源氏物語の話3 傾国の美女

愛の悪循環/更衣は楊貴妃に似ている?/唐の名君、李世民/すったもんだの後継者問題/第三の女/暗闘の鬼、則天武后/若き英君、玄宗皇帝/傾国の美女


【以下文字起こし】

さて、源氏物語解説第3回です。前回は3文だけ本文の話をしましたね。当時の常識でいうと、帝っていうのは、貴族たちのパワーバランスに合わせて姫君たちを寵愛すべきなのに、源氏物語の冒頭では身分が低い更衣にあたる女性が並々ならぬ愛され方をしていたと、それが波乱の幕開けを読者に感じさせていたわけですね。

では、さっそく本文の続きを見てみましょう。

朝夕の宮仕へにつけても、人の心をのみ動かし、恨みを負ふ積もりにやありけむ、いと篤しくなりゆき、もの心細げに里がちなるを、いよいよ あかずあはれなるものに思ほして、人のそしりをもえ憚らせたまはず、世のためしにもなりぬべき御もてなしなり。

帝から寵愛を受けている更衣は、いろんな人から恨まれて批判されていじめを受けたりとかしてるんですよね。それがストレスになって、彼女は病に伏せると。

帝の妻たちとか、女房たちっていうのは内裏の中に住んでいるわけなんですけど、病気療養のときは実家に帰るんですよ。これは単にその方が心身ともに休まるから実家に戻ってたって面もありますし、もう一つ、万一、病状が悪化してそのまま死んだら困るからっていう理由もありました。

当時の人々には、穢れ意識っていうのが強くあって、人が死んだりすると穢れが発生してね、それが他の人にも悪影響を及ぼすっていうふうに、本気で信じてたんですよ。だから、天皇の暮らす宮中で人が死ぬなんていうのはもってのほかなわけです。

なので病人は帝の側を離れて実家に帰る。これを里下がりという風に言います。これはね、すごい皮肉な悪循環なんですけど、更衣が病気になって実家に帰りがちになると、帝の寵愛はさらに深まったって言うんですね。かわいそうで心配だし、会える時間も減るしね。かえって愛情が強まってしまって、周りの批判もはばからなくなっていったと。

そういう偏った寵愛が彼女のストレスのもとになってるのに、帝はどんどんエスカレートしていくわけですね。これに対しては、もう女性陣だけでなく、男性貴族たちも黙っていられなくなって、本文は次のように続いていきます。

かむだちめ、上人なども、あいなく目をそばめつつ、「いとまばゆき人の御おぼえなり。唐土にも、かかる事の起こりにこそ、世も乱れ、悪しかりけれ」と、やうやう天の下にもあぢきなう、人のもてなやみぐさになりて、楊貴妃の例も引き出でつべくなりゆくに、いとはしたなきこと多かれど、かたじけなき御心ばへのたぐひなきを頼みにてまじらひたまふ。

上達部とか上人っていうのは貴族の中でもすごい上流の人たちのことです。要するに、帝の妻として姫君を出してるようなおうちの親父たちですよ。もはや彼らにとっても事態は見逃せないレベルになってきていたぞと。面白いのはね、ここで唐土の話が引き合いに出されるってことなんです。

モロコシっていうのは、漢字で書くと唐辛子の唐に土って書きますね。これ中国のことなんですよ。帝と更衣の様子を見ていた貴族たちが、これ中国にも似たようなエピソードあったなって思うわけです。

確か楊貴妃って女性がいて、そのせいでめちゃくちゃ国が乱れたことがあったよなって思い出す。ここがとても大事です。この楊貴妃と更衣を重ね合わせる描き方っていうのが、今後もずっと貫かれるんですよ。源氏物語って作品そのものがものすごく影響を受けてるわけです。その楊貴妃っていう存在のね。

なので今回は、どっしり腰を据えて、中国の歴史の話、楊貴妃という女性がどういう歴史的文脈の中に位置づけられているかという話をしておきたいと思います。この知識はすごく役立つので、先行投資しておきましょう。

楊貴妃ってね、名前自体は皆さん多分聞いたことがありますね。世界3大美女の一人として名高いこともなんとなく知っていると。じゃあ、中国の歴史の中でどの王朝の時代の人かっていうのは、ご存知ですか。

その辺からもうかなり怪しくなってきますね。そもそも高校の社会科で世界史を選択した人以外にとっては、中国の王朝がどういう順番で移り変わっていったかすらほとんどわからないと思うんですよね。なので多分、ほとんど全員が知っている知識までハードルを下げてから話始めてみましょう。

