枕草子の話



村上天皇主催どきどきワクワク古今和歌集クイズ/知的なファーストレディ定子/夜もすがら契りしことを忘れずは 恋ひむ涙の色ぞゆかしき/祈りの文学としての『枕草子』


【以下文字起こし】

さて、今回は枕草子の話をしましょう。枕草子っていう作品はすごく面白いんですけど、どうしても中学校とか高校の教科書に載っている話だと、その面白さがあんまりピンとこないんですよね。だから今回はあえて一つ教科書には載っていないお話をピックアップして紹介することで、枕草子の魅力だとか、本質みたいなものについて話してみようと思います。

突然ですが、みなさんは村上天皇という帝のことをご存知でしょうか。清少納言たちが生きた時代からだいたい50年ほど前に世を治めていた帝で、彼は立派な天皇としてかなり有名なんですよ。特に文化ですね。芸術とか文化面の庇護者保護者として功績があって、そのおかげで後の時代、それこそ清少納言たちの時代の人たちからはすごく尊敬されていた天皇です。

この村上天皇に関する話が枕草子の第20段に収められていまして、すごい面白いんですよ。どういう話かって言いますと、村上天皇には妻が結構たくさんいるんですけど、その中の一人に藤原芳子っていう女性がいるんです。芳子の芳は芳香剤の芳ですね。

だから、藤原の芳子っていうふうに呼ばれることもあります。彼女はですね。けっこうな才媛でして、お父さんからの言いつけでね、書道とお琴と古今和歌集の3つをものすごいしっかり勉強したことで有名な人なんですよ。ちなみにですが、このお琴と書道と古今和歌集、まあつまり和歌の教養ですよね、っていうのは、そのまま平安時代の姫君の必須教養だったんですよ。

だから、当時の女性が身につけておくべき最も大事な要素っていうのをしっかり修めている人としてすごく有名だったんですよね。この藤原の芳子っていう女性は、特に古今和歌集についてはすごくて、全部覚えてた、っていう風に言われています。古今和歌集ってね結構な大作なので、全部で20巻あるんですよ。20巻全部ひっくるめると1111首ちょうど歌が収められているんです。これを芳子は全部覚えていた。っていう風に言われてる訳ですね。すごいですよね。

※本来は1100首。ここでは墨滅歌11首を含んだ数で話してしまっています。

村上天皇もかねてからね、その噂に名高い彼女の古今和歌集の知識っていうのを1度ちゃんと試してみたいなって思ってたんですよ。で、ある日突然、ドキドキワクワク古今和歌集クイズ、っていうのを彼女に対して仕掛けていくんですよ。いきなりね、こう、ばって古今和歌集自分の方だけ見えるように開いて、何月何日のこのタイミングで誰々さんが詠んだ和歌なんだみたいなクイズを出すんですよ。

そしたらね、芳子は完璧に答えるんです。それで村上天皇のテンション上がっちゃって、マジかこいつヤベえなって。ちょっと本格的にやろうぜっていうことで、わざわざね、和歌に詳しい女房何人か呼んできて、ちょっとお前らスコアラーやれっつって、ちゃんと得点をね、カウントさせながら勝負ずっと続けるんですよ。で、ずっと芳子はこれに答え続けるです正解を。

で、いよいよ10巻まで終わるんですよクイズが。つまり半分の500首ぐらいパーフェクトで彼女は答えちゃうんです。さすがに村上天皇も、もうこれ以上やっと無駄だなっていう風に思って一旦ね、その戦いはお開きにして、もう夜も遅いからって寝るんですね。

だけど、ここからがすごく面白くて、一旦寝た村上天皇が途中でぱって目を覚ますんです。ガバッと起き上がって、やっぱこんな中途半端じゃ終われねえってなるんですよね。決着つけるまでやってやらなきゃいけないってなって。

でね、別にゲーム続けるのはいいですよ。勝負続けるのはいいんだけど、次の日の朝まで待てなくて、なんで待てないかって言ったら、こうやって俺が寝てる間に芳子がまた古今和歌集の予習をして、次の勝負に備えたら公正な勝負ができないから、もう今やるしかねえって。って言って真夜中に勝負を再開するんですね。

