紹介で終わってしまうのである。
「あまよみ」の解決事例
以上が考えられる「あまよみ」であるが。どれもM&Aの時には“絵に描いた餅”のごとくシナジー効果を夢見て予算立てをしていくが、実際にPMIの段階になってその難しさに直面することとなる。これらの「あまよみ」を解消するためには、顧客課題の抽象度を上げるスキル向上とサービスレベルの均質化を実現することが大切である。例えば、パソコンスクールと資格スクールと英会話スクールをひとつの会社に合併し、トータルキャリアスクールとして展開した会社がある。最大のシナジーポイントは目の前の顧客にたくさんの種類の教育コンテンツを提供し、顧客のLTV(生涯顧客価値)を高めることである。「一カ所でキャリアに必要なコンテンツが全て学べる」という事がビジネスの価値であるが、「あまよみ」があるため、それが必ずしも顧客が感じる価値になるとは限らない。むしろそれぞれのクオリティが下がるマイナス効果も考えられる。その解決方法は、顧客課題の抽象度を上げるコミュニケーションスキルを強化することであった。単純に就職に有利になるようにとパソコンを学びに来た人に、その学ぶ目的をヒアリングするだけでなく、これまでのキャリアや今後のキャリア願望などを丁寧に把握することで、背景にある動機を見出し、「不動産業界で正社員として活躍したい」などのキャリアゴールを設定してもらうことで、パソコン以外にも宅地建物取引士の資格や場合によってはファイナンシャルプランナーの資格なども提案していくのである。その会社は、社内において顧客課題の抽象度を高めるためのコミュニケーション研修を全社員に徹底して行った。また、サービスクオリティも標準化するために、顧客のカウンセリング技法などもすべての学びに対応できるように標準化し、これも社員研修で徹底していった。結果として徐々にその勘所をつかみシナジーが発揮できるようになってきたのである。それ以外にも、クロスセルを促進した店舗に対しては評価を高めるなどの管理会計制度や人事制度も整えていくことでさらに促進されていった。
M&AにおいてはDD段階でシンプルに「クロスセル促進で売上高を120%向上させる」などと書かれているだけのことが多い。戦略設計段階では単なる数行で済むシナジーポイントであるが、実際の現場に降りた時には上記の微妙な「あまよみ」から動きが止まるということは多い。特に近しいサービスや顧客層であればあるほど、そのズレに気づかずに戦略を落とし込み、「なんで現場は動かないのか?」などと𠮟責していることも多い。絵にかいた戦略が描くためには、現場がなぜこれが大切なのか、どのような視野が求められるのか、具体的にどんな力をつけなければならないのか、個々の社員が動くための仕掛けはどう設定するのかなどの細かい戦術をひとつひとつ丁寧に描くことが大事なのである。
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