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『コンプレックス』

 人間は、自分のことを語らずにはいられない生き物。自身の感情や過去の経験、不幸自慢やコンプレックス。それらの一つ一つが、たとえ壮絶でなくても、誰かに知ってほしい。感動的に伝える才能はないけれど、誰かに伝えたい。自分自身の内面を語らずにはいられないのは、それが抗いようのない人間の本能だからだと思う。


 僕の人生の9割は、良くも悪くも兄に影響されている。両親よりも、兄が絶対的な存在で、それは今も昔も変わらない。話し方や価値観、趣味や服のセンス。兄が好きなものが好きだったし、兄が嫌いなものが嫌いだった。兄が正しいと言うことは正しいと思っていたし、兄が間違いだと言うことは間違いだと思っていた。兄が発する言葉の一つ一つには、説得力がある。なぜなら兄は、勉強も運動も仕事も遊びも優秀で、何でも器用にこなし、何事にも失敗しない人だから。僕が兄よりも勝っていることなど何一つなかったし、彼はまさに僕の上位互換のような存在だった。そんな人が、物心がつく前からずっと、僕の身近にいたので、恐らく洗脳に近いような状態に陥っていたと思う。そして今も、その洗脳から解けてはいないと思う。兄と僕の関係は、兄弟というよりも、上下関係だった。僕が小さい時は、兄の機嫌を損ねる行動をとれば、よく殴られていた。兄が僕の法律だった。僕が人の顔色を窺って、言いたいことを言えないようにはなったのは、兄の存在が原因だと思う。


 家庭環境についての不満は、特になかった。両親が毒親なわけではなかったし、家庭が経済的に困窮しているわけでもなかった。ただ一つ、住む家がボロボロなことだけが嫌だった。一階建ての、木造建築の平屋。一目見ただけなら、大きくて、昔ながらの趣がある家のように感じる人もいるのかもしれない。僕が何よりも嫌だったのは、玄関の扉を開ける時。普通の家のように、ドアノブを下げるだけの扉ではなく、僕の家はガラガラと横にスライドするタイプの扉だった。家は、朝にたくさんの人が歩く通学路にあったから、同級生に、僕がボロ屋からガラガラと扉を開けて出てくる姿を見られるのが、たまらなく嫌だった。梅雨の時期になると、洗面台にナメクジがいない日がなかった。お風呂の浴槽にアメンボが浮いていることも多かったし、寝る部屋は父親が吸う煙草のヤニまみれで、本当にボロボロな家だった。僕らはそんな家が嫌いだったので、ボロ屋に住んでいることが友達にバレる度に

「これ、おばあちゃんの家やねん」

と言って誤魔化していた。

「俺がほんまに住んでるのは、あのマンションやで」

と言って、ボロ屋の近くにある高級マンションに指を差し、そこに住んでいると言い張っていた。そのことを疑問に思っていた友達が、マンションのロビーまでついてきたことがあった。ロック解除の番号を知るはずがない僕の手には大量の手汗が滲み、焦りで腹の底からは熱いものが逆流し、半泣きになりながらその修羅場を潜り抜ける方法を考えていた。中学生の時に着ていた白い夏服には、ヤニの匂いと色が染み付いていた。その服の匂いと黄ばみのせいで、生徒指導のヤクザみたいな先生に、煙草を吸っている疑いをかけられた。夜の7時まで居残りで怒鳴られ続けたこともあった。僕は、人生で一度も煙草を吸ったことがない。