これめちゃくちゃかわいくないですか村上天皇。でね、この勝負に芳子はね、ちゃんと最後まで付き合ってあげるんですよ。ちゃんと1111首パーフェクトで答えきるんです。すごいエピソードですよね。でね、この闘いの間、一番焦ってたのは、実は芳子じゃないんですよ。芳子は戸惑いながらもね、帝との知的な遊びっていうのを楽しんでいたと思うんですけれども、誰が焦るって、こういう勝負が繰り広げられていますよ、まさに今って、報告を受けた芳子のオヤジがめちゃくちゃ焦るんですよ。ヤベーってなるんですよ。うちの娘がとんでもない勝負を帝に挑まれていると。

うちの娘っていうのは、父親である私が言ったことで、古今和歌集の教養っていうのをしっかり勉強してることが評判の娘なのに、もしここで万一帝との勝負に敗れてしまったら、もう我が家も含めて評判が地に落ちてしまうから、何とかして全問正解してもらえないと困るってなってどうするかって言ったら、親父が真夜中なのに、お坊さんですね、僧侶を大量に呼んできて、必死でお経を唱えさせて祈るんですよ。自分自身もその帝とかね、芳子がいる方角に向かって、もう必死で祈るわけですね。何やってんのって感じなんですけど、まあそういう笑い話がね、枕草子の第20段に登場するんですよ。

一体どういう文脈の中でこの村上天皇の話が登場するのかっていうことをお話ししたいんですけど、そこをちゃんと理解するためには、清少納言の周りの人間関係について、1度ちゃんとおさらいしておかなければならないので、多くの人にとってはね。授業で一度学んだことがある知識の復習になってしまうとは思うんですが、改めてゆっくり話をしてみましょう。

清少納言っていう女性は皆さん、ご存じの通り女房なんですよね。この女房っていうある種の仕事がどういうものなのかっていうことを本当に正確に説明するのは結構難しいんですけど、大雑把に言うならば、身の回りのお世話をする。身分の高い家の人の身の回りのお世話をする召使い兼家庭教師みたいなものだと思ってくれたらよくて、清少納言が誰にお仕えしていたかっていうと、中宮定子あるいは藤原定子と呼ばれる女性に仕えていたわけですね。

中宮って何かって言うと大中小の中にあの日光東照宮の宮ですね、で、中宮っていうふうに書くんですが、これは立場というか役職の名前なんですよ。どういう立場役職かっていうと、天皇の正妻ですね。天皇の一番のお妃さまのことを中宮っていうふうに言うわけです。それが藤原家の娘ですよね、藤原定子だったんだって話です。

定子の定っていう字は、決定とかね、設定とかの定、定めるっていう字です。だから、こっちはね、あんまり言われないんですけど、一応藤原サダコっていうふうに呼ぶこともありますね。なぜ彼女が中宮っていう立場、すごい立派な立場にいるかっていうと、親父がすごいんですよね。

彼女のお父さんは当時栄えていた藤原北家っていう、藤原家いっぱいあるんですけど、そのいっぱいある藤原家の中でも最も栄えていた藤原北家っていう家の嫡男だったわけですね。藤原の道隆っていう人なんですけど、彼は時の関白なんですよね。

関白って何か覚えていますか。摂関政治の関の方ですね。藤原氏っていう一族が摂関政治っていうものをやって権力を握っていたっていうのはね、小学校6年生でも習うことだと思うんですけど、摂関政治の摂の方は摂政っていう役職のことを表しています。

摂政っていうのは帝が女性だったり、まだ幼かったりする時に代わりに政治を主導する役職のことを摂政っていう風にいう。古く有名な例でいえば、聖徳太子が摂政だったんですよね。時の天皇だった推古天皇が女性だったので、彼女の甥っ子にあたる聖徳太子が主に政治を主導していたわけなんですよね。

関白の方は天皇が女性とか、あるいは子供、幼い子供じゃなくても、普通に大人の男性が天皇をやってたとしても、代わりに政治をとり続ける人のことを関白っていう風に言います。これがね、藤原北家の権力の象徴みたいな役職なんですよ。

だって、もう何の理由もないじゃないですか。代わりに政治を取るね。もう普通に天皇がやればいいのに、そうじゃなくて、権力を牛耳っている貴族である藤原氏の方が政治を主導し続けるための仕組みが関白だったわけですね。そういう力を持ったお父さんの娘が中宮定子だったから、彼女は当時のファーストレディーになっていたわけですね。

こういう風に話をすると、なんだか中宮定子っていう女性が、こう、親のね、おかげでブイブイ言わせてられただけのお嬢様みたいに聞こえるかもしれないんですけど、中宮定子って普通にすごく立派な女性で、私はかなり好きなんですよね。どういうところが立派かっていうと、彼女はすごい教養を豊かな人だったんですよ。

