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【コドモハカセと記者の旅:アヴィニョン3日目の夜】ドーデーの騾馬が見た恐怖

【登場人物】
コドモ:長女4歳、次女1歳。
ハカセ:40代の建築史家。合理主義者。
私:30代の報道記者。転職しようか悩んでいる。

【これまでのこと】
昨年9月、家族4人でフランスを旅した時の記録(記憶)。アヴィニョンでは教皇庁宮殿で悲鳴を響かせるコドモにストレス爆発。2日目のアルルでは古代ローマ遺跡やゴッホゆかりの地をめぐり、「アルルの女」にも出会った。3日目はタイパ重視の強行軍。朝からオランジュで「世界一の壁」に感動した後、アヴィニョンのロシェ・デ・ドン公園で即席のピクニック、午後はニームの駅前で歩かない次女に手を焼いた。彼女の気持ちを思いやれないことに罪悪感を抱きつつ、円形闘技場やフォンテーヌ庭園を巡り、南仏最後の夜を迎える。

【前回の記事】



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 このいたずら者ティステはひどい悪ふざけをやったのだ!酒を飲むとずいぶん酷いことを思いつくのだった!… ある日、聖歌室の塔、あの高い、一番高い宮殿のてっぺんへ騾馬を上がらせようと企んだのだ!…これはコントではない。二十万のプロヴァンスの人が見たのである。哀れな騾馬の恐怖! らせん階段をめくら滅法、一時間も回って、いくつあるか数え切れぬ階段をよじ登ったあげく、突然、光まばゆい物見台に出た時、そして脚下千フィートの所に、夢のようなアヴィニョン全市、はしばみの実くらいの大きさの貧弱な市場、赤ありのように兵営の前に集う法王の兵士、またかなた銀糸の上に、人々の踊り狂う小さな橋を見つけた時の気持…ああ可哀そうに、どんなに驚いたろう! 騾馬のあげた叫び声に、宮殿の窓ガラスがことごとく震動した。

ドーデー作、桜田佐訳「風車小屋だより」岩波文庫

アヴィニョン最後の夜に、ホテルのベッドの中で再び「風車小屋だより」を開いた私は、この「法王の騾馬」を読んだ。初日の教皇庁宮殿で、あるいはこの日の日中に即席ピクニックをしたロシェ・デ・ドン公園で、高い尖塔や展望台から、アヴィニョンの街とローヌ川にせり出したサン・ベネゼ橋を眺望していたので、この小説の中の騾馬が見た景色を、まざまざと思い浮かべることができた。

 恐ろしいことに、物見台で罪もなく足を震わせた騾馬の恐怖と、子を投げ落とすことを一瞬でも想像した自分の恐怖とが、脳内で交錯したのである。 初日の教皇庁宮殿、2日目のアルル、3日目のオランジュとニームを経て、私は今回の旅が「違和感」や「後悔」で終わるのではないかという不安を深めていた。

次女は、日本では比較的よく歩くし、公園の滑り台の階段だって、この月齢の子にしては驚くほどサクサク登る。それがフランスに来た途端、まともに歩いてくれない。抱っこひもに入れるか、荷物のように持ち運ばなければ移動不可能であることが常態化しつつある。せめてもう少し、歩いてくれると思っていたのに―――。


 
「ふざけんなこの野郎」と、思われた方はいるに違いない。
 
日本の日常とフランスでの非日常が、同じであるはずがない。公園の遊具と、歴史的建造物の石段を比べること自体が常軌を逸している。にも関わらず、私はこの旅行で独身時代と同じような幸福を味わえるものと、過信していたのである。
 
コロナ禍明けの家族旅行で、南仏に行きたいと主張したのは私だった。私にとって2度目のフランスだった。
 
1度目は28歳の春。記者だった私は、大阪で凄惨な事件事故の取材に駆け回る日々を3年ほど過ごしていた。務め終えた後、「自分へのご褒美」と称して10日間の休暇をもらって初めて訪れたのがフランスだった。小学3年で漫画「ベルサイユのばら」にはまり、成人後は仕事の疲れをフランス印象派をはじめとするアートに癒されるという、今思うとよくあるパターン。とにかく念願の旅だった。
 
どれほど自由だったろう!
 
