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『淑子さん』

 2021年3月。僕が大学に入学する直前の春休み。暇を持て余していた僕と、同じ家に住む祖母が、台所で居合わせた。和室のベッドから起き上がり、洗い物をするために台所まで来た祖母が、僕に声をかけた。

「おばあちゃんの頼み事を一つだけ聞いてくれへん?」

頼み事の内容は、毎年祖母が参加している親戚の集まりに、孫である僕にも参加してほしいとのことだった。毎年春になると、長野県にある祖母の妹夫妻が持つ別荘に、祖母の親戚が集まる。祖母の親戚しか集まらないので、当然その場に集まるのはお年寄りだけ。そのお年寄りだらけの集まりに、当時19歳の僕が呼ばれた。正直に言うと、そんな集まりには絶対に参加したくなかった。お年寄りに過剰に話しかけられ、僕はそれに応えるために気を遣い、自分の顔が引き攣る未来が見えていた。それに、残りの人生が僅かしかない方々が年に一度、待ちに待った集まりに臨むわけだから、皆さんのテンションが相当高いだろうという想像もついていた。僕はそのテンションについていける自信がなかった。それに加え、祖母にはデリカシーがない。祖母は思ったことをなんでも口にしてしまうタイプで、その血を引いた親戚が集まるとなると、僕は相当な苦労を強いられるだろうと思った。行きたくない理由はそれ以外にも、挙げ出せばキリがないほど沢山あったが、祖母のある一言で行くことを決めた。

「孫を連れて行くことがおばあちゃんの夢やねん。他の頼み事はもう聞かんでもいいから。死ぬ前におばあちゃんの頼み事を聞いて」

こんな言葉を聞いて断れる孫はいないと思う。集合場所は、大阪府東大阪市の某所。僕はそこに祖母を車で連れて行った。既に親戚一同は集まっていた。メンバーは僕と祖母を除いて、次の通り。祖母の姉の淑子さん、祖母の妹の和子さんと、その夫である吉謙さん。その3人に僕と祖母が加わり、合計5人。和子さん夫妻の別荘が長野県にあり、そこまで大阪から車で行くとのことだった。車内での時間が地獄だったということは、言うまでもない。


 別荘に着く頃には、僕は親戚一同の方々の人柄を一通り理解していた。淑子さんは、感情をあまり表に出さず、静かに旅を楽しんでいる。一同の最年長で、おそらく85歳は超えている。足を悪くしていたので、終始杖をついていた。杖が機能しない時は、僕が淑子さんに肩を貸していた。肩を貸す度に、耳元に聞こえるか聞こえないか程度の大きさの掠れ声で「ありがとう」と言ってくれる。人柄の良さが、とても滲み出ている人だった。和子さんは、お年寄りとは思えないほどのしっかり者で、とても思慮深い方だった。歴史に詳しく、長野の街をガイドしてくれた。夫の吉謙さんは、寡黙で一見厳格そうだが、感情を素直に表現することが苦手な、とても優しい方だった。皆んながとても良い人なので、居心地は悪くなかった。


 なんだかんだで、旅を楽しんでいる自分がいた。島崎藤村が生まれた街を、和子さん夫妻にガイドしてもらいながら歩いたり、馬と触れ合ったり、旅館の美味しい料理を食べながら皆んなで話したり、温泉に入ったり。同級生の友達と遊ぶ時とは違う、何ものにも代え難い楽しさが、そこにはあった。


 旅館での就寝時間の出来事。5人全員が同部屋で、僕だけが少し離れたところで布団を敷いて寝ていた。僕は眠れなかったので、ずっとスマホを触っていた。午前2時頃になり、部屋からは、僕のスマホから流れる音しか聞こえなくなったので、そろそろ眠りにつこうと思った、その時。突然声が聞こえてきた。淑子さんの声。耳を澄ませてみれば、それは歌声だった。童謡の『故郷』を歌っていた。

「兎追いしかの山 小鮒釣りしかの川
夢は今もめぐりて 忘れがたき故郷」

淑子さんの歌声を聴いた時、なんだかとても切なくて寂しい気持ちになった。深夜の2時という時間帯と、淑子さんの掠れた歌声と、歌詞とメロディが妙に噛み合っていて、胸が痛くなった。歌声がとても寂しげだったのもひとしおだった。今までの人生で感じたことのない感情が、そこで芽生えた。


 次の日の朝、長野を出て大阪に向かった。帰りの車内は驚くほど静かだったので、僕もそれにつられて眠りそうになったけれど、それを我慢して、大阪に着くまで必死に車を運転した。数日前の朝に集合した、東大阪市の某所に着く頃には、既に夕方になっていた。僕は祖母以外の3人を車から降ろし、お別れの挨拶を済ませ、車を走らせようとした、その時。バックミラーに、ある光景が映った。淑子さんがひとり立ち尽くして、こちらに向かって小さく手を振っていた。もし僕がバックミラーを見なければ、淑子さんには気がつかなかった。淑子さんは、僕と祖母が後ろの光景を見ると信じて疑わなかったのか、それとも僕たちが後ろを見ようと見まいと、手を振りたかったのか、どちらかはわからない。ただ一つ、確信めいた予感がした。淑子さんとは、もう二度と会うことができないだろうという予感が。寂しげに手を振る淑子さんの姿が、僕の目にはなんだか切なく映って、別れが急に惜しくなり、涙が出てきた。この年の12月に、淑子さんは亡くなった。あれから2年以上が経った今でも、あのバックミラー越しの淑子さんの姿を忘れることができない。

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