小野妹子は皆さん知ってますね。飛鳥時代、聖徳太子の時代に遣隋使を務めた人です。当時、中国には隋という統一王朝がありました。実は、この国は、めちゃくちゃ寿命が短くてすぐ滅んでしまうんですよ。

根本的な話として中国のね、あのだだっ広い国土を一つの王朝が統一してる状況っていうのがかなり貴重というか、不自然で難しいことを無理やりやってるんですよね。だから、最初に統一した秦の始皇帝がすごいって言われてるわけで、その秦も実はあっという間に滅んでいる。始皇帝の秦が滅んだ後、その反省を踏まえた漢王朝っていうのが国として出てきて、これはかなり長く続きました。

隋の時も同じようなことが起こります。色んな国が群雄割拠して争いまくってた状況から統一まで持っていた隋自体はすぐ滅んでしまうんですが、その後を受けて統一状態を維持した唐王朝はめちゃくちゃ長く続くんですよ。唐って、遣唐使の唐ね。遣隋使ともう1個習いましたね。

あっちはすごく長寿だったと。中国の歴史全体を見ても最も栄えた時代の一つと言っていいでしょう。この唐を建国したのは李淵という人なんですが、この名前はね、別に無理に覚えなくていいです。

2代皇帝の方が大事ですね。2代皇帝の名前は李世民。この人は中国だけではなく、世界史全体をひっくるめても有数の名君として知られているので、余裕があったら頭に留めておいてください。李世民の李は、スモモの李、松坂桃李の李ですね。で、これにルイ16世とかエリザベス1世とかの世に民主主義の民で李世民ですね。彼は文武に優れ、リーダーシップもあってで、何より自分のことを批判してくれる部下っていうのをめちゃくちゃ大事にしたことが立派だったっていう風に言われています。それを専門にした役職がちゃんとあるんですよ。皇帝にとって耳が痛いことをあえて言う人っていうポストがあって、李世民もその意見を尊重していたと。

これは偉いですよね。だって普通嫌じゃないですか。自分の判断に文句をつけられるのね。でも、李世民は皇帝にとってそういうのが大事だって気づいていたわけです。だから、彼と部下のやりとりっていうのは、すごく有意義で面白いんですよ。絶対的なトップがいて、部下はみんなそれに賛成するだけのイエスマンで「ははーおっしゃるとおりでございますー」みたいな構図ではないと。

皇帝も部下もそれぞれ自分がベストだと思う政治的判断を口に出してて、時には皇帝の側が折れたりとか反省したりすると。こうした李世民たちのやりとりをまとめた貞観政要っていう文献があるんですけど、これは今でも政治家や経営者の必読書としてすごく人気です。

そんな立派な李世民なんですが、2つだけ彼にもうまく解決できない課題がありました。一つは高句麗との関係。高句麗って朝鮮半島とその根元のあたりを縄張りにしてた国なんですけど、これがね、何かやたら強いんですよ。隋王朝の時代に当時の皇帝が高句麗滅ぼしたろって思って、何度も何度も攻め込んでるんですけど、全部撃退されるんですよね。

何ならこの高句麗に勝てなかったことが、隋王朝の滅亡の原因の一つとすら言われています。これにね、李世民も勝てないんですよ。あの人めっちゃ戦争うまいんですけど、高句麗にだけは勝てなくて、次の世代まで課題を持ち越すことになってしまいました。

もう一つ彼が処理に困ったのが後継者問題です。李世民には正妻との間に3人の息子がありました。で、順当にいけば、このうちの長男が後を継ぐはずですよね。だけどそうならなかったところから話がこじれていきます。

まあ、この辺の事情は研究者によって諸説あるんですけど、一説によると、長男より次男の方が人間的に将来有望だったらしいんですよ。お父さんである李世民も次男の方に期待を込めてかわいがっている素振りがあったと。そういう評判とか父の様子って長男からしたらつらいですよね。そのせいで奇行が、後継者としてふさわしくない振る舞いっていうのが増えていたらしくて、結局長男は廃嫡されてしまうんです。

廃嫡っていうのは後継ぎの予定だった息子からそのポジションを剥奪してしまうことを言います。でね、ここから変な感じになっていくんですよ。普通に考えたら将来有望っぽい次男がじゃあ次の跡継ぎねっていう風になってく流れでしょ。でもそうならないんですよ。

ここで中国の歴史を結構大きく左右するウルトラCが起きるんです。「今回の廃嫡事件は、次男の存在にも責任の一端がありますよね。そんな彼が新たな跡継ぎになるのはふさわしくないんじゃないですか」って言ってくるやつが出てくるんですよ。めっちゃ発言力のある政治家の中から、そういう謎理論が出てくると。結局これが通って、長男でも次男でもなく、三男が次の皇帝になるんですね。