何でそういうふうな女性が育ったかって言いますと、お母さんに理由があると言われていて、お母さんの名前は高階貴子っていうんですけど、この高階っていう名前の平安貴族って多分多くの人は聞いたことないと思うんですよ。つまり名門じゃないってことなんですよね。高階家が。

もともとは学者の家系だったので、娘である貴子もね、学問は結構よくしていて、漢文にすごく詳しかったっていう風に言われています。これってめちゃくちゃ珍しいことで、何でかっていうと、当時は漢文っていうのは男性の貴族が公的なね、政治の場で使うための教養だったんですよ。だから別に女性が漢文を学ぶ必要なんかないっていう風に言われていて、当時漢文を使いこなせる女性っていうのは非常に稀有な存在だった。

貴子はそういう教養の深さっていうのが評価されて、だんだん女房として出世をしていくと。その結果として後々関白となる藤原道隆に見初められて正妻へ迎えられる運びとなるんですね。高階家ってのはさっきも言いましたけど、全然名家じゃなかったので、これすさまじい玉の輿だったんですよね。

中宮定子はお母さんのこういう成功体験の影響をすごく大きく受けていたはずで、結果として才気煥発なね、非常に知的な女性に成長していきました。もちろん、漢文も彼女はわかった。

こういう風に女性が知的だと何が嬉しいかっていうと、帝って奥さんの妃たちの部屋にいって、遊ぶんですよね。その遊ぶ時間が知的な教養に溢れているとね、やっぱ面白いわけじゃないですか。そういう時間を帝とか、周りの貴族たちに提供できる女性であるべきなんだっていうのが多分お母さんにある高階貴子の教えだったはずだし、中宮定子もそれを受け継いで清少納言とかね、自分の周りの女房たちにも、私たちっていうのは当意即妙にね、その場その場で気の利いたことが言えるような知識とか教養とか頭の良さっていうものを持ってなきゃいけないんですよっていう風に日頃から心がけていたようです。

さて、そんな中宮定子のパートナーはいったい誰だったのかっていうと、一条天皇という帝が彼女の夫だった。一条天皇は先ほど紹介した村上天皇の孫ですね。孫に当たる立場の人でした。一条天皇は中宮定子よりも歳が若くて、だから構図としては姉さん女房だったわけなんですけど、彼は定子のことをすごく慕っていて愛していたようですね。

ちなみに清少納言はこの二人よりもさらに年上なんですよ。だから枕草子に出てくる中宮亭主とか一条天皇とかっていうのはすごく若いんですよね。だから中学生高校生の人たちは、自分たちとだいたい同じぐらいの歳の子たちなんだなっていうふうに思ってみたらいいですよ。そしたら親近感湧きますよねかなり。

この中宮亭主と一条天皇っていうあたりはよく文化的な遊びとかやりとり、知的なやりとりっていうのを女房たちも交えて行うんですけど、第20段、枕草子の第20段において、一条天皇がね、突然言うんですよ。ここに良い感じの紙があるから、当時紙って貴重だったんですけど、この貴重な紙が良い感じにここにあるから、君たち今思いつく何か気の利いた古い和歌っていうのを、この紙に書いてみてくれって言ってくるんですよ。突然の無茶振りをね、彼はして来るわけです。

このとき清少納言はすごくぼーっとしてたので、はって戸惑っちゃうんですよね。なんで彼女がこの時ぼーっとしてたかって言ったら、あまりにも一条天皇と中宮定子っていうのがもう素敵すぎて見てるだけでぼーっとしちゃってたわけなんですよ。

これね、枕草子あるあるで、しょっちゅうやるんですよ清少納言は。自分が仕えている貴族社会っていうのが、あまりにも素敵すぎてぼうっとしちゃうっていうことはよくあって、今回もそのせいでスタートダッシュに出遅れるんですね。脳味噌は回らないんですよ。

で、とっさの対応できなくてしどろもどろにね、赤面しちゃうと。それでもどうにかこうにか絞り出して、まあ精一杯のね、気の利いた返しっていうのを出すと。

そうすると中宮定子がね、さりげなくでもちゃんと、その清少納言の頑張りを褒めてくれたりするわけですね。で、その次に、テンション上がってきてね、興がのってきた中宮定子の方から、じゃ、ちょっと古今和歌集の下の句当てクイズやってみましょう、っていう風に出題される訳なんですよ。

