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玉ねぎとリヨン【コドモハカセと記者の旅】

▼登場人物
コドモ:4歳長女と1歳次女。
ハカセ:建築史家。合理主義者。
私:記者。転職するか迷っている。

▼これまで
家族4人でのフランス旅行。子連れの苦労ばかりがよみがえる旅をリベンジするための旅行記。南仏をめぐりリヨンの街中で繰り広げた夫婦喧嘩をおさめてくれたのは、極上のリヨンの食だった。癒されてパリに向かう前に、リヨンゆかりの文学にちょっと寄り道したい。

▼前回の記事(リヨンのスープとバケット)



〈15〉
 
長女がはふはふ食べていたオニオングラタンスープ。遠藤周作の小説「深い河」(講談社文庫)にもリヨンのオニオンスープが出てくることに帰国後、気づいた。久しぶりに再会した主人公の男女がレストランで食事をし、リヨンの神学生である男(大津)の方がぽたぽた僧服に垂らしながら「おいしいなあ」と食べていた。

ここで2人は神を「玉ねぎ」と呼ぶ。神と愛、西洋と東洋について議論をかわす、印象的なシーンである。
 
そういえば雨に濡れたフルヴィエールの丘で、長く急な階段を下がっていく際に、僧服っぽい恰好の人が歩いていた。あの辺に神学校があったのかもしれない。
 

仏蘭西に来てみて・・・違和感を感じませんでしたか」

「深い河」

え、もう違和感ありまくりですよ…!
激しく首を振りそうになるが、ここで大津が言う「違和感」はもちろん違う。子連れ海外旅をナメてかかった結果、楽しいはずのフランス旅行が「あれ!?こんなはずじゃなかった…!」と違和感と後悔にまみれるというしょうもないやつとは。

大津は新学校で異端扱いを受けた。神は心のうちにあり、自然や異教の中にも宿るという日本人的感覚が、明確な分離と序列付けを要求する西洋のキリスト教と相容れなかったのだ。

ただ、大津のような高尚な理由とは違くても、ひょっとして誰もがそれぞれの「違和感」があって然るべきなのかもしれない。フランスって、少なくとも私のような素人には、イメージが確立されすぎている。夢と憧れを抱いてフランスを訪れて、大半は楽しく堪能するのだろうけど、どこかでイメージとのギャップを抱く。それが違和感か、新鮮な驚きかは捉え方による。

「深い河」の中で大津と対峙する美津子は、新婚旅行のフランスで早くも夫に退屈し、単独行動をしてリヨンにいる。フランソワ・モーリヤックの小説「テレーズ・デスケルウ」に深く共感する美津子は、自分は根本的に人を愛せないのではないか、愛とは何か―を疑い、探し求める。その心の闇は、家族旅行で来たにも関わらずコドモやハカセに対して冷酷な思いをぶつけてしまった私と、そんなに遠くない。


「テレーズ・デスケルウ」は遠藤周作の愛読書としても知られる。
 
リヨンが出てくる小説「日蝕」の作者、平野啓一郎の愛読書「愛の砂漠」の作者もモーリヤックで、平野が遠藤の影響を受けていることも知られている。なんだか時と空間を超えて、リヨンという街を巡って高尚な文学と、しょうもない自分の現実が溶け合ってくる。
 
「日蝕」は、リヨン近くの村で起こった神と異端を巡る物語。登場する両性具有者は、何かを象徴している。それはもしかしたら、西洋的な善悪の明確な区分けに対する、日本人的感性の反論だったのかもしれない。


文学論もどきをぐーんと自分に近づけると、リヨンという交通の要衝は古来、何かがぶつかり合う土地なのかもしれない。保守と革新、清新と腐敗、絶対と相対。

薄暗い空の下であらゆる対立軸が交錯し、悩める人々が思索と創造を巡らせてきたのなら、街中で夫婦喧嘩を繰り広げるのも仕方ない…などという都合良い解釈は許されない、かな。
 
たった3日間のリヨン。その記憶をいくら鮮やかにしようとしても、結局は大半が、濃い霧に包まれたように茫漠としてしまう。

(akari'nさん、「玉ねぎ」で検索して一番目を引いた可愛いイラストを使わせていただきました。ありがとうございます。)


〈16〉に続きます。
ここまで読んでくださった方、ありがとうございました。
なぜこの旅行記を書いているか、興味を持ってくださった方は、こちらもお読みいただければ幸いです。
https://note.com/vast_godwit854/n/n98fa0fac4589


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