 兄も、ボロ屋に対して相当なコンプレックスを抱いていた。

「友達をこの家に絶対に呼ぶな」

と僕は小さい頃から兄にずっと言われ続けていた。しかし、一度だけ兄からの言いつけを破って、友達を家の中に招き入れたことがある。僕が小学3年生の時。当時はポケモンのダイヤモンド・パールが流行っていて、放課後に男女5、6人が集まって、ポケモンの交換や通信対戦をしていた。いつも、誰かの家に集まってゲームをしていた。僕は人の家の匂いが大好きだった。清潔感のある部屋に入って、家の良い匂いを嗅ぐと、幸せな気持ちに包まれると同時に、羨ましくて、羨ましくて、たまらなくなっていた。そんなある日のこと。その日は都合上、誰の家にも行くことができない日で、消去法で僕の家に皆んなが来るという流れになってしまった。僕はその場の空気がシラけることが怖くて断れず、皆んなを家に招き入れてしまった。初めて自分の家を誰かに見せるので、冷や汗か止まらなかった。5、6人の友達の中には、好きな女の子がいたので、余計に心臓がバクバクした。その日は学校の授業が4限で終わりだったので、兄が帰ってくる前に、皆んなを家に帰せばバレないから、問題ないだろうと思っていた。扉をガラガラと開け、友達を家の中に入れると、祖母が嬉しそうに友達を招き入れた。僕はそういう、無駄にお節介で出しゃばりな祖母が小さい頃からずっと苦手だった。祖母に招き入れられた祖母と僕は、家の中で一番大きい部屋のこたつの中に入った。その後は、家のことを気にせず、時間を忘れて皆んなでゲームを楽しんでいた。ゲームとお喋りに夢中になってから少し時間が経ったその時、家の扉がガラガラと開く音が鳴った。両親が帰ってくるのには早すぎる時間。体から冷や汗が止まらなくなり、お腹の底から熱いものが逆流した。心臓が張り裂けそうだった。やっぱり、兄だった。兄は帰ってくるなり、コタツで固まってお喋りをしている僕たちを見るなり、舌打ちをした後、鬼の形相で睨みつけてきた。地獄のような空気を察知して焦った僕は、直ちに友達を帰した。その後、兄にボコボコに殴られたことは、言うまでもない。


 そんな兄に、一度だけ刃向かったことがある。僕が中学3年生で、兄が大学生の時。喧嘩のきっかけは、あまりにもくだらなかったため、詳しくは覚えていない。兄に煽られ、揶揄われた僕は腹を立てて、兄が部屋の壁に飾っていたAKBのポスターをぐちゃぐちゃに丸めてゴミ箱に捨てた。そのことに気づいて怒り狂った兄に、ボコボコにされた。それを見た父が、喧嘩を仲裁するために兄と僕を殴った。父が息子を殴る光景を見た祖母が、父に対して怒った。祖母は母方だったので、父とは血が繋がっておらず、不仲だった。祖母がお節介で出しゃばりなのを、父がよく思っていなかった。祖母と家の中ですれ違う度に父は舌打ちをしていて、祖母はそれを我慢していた。兄と僕の喧嘩により、父が二人の息子を殴る光景を見た祖母の堪忍袋の緒が切れ、初めて祖母は表向きに、父に対する不満を露わにした。

「汚い手で孫に触れるな」

という、祖母の言葉と声色は、今でも耳の中に焼きついている。アル中の祖父も、祖母に加勢した。祖父母に逆上した父は、怒鳴った。その光景を見た母が、涙を流しながら双方の仲介をしていた。この事件を引き起こした兄と僕は、ただ呆然と、その光景を眺めること以外、何もできなかった。この事件がきっかけで、家庭が崩壊した。父と母は別居した。兄と僕と祖父母は、母について行った。両親はボロ屋を引き払い、別々に新しい家で暮らすことになった。


 家庭が崩壊した、中学3年生の時。同時期に、僕は不登校という問題も抱えていた。僕はいじめられたとは認めたくないけれど、周りから見ればいじめられていたと思う。中学3年生になった時、稲岡君という男子生徒とクラスメイトになった。稲岡君はヤンキーで、皆んなから面倒がられているやつで、僕も彼のことが嫌いだった。クラスメイトになるなり、稲岡君は僕に目をつけてきた。僕が何でも彼の言うことを聞くので、都合の良い存在だと思われていたのだと思う。煙草の見張りから、肩パンの相手、一発ギャグの強要。僕が何よりも辛かったのは、一発ギャグの強要だった。授業が終わるチャイムが鳴った瞬間に、

「一発ギャグやりまーす」

と言わされ、クラスの皆んなの前でさせられる。好きな女の子もそれを見ているわけだから、僕にとっては屈辱でしかなかった。毎日寝る前になると、次の日のために、泣きながらギャグを考えていた。この一発ギャグの強要は、僕にとってはトラウマで、今でも夢に出てくるし、思い出すだけで発狂しそうになる。稲岡君との付き合いは、放課後にも続いた。溜まり場のコンビニで、稲岡君と、その友達のヤンキー達と、ただ喋るだけ。しかし、放課後の稲岡君は学校と違い、優しく接してくれた。その優しさが、より一層、僕の判断力を狂わせていたのだと思う。そんな日々に嫌気が差した僕は、意識的に稲岡君を避けるようになった。遊びに誘われても、嘘をついて断っていた。