これもね、あんまりうまくいかなくて。緊張してたんですかね。あるいは根本的に勉強不足だったのかもしれないですけど、清少納言とか他の同僚のね、女房たちもあんまりいい結果を出せないんですよ。そこで中宮定子がにわかに語り始めたのが、最初にご紹介した村上天皇と芳子の話だったわけですよ。

これがね、うまいんですよね。何がうまいって、中宮定子がうまい。すごい、心ばえがね、立派だと思うんですよ。

どういうことかっていうと、部下であるね、清少納言とか他の女房たちがある種情けない姿を見せて、恥かきそうになってるわけなんですよね。だけど、ここであのさっきの村上天皇と芳子の話だしたら何かスケールでかすぎて何かもうどうでもよくなってくるじゃないですか。

ええって、1111首全部覚えてた人がいたの?!みたいになって、彼女たちのね、清少納言たちの恥じらいっていうのをちょっとほぐすことができますよね。

でも、一方で、古今和歌集を学ぶっていうことはやっぱ帝のまわりにいる女性としてはすごく大事だよね、尊いことだよねっていうことを再認識させるエピソードでもあるので。両面でね、非常に意義がある発言だったわけですよ。中宮定子のこのエピソードの引用っていうのはね。

だから、繊細な部下に対する配慮っていうのと同時に、文化的な薫陶、もっともっと教養深い女性たちであろうねっていうようなメッセージっていうのを、中宮定子はその言動から絶えず発してるんですよね。そこにファーストレディとしての矜持、プライドみたいなものを感じることができます。そういう彼女だからこそ、甘いだけでもなく、厳しいだけでもない彼女だからこそ、清少納言もすごい心底を慕ってたわけなんですよね。

そんな素敵な中宮定子なんですが、彼女の人生は幸福なままでは終わることができませんでした。なぜか父親である藤原道隆が病死してしまうんですよね。糖尿病だったっていうふうに言われています。

で、基本的にね、平安貴族社会の姫君っていうのは、親父が死んだらゲームオーバーなんですよ。政治的な後ろ盾っていうのを失ってしまうと、没落していかざるを得ない。

これね、救いの可能性はあと2つだけあって、一つは、中宮定子はそれこそ中宮ですから、帝との間に男の子があってね、それが次の帝になるだろうっていうような政治的な状況を作ることができていたら、まだ何とかだったかもしれないんですけど、父親が死んだタイミングで弟子と帝の間には男の子はいなかったんですよね。

もう一つの可能性としては、定子のお兄さん、道隆の長男に当たる人物が、道隆の後を継いで権力を手にすることができたら、相変わらず藤原北家のね、権力者の家の妹として、中宮定子もその地位を保つことができたでしょう。ですが、当時20歳ちょっとぐらいだった定子のお兄さんていうのも父親が死んだ後で政治争いに敗れてしまって左遷させられちゃうんですよ。

結果として中宮定子たちの家系っていうのは没落していくと。この辺り本当にかわいそうで、不幸がね、立て続けに起こるんですよ。まずお父さんが死ぬでしょう。その後兄弟がね、左遷されてしまうと。これと前後してお母さん、高階貴子ですよね、も、多分ストレスだったんでしょうね、死んでしまうんです。

もう、あんまりつらいことが連続したから、定子もね、これ以上現実世界で苦しい立場に身を置き続けるのが嫌になってしまったんでしょうね、出家しちゃうんですよ。これ結構すごいことで、天皇の正妻なんですね彼女は。なんだけれども、その立場のままで出家して仏門に入ってしまうわけです。もうこれで完全に彼女の家の人間たちっていうのは、政治の表舞台から姿を消してしまうんですよね。

その隙をついて、とある人物が政治のトップに立っていきます。彼は藤原道隆、弟子の父親の弟に当たる人物。定子たちからすると叔父ですね。名前は誰でも知っています。藤原道長。平安貴族社会の権力者として最も有名な人物がこのタイミングで台頭してきます。

道長は権力を握ると、自分の娘である藤原彰子、彰子って書いてしょうしって読みます。を、天皇の正妻にしようっていう風に目論みます。自分の姪っ子である定子がね、すでに中宮の位にあるんですけど、でも無理矢理ね、自分の娘である彰子の方を正妻である中宮の位にねじ込んでこようとするわけなんですよね。こういう動きを誰も止めることができない。

定子からすると、すごく屈辱的な世の中の流れだったわけです。これがね、難しいし、切ないなって思うことなんですけど、一条天皇はね、変わらず中宮定子のことを愛しているんですよ。

