源氏物語の話16 「女にて見る」問題

第二帖「帚木」④/中将の不本意/新日本古典文学大系/新大系・旧大系/新潮日本古典集成/新編日本古典文学全集/古註/思いがけない出会いが良い/藤式部丞の姉妹/光源氏の見解/束帯・衣冠・直衣/女にて見奉らまほし

【以下文字起こし】

源氏物語解説の第16回です。帚木の解説としては4回目になります。

前回は、光源氏と中将の女性談義に、左馬頭と藤式部丞も加わって、受領の家の娘はなかなかバカにできないぞ、みたいな話をしていたんでしたね。

ここで一つ補足しておきたいんですが、第15回のラストで、光源氏と中将のやりとりが解釈難しいって話、したじゃないですか。

「すべてにぎはゝしきによるべきななり」とて笑ひ給ふを、「こと人の言はむやうに心えずおほせらる」と、中将にくむ。

こういうふうに本文書いてあって、特に、光源氏が言った「よる」って言葉を、基準にするってニュアンスでとるのか、頼みにして接近するって意味で取るのかが難しいなぁって話したわけなんですけど。「頼みにして接近する」っていう意味でとる説の中で面白いものを見つけたから、それを紹介しておこうと思います。

岩波書店から出ている新日本古典文学大系ってシリーズの源氏物語に書かれている注釈なんですが、まず光源氏のセリフを「なんでも豊かに揃っている所」まぁ、今回の文脈だと受領の家庭ですよね、「に、近づくのがよいという話のようだ」と訳しています。

その上で、中将の反応は、光源氏が受領の家に興味を持つのは心外だってリアクションなのだと書いている。中将は葵上の兄弟だから、光源氏に中流階級の女をお勧めするような格好になるのは不本意だったっていうんですね。

これ、意味がわからない人もいると思うから補足しておくと、新日本古典文学大系の注釈を書いた人は、受領の家の娘はなかなかバカにできないぞってセリフを、中将が言ったものとして解釈しているわけですよ。

私は前回、左馬頭のセリフとしてここを読んだんですけど、中将のセリフとしてとると、まぁ確かに一本筋が通る。特に、前回いまいち掴みきれなかった「心得ず」がよくわかるようになりますね。

中将としては、あくまで一般論として、受領の家の娘っていうのもこれでけっこう悪くないですよと言いたかったのであって、義理の弟である光源氏をそそのかして、中流階級の女に手を出すように誘導する、みたいなね、そんな意図は全然なかった。

なのに光源氏が、金銭的に豊かな家に接近した方がいいってことだね、なんつって笑うもんだから、いやいやそうじゃないよ、と、なんでそんな、話の趣旨を誤解したようなことをおっしゃるんですかって意味で、中将は「心えずおほせらる」と言ったんだ、という理解が成立する。確かにこれは、なかなか通りのいい解釈だなぁ。

んー。古典を読むときって、本当は、毎回こういう作業をした方がいいんですよね。

懐かしい話になっちゃうんですけど、大学で、研究のために古典を読む場合は、その作品について書かれた注釈書を片っ端から集めてきて、見比べます。なんでそんなことするかっていうと、注釈書く人によって、微妙に解釈が異なるからです。特に、自分自身が読み方に迷うような箇所っていうのは注釈書でも見解割れてることが多いから、それぞれ比較したうえで、どう読むべきか考えていくことになる。

さっき引用した新日本古典文学大系っていうのは、緑色の表紙したハードカバーのシリーズで、通称「新大系」って言うんですけど、これより一つ前の、「新」がついていない古典文学大系ってのもあって、こちらは通称「旧大系」と呼ばれていました。赤茶色い表紙しててね、みんなが何回も何回も開くから、ボロボロになってるんですよ、文学部だと。