「今日は野球の平日練習があるから行かれへん」

と、遊びに誘われる度に言っていた。あまりにも、僕が同じ言い訳を使いすぎたので、察したのか、稲岡君は僕の家の前まで来て、僕の自転車が駐輪場に停まってきることを確認し、嘘を暴いた。次の日の朝、男子トイレの前に呼び出されて、お腹を蹴られたことは覚えている。しかし、他に何をされたのかは、頭が真っ白になっていたので、よく覚えていない。稲岡君の、僕に対する仕打ちがエスカレートしていく度に、クラスの友達が僕のことを心配してくれるようになった。しかし、僕は心配される方が辛かった。自分が情けなくなった。放っておいてほしかった。友達の古川君が、毎朝家まで迎えに来てくれるようになった。古川君は、中学時代の親友とも呼べるような存在だった。学校に着くまでの間、2人で一緒に楽しく話してくれた。学校に着くまでの間は、彼は嫌なことを忘れさせてくれた。登校時、校門の前で稲岡君の姿が目に入ると、古川君は背中で僕を隠して、守ってくれた。古川君に対する感謝というよりも、自分自身に対する悔しさと情けなさが込み上げてきた。あまりにも惨めな気持ちになったので、昼休みはトイレに篭って、ずっと泣いていた。周りの人からの心配が、かえって辛くなり、僕は学校に行きたくなくなった。こうして、僕の不登校生活が始まり、卒業式の日まで、僕は学校に通うことはなかった。


 僕が中学3年生の時の1年間に、家庭崩壊と稲岡君の件がほぼ同時期に起こったので、その期間はとても辛かった。しかし、高校の3年間は、人生においての安定期だった。中学時代の経験から、地元に嫌気が差したので、高校は同じ中学の同級生が1人もいないところに行った。新しい人生を始めたかった。高校2年生の時に、尾花君と出会った。初めて、僕が好きになった男の子だった。尾花君は、イケメンのバスケ部だった。イケメンだけど、決して気取っている態度は取らず、常にテンションが高くて、愛嬌があった。尾花君は、いじられキャラ的なポジションもできて、少し残念なイケメン感があって、皆んなに愛されるようなキャラだった。友達として、とても接しやすかった。高校時代で彼とクラスメイトになったのは、2年生の時の1年間だけだったけれど、かなり仲良くなることができた。この時点では、彼に対する恋愛感情など皆無で、ただの面白い男友達として彼を認識していた。


 やがて高校も卒業し、予備校に入った。1浪して、志望する大学を目指した。その予備校で、再び尾花君と出会った。高校のクラスメイトだった彼と、この大きな予備校で出会うことがお互い嬉しくて、心強くて、一気に友達としての距離が縮まった。自習室に篭る時は、いつも隣の席だったし、お昼休みはいつも一緒にご飯を食べていたし、大学のオープンキャンパスも彼と2人で行った。予備校に入ってからの尾花君との関係は、親友と呼んでもよかったと思う。


 そんな予備校時代に、1つだけ事件が起きた。5月頃。帰宅中に、LINE通話がかかってきた。中学時代の友達の、出水君だった。出水君は、いつメンの1人だった。彼はパシリ的なポジションで、遊ぶ時は彼の家が溜まり場になることが多かった。彼はどちらかといえば内気で、優しいやつだった。いつメンの中でも、僕と出水君は特に仲が良く、彼のお母さんとも仲良くしていた。中学を卒業してからは、彼とも疎遠になった。かかってきた電話の内容は、お金を貸してほしい、とのことだった。僕は悲しくなった。4、5年ぶりに話す友達が発する第一声が、お金を貸して、はふざけていると思った。一応金額を訊いたら、5万円を貸してほしい、とのことだった。金額が大きかったので、僕はやんわりと断ってから、電話を切った。切ってから数時間後、再度彼から電話がかかってきた。

「やっぱりどうしてもお金を貸してほしい。絶対に返すから。お前しかおらん」

その言葉に押されてしまった僕は、彼の話を聞くことにした。今になって振り返ると、本当に自分が馬鹿だったと思う。聞きたかったのは、お金が必要な理由。それ以上に、久々に出水君と話がしたかった。お互いの最寄駅で待ち合わせをした。遅れて来た出水君は、僕の知っている内気な出水君ではなかった。なんとなく察しはついていたけれど、僕は悲しくなり、話したいという気持ちが失せた。彼がお金を必要とする理由は、彼がヤンキーグループに入っていて、そのグループから抜けたいという意思表示をしたら、ボス的な人物からお金を要求された、みたいなことだった。馬鹿馬鹿しいとは思いつつも、僕は結局5万円を貸すことにした。