これがね、すごい面白くて。実際のところ次男の方もただ黙って賢くしてた訳ではなくて、派閥を作ってね、仲間を集めて長男の方の派閥と対立構造みたいなのを作っていたようなので、このまま次男を後継者にしちゃったら、派閥同士の衝突っていうのが起こって、国の中はぐちゃぐちゃになっちゃうだろうなと。だったら、誰も傷つかない三男のルートの方がマシかって判断が一応あったみたいです。李世民の中でもね。

そんなこんなで帝位についた三男のことを高宗というふうに言います。高い低いの高い、高層ビルの高ですね、に宗教の宗の字を書いて高宗です。中国の皇帝って本名とは別に、なんちゃらそうって呼ばれ方が作られるんですよ。だから、さっきから何回も出てきている李世民も太宗っていうふうに呼ばれたりします。太宗の後を継いだのが高宗だったっていう流れです。

高宗はもともと皇帝になるなんて特に思ってなかったような人でしたから、政治の実権は父親の代から国を支えている有能な臣下たちに委ねていました。だから、彼由来の政治的なミスっていうのは起こりようがない状況だったんですよ。しかし、思わぬところから国を揺るがす大問題の火の手が上がる。それがね、女性問題なんですよ。

詳しく語りだすとキリがないので、なるべく大雑把に簡略化して説明しますね。皇帝には妻がたくさんいるわけなんですけれども、その中のトップ、高宗の正妻にあたる女性はめちゃくちゃ名門出身のいいところのお嬢さんでした。ちなみにこの人はね。あの李世民がわざわざ選んでくれた女性なんですよ。息子の嫁はこの子がいいってね。

ただ、この正妻との間には子供ができなかった。するとだんだん高宗の方も心が離れていっちゃうんですよね、彼女から。そして別のちゃんと子供を生むことにも成功している女性の方が深い寵愛を受けるようになっていったと。

正妻からするとつらいわけですよ。悔しいし悲しい。なんとかしてあの女と帝の仲を引き裂きたいっていう風に彼女は思う。そこで彼女は作戦を練るんですよ。これがホントね、愚かというか切ないというか。どうしてそんな、絶対幸せになれないようなことやったんだって感じなんですけど。

彼女はね、もう一人別の女を引き入れようって結論に至るんです。今、自分は帝に愛されていないと。別の妻が寵愛を受けていて、それをぶち壊してやりたい。そこで彼女は「そうだ。じゃあ、全然別の美女を連れてきて、帝をメロメロにすればいいじゃん」ていう風に考えるんですよ。そうすれば、あの憎たらしい女が帝から愛されることもなくなるでしょうと。

ここで登場するのが武昭という女性です。武力とか武士の武に、令和平成昭和の昭で武昭。正妻の計画通り、高宗はこの武昭の魅力にどんどん惹きつけられていきました。しかしね、誤算だったのは、この武昭という女性が、史上稀なる暗闘の天才だったってことなんですよ。

暗闘っていうのはね、暗い戦いって書くんですけど、要は裏でこっそり人を蹴落とす戦いのことを暗闘って言います。皇帝の寵愛を得た武将は、「あれ、私、このまま皇后までいけるんじゃね?」ってなるんですよ。皇后ってあの、天皇皇后両陛下の皇后ね。つまり帝の正妻ってことです。

実際武昭はこれに成功するんですよ。もうね、やり方がうまいんです。彼女はまず自分が持ってる金品とか宝石の類いを宮女たちにばらまいて分け与えるわけです。日常生活において、皇帝とか妻の身の回りの世話をしている人達ですね、宮女たちっていうのは。宮の女って書いて宮女です。彼女たちを全部自分の味方にしたわけですよ武昭は。そしたらもう、あらゆる情報を筒抜けなんですよね。逆に言うと、情報操作もやりたい放題になる。みんなが口裏合わせして証言してくれますからね。自分の味方として。

そうして武昭は、とうとう自分も引き入れてくれた元々の正妻さえも蹴落として皇后になった。皇后になってからの彼女のことを則天武后といいます。これはね、結構なビッグネームなので、聞いたことある人もいるんじゃないでしょうか。

女性としての位を極めた則天武后は、それだけに飽き足らず、夫に代わって政治を動かすようになっていきました。彼女ねめちゃくちゃ賢かったんですよ。だから変な話ですけど、皇帝の仕事がちゃんとできてしまった。夫よりもうまく。

もともと暗闘の末に勝ち取った権力ですから、則天武后が世を治めた時代っていうのは、復讐とか粛清とか密告とか監視とかドロドロのね、内部闘争が続いていたんですけど、国政全体として見れば統治者としての功績も多数認められています。敵も多かったですけど、下々の民衆にとっては結構いいトップだったんですよ彼女は。