この他、新潮社からでている日本古典集成っていうシリーズと、小学館から出ている新編日本古典文学全集、通称「新編全集」「新全集」って呼ばれてるシリーズも、文学部なら、教授の部屋か、共同研究スペースの書庫に常備されていますね。それぞれ、深い紺色と真っ白の表紙してるんですけど、新編全集の方はありがたくて、何が嬉しいかっていうと、現代語訳が載ってるんですよ、小学館の全集だけは。

だから未熟な頃は真っ先に新編全集を読むんですけど、手抜きしてそれしか参照していないと、教授や先輩に見抜かれて、すかさず叱られるんですね。「ここ、新大系とか旧大系とか、他の注釈ではなんて言ってるんですか?」つってね。ツッコミがはいる。

作品によっては、シリーズものの他に、「なんちゃらかんちゃら全注釈」とか、「なんちゃらかんちゃら評釈」みたいな注釈書が個別に出されていることもあって、これは大変助かります。

あと、古註っていって、近代以前に書かれた注釈を参照することもありますね。例えば源氏物語って平安時代の作品だから、室町時代の人とか江戸時代の人とかも、頑張って読もうとして注釈書作ってるんですよ。ただ、これを参照しようとすると、古文読むために古文読む、ってステップを踏むことになるわけで、なかなか大変というか、骨が折れるんですよねー。

で、繰り返しになりますが、本当にちゃんと古典を読もうと思ったら、こういう注釈書の比較っていうのを、絶対やるべきなんですよ。

だけど現状、私は大学人ではありませんから、便利な書庫もないし、おっきな図書館は遠いし、注釈書、買ってもいいですけど、高いし置く場所ないしってことで、そういう諸々の事情から、このポッドキャストで話している解説を準備するにあたっても、不十分で不本意な部分はかなりたくさんあるんですよね。そこをぜひ、多めに見てほしいなと思います。

これ、中学生高校生のみなさんとか、あるいは、文学部を経由していない社会人の人からすると、こいつは何をそんなに気にしているんだろうって、理解できないと思うんですけど、ほんとはめちゃくちゃ不本意なんですよ。こういうことするの。

もうね、大学生とか院生の頃だったら絶対許されない読み方なんです。注釈見比べずに源氏物語読むなんて暴挙は。それは自分でも重々わかってるんですけど、そこちゃんとやろうと思ったら、学生や研究者に戻らなきゃいけないというか、学校の先生をやってる現状と両立できなくなってしまうので、まぁ、中学校や高校の教科書で古典を読むときよりは多少詳しい話を聞けますよってくらいのクオリティで、これからもやっていく所存です。

このポッドキャストって、気がつくと海外在住の方とか、かなり幅広い年齢の方々まで聴いてくれるようになっていて、それは本当に嬉しいしありがたいことだと思うんですけど、改めて、なんでこれやってるのかって趣旨を説明しますと、私がいま国語の授業を担当している子たちの中には、とても勉強熱心で、感性豊かで、知的好奇心に溢れた子が、いるんですね。そしてそれはきっと、今だけじゃなく、未来に出会う子どもたちの中にも、いるはずで。そういう子たちの器の大きさと、古典文学の可能性みたいなものを、私は信じたいと思っていて。中学校や高校の古典の授業っていうのは、まぁ、授業時数とかその他複合的な事情で、構造的にやむを得ず、物足りなくなってしまっている部分があるから。もちろんそっちはそっちで努力するんだけれども、授業の枠をはみだしたところで、届けてあげられるものがあったら良いなー、とか、少しでも、何かマシになることがあればいいなー、と思って、願いを込めて話しています。

さて、余談が長くなりすぎましたね。そろそろ本文にもどりましょうか。

光源氏たちの女性談義っていうのはまだまだ続くんですけど、特に雄弁なのは左馬頭でして、彼は次に、高貴な家柄の女性って、もともとの期待値が高いから、がっかりすることも多いよねって話をします。立派な生まれのはずなのに、振る舞いが伴わない育ち方をした人を見ると、なんだこいつって思うし、逆に、家柄相応に優れた女性だとしても、それって当たり前だから感動がないよね、というようなことを、左馬頭は語る。