今もあの旅を思うと、「ショーシャンクの空に」ばりにパリの空に向かって両手を広げ、シャンゼリゼ通りを走り抜ける自分の姿を夢想する(実際はそんなことはしていない)。

日本とは違う長い夕暮れ。薄暮に浮かんだモンサンミッシェル。色彩が乱舞するジベルニーのモネの庭。今は焼失してしまったパリのノートルダム大聖堂。その楼上に上ろうと、長い列に並びながら食べたハムとチーズを挟んだシンプルなカスクートの驚くべき美味。ルーブル美術館の瀟洒なレストランで夜のガラスのピラミッドを眺めながら、交際していたハカセに手紙を書いた…。
 


結婚してコドモが産まれ、仕事や育児に追われながら、「もう一度」と希望を持ち続けた。自分の環境も内面も、何度かの画期を経てやはり色々と変わってしまったけれど、フランスに行きさえすれば、あの頃と同じ心、感動を味わえるのではないか。コドモがいるからといって何かを諦めたくない。そんな意地もあったように思う。
 
ハカセは希望を叶えてくれた。円安で跳ね上がった航空券代もホテル代も厭わずに、チケット予約などを積極的に進めてくれた。子連れであることを踏まえて、タイパ重視の彼にしては過密ではない旅程を組み、シャルル・ド・ゴール空港から陸路でアヴィニョンへ行き3泊、リヨン2泊、最後にパリ2泊と、3カ所を拠点として近隣観光地を無理なく回るという、コスパ・タイパ・快適性を両立した最適プランを立ててくれた。(もちろんハカセの専門分野の見聞も兼ねる)
 
南仏・プロヴァンス地方を要望して、コート・ダ・ジュールの砂浜を勝手に思い描いていた私は内心、「南仏だけど海には行かないのね…」と少しがっかりしたけれど、そこは異国でのスケジュール感と交通網を頭に入れているハカセに異論は持たなかった。
 
2023年初秋、少し遅めの夏休み。ベトナム航空で日本を出立した。
懸念は何と言っても、熱性痙攣の既往歴があるコドモの健康状態だった。高熱が出て痙攣を起こせば、救急車を呼べない飛行機内では命に関わる。
 
幸いにして出立まで風邪をひくこともなく、手荷物に痙攣止めの頓服薬を入れてヒヤヒヤしていた旅客機内でも、異常はなかった。ベトナム航空のCAさんには、座席の向かいの壁にコットを装着してもらったり、仕掛け絵本やトランプをもらえたりと、温かな配慮をいただけた。考えられる限り最高のスタートを切れたことに、心から安堵していた。



 
最初の「違和感」がうずき出したのは、乗り継ぎ便がハノイを出た頃からだった。
 
真夜中のフライトだから、機内はすぐに照明を落とし、就寝モードに入った。読書灯が煌々と照らす赤ちゃん用コットで、次女がグズり始めた。お腹がすいた? 落ち着かないかな? 小さく声をかける。
 
寝て欲しかった。いや、フランス到着が朝なのだから、何としても今のうちに寝なければ、現地で体がもたない。しかし、親が寝させようと焦るほど、子は寝ない。「しー」と言い聞かせたからといって、静かになるものでもないのだが、あやし続けるほかなかった。
 
周囲の人々は随分と長い間、我慢してくれていた。
けれど、次女が一際大きい悲鳴を上げた次の瞬間、
「プリーーーーズ!」
鋭い息が吐き出された。

口を横に広げるのではなく、唇を突き出して鋭く注意する言い方。「リー」の部分がとても長かった気がする。

振り返って、座席の合間からすぐ後ろに見えたスーツ姿の紳士に、「ソーリー」と情けない顔で謝った。次女をコットから出して、抱きしめた。
 
次女が顔を埋める、その胸が痛かった。
いとけない赤ん坊に対して、彼に嫌な思いを抱かせてしまったこと。
注意を促してくれたのだ。子連れだからといって何でも許されるわけではない。機内で静かにするのは必須のマナーだ。
この子を憎んでのことではない。

分かっていても、彫りの深い端正な顔に、シワを刻んだ紳士の苦々しい表情が胸に焼き付けられた。浮ついた頭をバコッとはたかれた気がした。


自分を思うように解放できないことへの不満。
周囲を不快にさせることへの懸念。
それらがパンパンに膨れ上がったのが、アヴィニョンの3日間だった。

そんなことは旅行を計画する時点で分かっていたはずだったが見通しが甘かった。期待値が高すぎたと反省するほかない。この旅でたびたび、コドモに抱いてしまう極端にネガティブな気持ちを、どう収拾すればいいか分からなかった。

小さな命を守り続けて、この旅を完遂する以外、選択肢はない。
取るべき行動は一つなのに、心の中は自分を優先したい欲望と、それが許されないことへの怒りと、罪悪感とがドロドロに混ざり合っていた。
壮大な建造物や自然を前にして、ネガティブな感情が押し流されることはあっても、寄せては返す波のように、また戻ってくる。
 
傍から見れば取るに足らないモヤモヤ。
けれど自分と家族にとっては重大事だった。

私は親としてコドモを守りきって、旅を良き思い出として、少なくとも無事に終わらせられるだろうか。シングルベッドの中で抱いて眠る、次女の長いまつ毛を見つめて、ぎゅっと腕に力を込めた。


<9>に続きます。
この旅行記を書いた理由に興味を持ってくださった方はこちら↓

https://note.com/vast_godwit854/n/n98fa0fac4589


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