例えば隋の頃から懸案事項だった、李世民ですら勝てなかったね、高句麗を倒したのもこの時代のことです。ちなみに、この時、高句麗の味方だった百済って国の味方だった日本も、唐の軍勢と戦って負けています。これを白村江の戦いっていう風に言う。

あとね、則天武后は人材登用を頑張ったことでも有名です。彼女はあんまりいい家の出身ではなかったので、貴族中心だった当時の政治の世界において有力な味方っていうのをあんまり持ってなかったんですね。そこで科挙っていう官僚を登用するための試験の仕組みを強化して、門地門閥、生まれね、にとらわれない人材登用によって優秀な部下をどんどん増やしていきました。

やがて夫である高宗が死ぬと、則天武后は自分自身が皇帝になる道っていうのを模索し始めます。ここからの流れがめちゃくちゃ面白いんですけど、もうこれ話し出すと長くなるので、今回は省きます。結論として彼女はこの皇帝になりたいっていう野望を成就させるんですよね。で、中国史上唯一無二の女帝がここに誕生すると。これは本当に凄まじいことです。

しかし、さすがの則天武后も老いには勝てませんでした。女帝として即位したタイミングで、彼女はすでに60歳代の半ばぐらいだったんですけど、そこからだんだん元気を失っていって80歳になる頃、病気で弱って寝てるところをクーデターに見舞われて帝位を降りました。

ここでとうとう一人の巨人が中国の政治の世界から姿を消します。面白いのはね、則天武后が退場した後も、劣化版則天武后みたいな女性たちがワラワラワラワラ湧いてくるんですよね。それがすごく面白くて。モデルケースを彼女が示しちゃったので、私もおんなじようにやってみたい、権力を握りたい、って野心を抱く女性がいっぱい出てくるんですよ。

でもね、やっぱり則天武后ってミラクルだったんですよね。彼女だったから、彼女みたいな生き方ができたわけであって、他の女性がそれを真似しようとしても、能力不足で全然うまくいかないんですよ。結局、こうした劣化版則天武后のゴタゴタもクーデターによって一掃されてしまいます。

そうして内部のゴタゴタを全部綺麗に片付けたのが李隆基っていう若者でした。やがて彼は帝位について玄宗皇帝と呼ばれるようになります。玄宗の玄は素人、玄人の玄人の方の玄の字ですね。彼が皇帝になったことによって、唐王朝は久しぶりに、それこそ太宗李世民の時代以来の安定した繁栄期を迎えます。

玄宗皇帝ってね、もう本当にめちゃくちゃ有能だったんですよ。文武に優れ、バイタリティーがあって、芸術や文化にも造詣が深かった。彼は即天武功の時代から引き継がれていた科挙出身の有能な官僚たちとともに、どんどん国政を改善していきました。生活がね、豊かになっていって、豊かだから、争いや犯罪も起きなくて、民衆は身を守る武器を持たなくても安心して外出することができたという風に言われています。

めちゃくちゃいい時代が来るんですよ。この時代が唐王朝の絶頂期です。首都の長安は国際都市として栄えて、西からはシルクロードを通じて様々な文化や文物が輸入されました。一方、東からは日本の遣唐使がバンバン送り込まれてきていたと。時代でいうと、日本は当時奈良時代ですね。聖武天皇が東大寺の大仏とか作らせていた頃のことです。

とにかく唐は栄えてて、世界の中心みたいな国になってたと。しかし、この唐王朝がある日、すさまじい軍事クーデターによって一気にひっくり返るんですよ。その原因が楊貴妃って女性にあったんじゃない?って話です。

彼女が登場したせいで、玄宗皇帝と出会っちゃったせいで、唐王朝はダメになっちゃったんじゃない?っていう言説があって。だから彼女は傾国の美女、国を傾けてダメにしちゃう美女だっていう風に言われたりしている。じゃあ、一体彼女はどういう人物で、具体的に何したのって話なんですが、それを語り出すともうさすがに長すぎるので、今日は一旦ここまでにしておきましょう。

最後に今日の内容をおさらいしておきます。中国では、隋の後に唐という王朝が立って、李世民という名君が死んだ後は則天武后っていうね、イレギュラーな女帝が現れたりして、色々ごたごたしていたと。そのゴタゴタを収めたのが玄宗皇帝という英傑で、彼の時代に唐王朝は繁栄の絶頂期を迎えました。

その絶頂期を終わらせたのが楊貴妃だと言われていて、この玄宗皇帝と楊貴妃の関係性が源氏物語における帝と更衣の関係に重ね合わせられていくわけですね。ではではお疲れさまでした。また次回。


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