そして、本当に本当に高貴な、超絶上流階級については、私如きでは論じられるものではありませんと断っています。ここの書き振りには、作者紫式部の事情というか、限界があっただろう、って指摘する人もいますね。

ギャップがあるんですよ。どういうギャップかっていうと、源氏物語を書いてる紫式部自身は中流階級の娘だけど、作品の読者には上流階級が含まれているってことです。自分よりも実情詳しい人たちに、知った風な調子であーだこーだ語るのも恥ずかしい話だから、そこはあんまり触れないでおいたってことですね。

左馬頭は続けて、思いがけない出会いにこそ感動があるよねって話をします。誰にも知られず、評判になることもなく、寂しく荒んだ家の中に、思いの外愛らしい女性が暮らしているってシチュエーション、これががいいんだよと。その意外性に心動かされるんですってことを、彼は熱弁する。

この辺の価値観は、以前紹介した、伊勢物語の一番最初のお話とかからも伺われるから、当時の流行りだったんでしょうね。こんなところにこんな素敵な女性がいたんだー。すげー、ゆかしー、心惹かれちゃうなーってやつ。

大事なのは、中流階級の女性だからこそ、こういう感動が発生しうるってことです。上流階級の家に立派な娘がいても当たり前だから感動しないけど、中流階級に思いがけず素敵な女性が育ってたらびっくりして感動するでしょ、いいよねーそういうの、って話を男たちはしている。

ただ、ここでちょっと気まずいのは、藤式部丞がこの場に混じってるってことです。彼って四人の中で一番ランク低いんですよね。式部丞って官職は受領の予備軍だってことを、紫式部のお父さんについて話した時に説明しましたけど、要するに藤式部丞自身が中流階級なんですよ。

そんな彼を前にして、いやー中の品のさぁ、全然綺麗じゃない寂れた家によぉ、存外素敵な娘がいるのってなんか心惹かれるよなーとか話してるの、ちょっと気まずいじゃないですか。その点について、本文中でもちゃんと言及がなされています。

突然左馬頭が、めちゃくちゃ具体的な話をし出すんですよね。年老いた父親はみっともなく太っていて、男兄弟もなんか憎らしい顔つきしてて、こんな家、魅力的な娘がいるなんてまさか想像もつかないだろってところに、本当はにわか仕込みなはずなんだけど、なんだか本格的に見えなくもないレベルで文化的な芸事を修めた女性が、ともすれば、自分たちよりもランクの高い人に見染められてやろうって精神性で暮らしていると、たとえそれが、わずかな才能だとしても、男として興味を惹かれずにはいられませんと。特に優れた、欠点一つない相手を選ぶ場合は対象外でしょうけれど、こういう女性はこういう女性で、なかなか捨て難いものではないでしょうか、と語る。

で、この次の記述が複雑なんですけど、「~とて、式部を見やれば、わがいもうとどものよろしき聞こえあるを思ひてのたまふにやと心うらむ、ものも言はず。」と書いています。セリフの後、左馬頭が藤式部丞の方を見たっていうんですね。ちなみにここも、喋ってたのは左馬頭しゃなくて中将だったんじゃないかって説がありますが、兎にも角にも、みんなの注目が藤式部丞に集まった。で、結果だけ先に言うと、彼は何もコメントしなかったと書いてある。そして、彼が黙っている理由を推し量るに、おそらく心の中でこういう判断があったからだろう、ってことが書かれていて、それが、「わがいもうとどものよろしき聞こえあるを思ひてのたまふにや」って部分なんですね。

「わが」っていうのは、式部丞自身のことです。彼には姉妹がいて、どうやら世間ではそこそこ評判がいいらしい。話の流れや相手の視線から、これって俺の家のことを念頭に置いてしゃべってるな? という判断を、式部丞は下す。