「絶対に返せよ」

と、何度も念押しをした。出水君は

「1ヶ月後には絶対に返す」

と答えた。しかし、約束の1ヶ月後になっても、彼からの連絡はなかった。僕は何度も彼に電話をかけた。覚悟していたことではあるが、出水君とは音信不通になってしまった。悲しみも怒りもあったが、僕は受験勉強に集中しなければならなかったので、5万円を諦めることにした。


 ところが、彼と音信不通になってから数ヶ月が経ち、お金のことを忘れかけていた時、いきなり稲岡君からのLINEメッセージが届いた。通知を見て、稲岡君の名前を確認した瞬間、心臓が飛び出そうになった。LINEは交換していなかったはずなのに。いったい、誰から僕の連絡先を聞いたのだろう。出水君との音信不通があった後のこのタイミングで、稲岡君からのLINE。嫌な予感しかしなかった。稲岡君からのメッセージの内容は

「出水が金返せへんくて困ってるやろ? 俺もあいつに金貸してて音信不通になってるから、協力せえへん? 絶対にお前の5万も取り返したるから」

といったものだった。今になって振り返ってみれば、なぜその時の自分が、その話に応じてしまったのかはわからない。そもそも、なぜ稲岡君が、僕が出水君に5万円を貸し、彼が音信不通になっていることを知っているんだろう。危険な違和感を胸の奥底の引き出しにしまい、稲岡君と近所のコンビニ前で待ち合わせた。5年ぶりに会う稲岡君は、中学時代とは比べ物にならないほど、怖い見た目をしていた。中学時代は典型的なヤンキーという感じであったが、久々に見た稲岡君がまとう雰囲気は、もう犯罪者のそれだった。彼は悪い方向に成長していた。二度と会いたくないと思っていた人と、対峙した。中学時代と同じように、同じコンビニ前で、隣り合って座った。中学の時と変わらない、独特な香水の匂い。僕はその匂いを嗅ぐ度に、胃から何かが逆流しそうになるほどの、圧迫感を覚えた。2人で話しているうちに、彼の目的がわかった。稲岡君も出水君にお金を貸していて、お金を取り返したいが、彼は出水君の家に入ることができない。なぜなら、出水家が稲岡君を出入り禁止にしていたからだ。それゆえに、出水君と、出水君のお母さんと仲が良かった僕なら、出水家に直接入り、お金を取り返すことができると思って、稲岡君は僕を利用した。その計画を聞いた時、なにかとんでもないことに巻き込まれている予感がした。稲岡君からは、逃れられないことを、この時に悟った。


 僕は稲岡君の指示通りに、出水家のインターホンを鳴らした。出水君のお母さんが出てきた。お母さんは、久々に僕の顔を見るなり、嬉しそうな顔をするので、僕はなかなか要件を切り出すことができずに、他愛のない世間話に付き合っていた。お母さんは終始ニコニコしていた。その笑顔を見て安心した僕は、意を決してお金の件を切り出した。すると、お母さんの笑顔は嘘のように、一瞬で消えた。お母さんは、白い封筒を家から持ち出し、そこに札束を入れた。札束を僕に渡したお母さんが最後に発した言葉は

「次家に来たら警察呼ぶよ」

だった。分厚い封筒を持った僕は、稲岡君が待つコンビニへ戻った。お金を取り返せたことで機嫌を良くした稲岡君は、僕のことを褒めてくれた。しばらくの間、稲岡君と談笑をしているうちに、彼に僕の連絡先を教えた人の正体がわかった。稲岡君が教えてくれた。古川君だった。背中で僕を守ってくれた、親友だと思っていた古川君が、そんなことをした事実を受け止めることができず、僕は完全に人間不信になった。


 コンビニで稲岡君と別れた後、僕は1人で夜道を歩きながら帰っていた。狭い裏道を歩いていると、背後から爆音のクラクションが鳴った。僕に対して鳴らされたクラクションだった。車の中から、僕と同級生くらいのヤンキーみたいな人が出てきて、僕に対して怒鳴り散らしてきた。僕はとりあえず、謝るだけ謝り、その場をやり過ごした。嫌な予感がした。タイミングが良すぎる。後日、案の定、稲岡君から連絡がきた。