もちろん、藤原道長の権力に逆らうことはできないですし、実は中宮定子のお兄さんたちを左遷しようって決定したのも、最終的には帝の決裁だったりしたわけなんですけれど、そういう政治的な立場とは別にして、個人としては定子のことは変わらず愛していて、1度出家した定子のことをもう一度還俗させて呼び戻すんですよね。

それは愛ゆえの選択だったと思うんですけど、でも今更帰ってきたところで、彼女はもう、かつての輝かしいファーストレディーではなくなってしまっていたんですよね。

やがて定子はさまざまな風当たりにさらされながら、失意のうちに世を去ります。辞世の歌、つまり死ぬ前に残した和歌がとても美しいので、最後に紹介しておきましょう。

夜もすすがら契りしことを忘れずは恋ひむ涙の色ぞゆかしき。

夜もすがらっていうのはひと晩中っていう意味ですね。ひと晩中、契りを交わしたことをお忘れでないなら、愛を確かめ合ったり、語り合った夜っていうのをまだ憶えていてくださっているならば、あなたはきっと私が死んだ後に泣くでしょうと。きっと泣いてくださいますよね。その時に流れる涙の色を私は知りたいと思います。そういう歌を彼女は残す。

これは二重の意味で切ないんですよね。一つには、帝に対して、私のことを覚えていてくださいと。恋しがって泣いてくださいねっていう祈りの気持ちが込められている。そして、もう一つは、本当はあなたの流す涙っていうのを見たいんだけれども、当然自分は死んでしまう側だから、それが叶わないと。そのことの寂しさみたいなものも読み取ることができます。

いい歌なんですよね、これがまた。彼女は24歳の若さで世を去ってしまうんですが、最後の瞬間まで知的な教養あふれる女性としての美しさを失うことがありませんでした。

こうして、中宮定子本人やその家族たちは悲しい結末を迎えていくんですけれど、清少納言は枕草子本文にこういう中宮定子の晩年の惨状をほとんど描いていません。その注意深さとさりげなさについては、鎌倉初期の文芸評論である無名草子っていう本の中で次のように褒めたたえられています。

関白殿、うせたまひ、内大臣流されたまひなどせしほどの衰えをば、かけてもいい出でぬほどの、いみじき心ばせなりけむ人、と。

これ何を言ってるかって言いますと、関白っていうのは道隆のことですよね。定子のお父さんです。で、内大臣ていうのは定子のお兄さんのことを指しています。だから、彼らが死んでしまったり、政治争いに敗れて左遷されて流されてしまったりしたと。だけど、そういう悲劇とかね、家が没落していく、衰えていく悲しさみたいなことは、枕草子の中では全然表に出てこないよねと。それを出さずに描き切った心が、すごいよね清少納言は、っていう風に褒めてくれているわけです。

どうやら清少納言ていう人はかなり意図的に、良かったこととか、輝かしかった時期だけを書き残さうとしていたようですね。これは中宮定子がまだ生きていた頃は、そうすることによって苦境に立たされている主人を慰めるつもりだったんでしょう。そして、彼女が死んでしまった後は、鎮魂とか手向けとしてそれが続いたわけです。

恐らく、そこに枕草子という作品の本質がきっとあって、その象徴とも言える一節が、実は今回紹介している第20段に登場します。どういう文章が登場するかといいますと。

げにぞ、千歳もあらまほしげなる、御ありさまなるや。

ああ、本当に1000年たってもこのまま続いていてほしいと願うばかりのご様子であることよ、と。これどういうことを言っているかと言いますと、中宮定子とかそのお兄さんとかね、あるいは一条天皇とか、清少納言が仕えて同じ時間を過ごした人達の素晴らしさや尊さを褒めたたえて、どうかずっと、こういう雅で優雅な時間が1000年先までも続いてくれたらいいのにって、しみじみ願っているわけですね。祈りの言葉と言ってもいい。

そして、彼女の才気あふれる筆致が、文才が、この祈りを単なる祈りで終わらせなかったことを枕草子の成立から1000年後の時代を生きる私たちはよく知っています。

彼女が過ごした時間の尊さや美しさっていうのは消え去ってしまうことはありませんでしたね。なぜなら、この作品が古典の名作として、ずっと受け継がれてきたことによって、ひとたび本を開けば、1000年後を生きる私たちの心の中にも彼女が愛した景色というのが再び蘇ってくるからです。

そこにきっとこの枕草子っていう作品のとても大事な本質があるんですよね。この作品について語りたいことは、他にもたくさんあるんですが、ひとまず今回はここまでにしておきましょう。では、また次回。


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