評判の良さがそのまま身を結んで、彼の姉妹がいいところの貴公子に見染められたりしたら、まさにさっき話していた、親父や兄貴はいやしくてパッとしない中の品の家でも、娘だけはなかなかどうして興味深く、ランク高い男の相手としても捨てたもんじゃないってこともある、って内容と、重なることになる。

つまり、憎らしい顔つきの男兄弟って、俺のこと言ってんのか? って話で、こんなの、どういう風に返答を返したとしてもろくなことにならないから、式部丞は黙ってたんだろうなって、様子を見ていた光源氏は判断する。

このあたり、記述が複雑だから解釈間違ってるかもしれないんですけど、もしこの通りだとしたら、なんか嫌な感じのやりとりですよね、現代人の感覚だと。ちょっとハラスメントっぽいというか、なんというか。まぁ、彼らは現代人じゃないので、今の感覚に照らしてどうこう言ったところで仕様がないんですけど。どう捉えるのがいいのかなぁ、ここは。

ちなみに、ここまでの話を受けて光源氏が何考えてたかって言いますと、「いでや、上の品と思ふにだに、かたげなる世を」ってことを、内心考えていた。

「かたげ」っていうのは、「かたし」って形容詞の語幹に接尾語の「げ」をつけて、そういう様子だって意味にしてるわけなんですけど、この場合の「かたし」は、ハードとかソリッドって意味の「固い」ではなくて、「難しい」って漢字をあてる方の「難し」でしょう。困難だ、滅多にない、って訳す。

じゃあ何が難しいのかっていうと、さっき話の流れで出てきた、欠点一つないパートナー選びってやつね、それは、上の品、上流階級の中ですら困難な世の中だぞ、そんな人滅多にいないようだぞって、光源氏は考えている。

ここ、葵上のことを連想しているんじゃないかって指摘されることが多いですね。左大臣と内親王の娘で、典型的な上の品だけど、光源氏からすれば、決して完璧なパートナーではない。

でも普通に考えて、サンプルデータ一つで「世の中こんなもんだ」って悟るのは変だから、葵上も含め、何人かの女性のことを想像しながら思ったんでしょうね、いやいや待てよ、完璧な人なんてそうそうおらんぞ、と。以前話したように、彼ってこの時点で、葵上以外の相手と恋愛を楽しんだことがあるはずで、上流階級の女性がどんな感じかってデータだけは、結構たくさん持っているんですよ、光源氏って。

で、面白いのが、ここから急に、光源氏のお色気シーンみたいな描写がはじまることなんですよね。まぁ、その、お色気シーンって言ったら語弊があるんですけど、ある種のフェチズムというか、これ、こんなに詳しく書く必要あった? みたいな記述が始まって、興味深いので、引用してみましょう。

白き御衣どものなよよかなるに、直衣ばかりをしどけなく着なし給ひて、紐などもうち棄てて、添ひ臥し給へる御ほかげ、いとめでたく、女にて見奉らまほし。

これね、光源氏が今、どういう格好してるかって描写なんですよ。「おんぞ」っていうのは、御、衣って書いて、「お召し物」ってくらいの意味ですけど、「御衣ども」って書いてあるから、複数形ですね。だからまぁ、下着というか、白いインナーウェア的なものを、数枚柔らかく重ね着していて、その上に、直衣だけをしどけなく着ているんだと書いてある。

この「直衣」の説明がねー、難しいなぁ。というか、平安時代の衣服の仕組みについて、私自身も理解が怪しいんですけど、避けて通るわけにいかないので、なるべく簡略な説明を心がけて、トライしてみましょうか。