「クラクション鳴らしたの俺の友達やねんけど、お前のせいで車に傷ついてんやんか」

と。ほら、やっぱり。稲岡君が、僕をタダで帰してくれるはずがないことはわかっていた。あり得ないほどの額のお金を請求された。具体的な金額は覚えていないが、もうあり得ないほどの額だった。僕は受験生だったので、流石にそこまでの話には付き合っていられなかった。LINEを含む、稲岡君のSNSはすべてブロックした。稲岡君は、別居後の僕の新しい家も知っていたので、このタイミングで、一人暮らしをしている父の家に転がり込んだ。それからしばらくの間は、彼に見つかることはなかった。


 数ヶ月後、僕は稲岡君に見つかることになる。夜中に、勉強の息抜きの散歩がてらに古本屋に行った。お店の入り口まで歩こうとした瞬間に、駐車場から激しいエンジン音と、怒鳴り声が聞こえた。僕の苗字を呼ぶ怒鳴り声。稲岡君のものだった。僕の頭の中は真っ白になり、金縛りにあったかのように、体が動かなくなった。人は本当に恐怖を感じると、逃げることすらもできないことを実感した。僕に怒鳴りながら、車の中から出てきたのは、稲岡君と、その友達。友達の方は、僕が知らない人だった。寒かったので、ジャンパーのポケットに手を入れていると、

「人が話してるのに、なにポケットに手ぇ入れてんねん」

と、友達の方に怒鳴られた。僕は2人に、無理やり車の後部座席に乗せられ、座席に座るなり、詰め寄られた。

 「俺の知り合いの派遣先で働いて金返せ。最悪の場合、マグロ漁船に乗せるぞ」

などと脅されたが、その他の細かいことは、もう覚えていない。そのまま車で稲岡君の家まで連れられ、部屋に閉じ込められた。部屋の中に閉じ込められたのは、夜中の1時ぐらい。稲岡君は、午前3時まで外に用事があるので、僕だけがしばらくの間、部屋に取り残された。ここしか逃げるチャンスがないと思った僕は、死ぬ覚悟で、稲岡君の自転車を使って逃げた。彼の自転車は、近くにあったドブ川に乗り捨てて、無我夢中で走り去った。息が血の味がしたが、それでも構わず、死ぬ気で逃げた。あれから3年が経つが、今もまだ逃げ延びることができている。


 出水君と稲岡君とのお金のトラブル、そして、古川君の件。人間不信の極限までに達していた時期と、予備校での受験の最も重要な時期が重なっていた。流石に病んでいた。本気で死にたいと思っていた。予備校で顔を合わせる尾花君にも、毎日のように、死にたい、と言っていた。尾花君も気まずそうにしていた。本当に申し訳なかった。ムードメーカー気質の尾花君は、その場が暗い雰囲気になることを嫌い、やめろやー、と言って、いつも茶化してきた。もう、尾花君にこういう話をするのはやめようと思った。尾花君と帰り道で別れ、電車の中でLINEを開くと、彼からメッセージが届いていた。

「お前が死にたいって言ってんの聞くの、辛いから。友達としてお前はほんまに大切やから、しんどい時はいつでも俺に言ってな」

そのメッセージを見た時、僕の中で色んな感情が込み上げてきた。自分の中で我慢して、硬直させてきたものが、一気に緩んだ。僕ってこんなに、溜め込んでいたんだな。こんなに、辛かったんだな。こんなに、尾花君のことが好きだったんだな。


 結論を言うと、尾花君に対する恋が実ることはなかった。高校生の時から、彼はずっと彼女持ちだった。彼がバスケ部のマネージャーと付き合っていることは、ずっと知っていた。高校生の時は、尾花君が羨ましかった。しかし、この時の僕は、彼女を羨ましく思った。僕が尾花君のことを好きだと自覚した時は、本当に嫉妬した。なんでこいつに彼女がいるんだ、と毎日のように考えていた。


 最終的に僕も尾花君も、志望する大学に合格した。やがて、恋愛感情も落ちつき、今は彼とは年に1〜2回飲みに行く仲に落ち着いている。


 僕はもう、人を喜ばせるために生きようとも、楽しませるために生きようとも、思わないことにした。自分が辛ければ、他人の幸せにも意味がない。僕の人生は文字通り、コンプレックスの塊だけれど、この自分の醜い部分も好きになることができればいいと思う。とりあえず今日も一日、頑張って生きよう。

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