「束帯」ってのと「衣冠」ってのと「直衣」ってのがあるんですよ、平安時代の男性の服装に。

「束帯」ってのは、帯で束ねるって書くんですけど、読んで字の如く、ベルトを着用しなければなりません。これがもっともフォーマルなスタイル、正装です。

だけど束帯ってかなり窮屈だから、こんなん毎日着てられまへんってことで、ベルトなし! 他の部分も色々ゆったり!って格好が貴族のスタンダードになっていった。これが「衣冠」です。多分みなさんが、平安貴族の服装って言われて真っ先に思い浮かべるのがこれじゃないかなぁ。

「衣」に「冠」と書いて、衣冠。漢字が重要ですね。当時の貴族って、どういう服着て、どういう冠被るかで、社会的なランクや立場が一目瞭然だったんですよ。

袍っていう、まぁ今で言うところのスーツのジャケットみたいな上着があったんですけど、これの色とか文様が社会的なランクや立場によって指定されていました。

だからまぁ、束帯に比べたら色々カジュアルになったんだけど、ある種の窮屈さと束縛を残していたのが衣冠って服装でした。平社員と課長と部長で、それぞれ着用していいスーツの色が決まってる、みたいな感じですかね。

この、特定の上着を着なきゃいけないって縛りをとっぱらったのが直衣です。直角三角形の「直」に「衣」と書いて直衣。社会的な属性を示さない、ただの衣だってことですね。ぱっと見、衣冠とほとんどなんも変わらんのですよ、直衣って。だけど、さっき説明したような、身分による「袍」の指定はない。

とはいえ、直衣を着てるって事実だけでも読み取れることがあって、誰でも着ていいわけじゃないんですよ、直衣は。勅許がいるんです。わかりますか、勅許。天皇の許可がいるってことです。つまり特権なんですよ、直衣着用は。

さっきの例の延長線上で表現すると、平社員、課長、部長でスーツの色まで決まってるのに、それより上の幹部とか、社長に気に入られてる人だけは、好きなジャケット選んで、オフィスカジュアルで出社していい、みたいな感じかな。ワイシャツネクタイじゃなくて、Tシャツの上にジャケット羽織ってるだけの、なんならそのままプライベートにも使えるようなカジュアルさで、公の場に出ているイメージです。

だからまぁ、当然そういう立場だってことなんですよね、光源氏は。直衣の着用を許された存在であって、しかもそれを、しどけなく着崩しているという。

「紐などもうち棄てて」っていうのは、なんだろう、今で言えば、衣服の前のボタンをとめもしないでって感じかな。そういうゆったりリラックスした、ある種あられもないような姿で、柱とか肘置きに身を預けて持たれてたっていうんですよ。光源氏がね。その姿が明かりに照らされて影を作っていて、それが大層めでたい、素晴らしいんだと書いてある。

なんだこれはって、思いませんか。めちゃくちゃ面白いですよね、ここ。光源氏の美しさを描こうとしていることはわかるんだけど、ビシッと決めた公の姿じゃなくて、こういう砕けた姿の中に色気を見出してるところが、なんとも興味深い。

そうしてこのあと本文は、そういう光源氏に対して、「女にて見奉らまほし」という、非常に解釈の難しい表現を続けています。

「まほし」は助動詞ですね。「~したい」という希望のニュアンスで訳す。

「奉る」は補助動詞です。他の動詞にくっついて、謙譲語を作ります。

ここまではわかるんですよ。「奉らまほし」はわかる。でも、「女にて見る」は意味がわからん。いや、意味がわからんわけではないんだけど、かなり多くの解釈が想定可能なせいで、どうとるべきなのかを一つに定め難い。

まず一つの捉え方として、「光源氏のことを女にしてしまいたい」という読み方があります。例えば、その場にいた中将とかがね、衣服を着崩してる光源氏を見て、あまりに美しく、色気があったから、もういっそ、この人を女性にしてしまって、自分が恋人になりたいくらいだなって思い浮かべると。そういう解釈です。

「見る」っていう言葉は、古語だと結構意味が深くて、単純に視線を向けて視覚で捉えるって意味だけじゃなくて、ある程度深い関係性を結ぶってニュアンスもあるんですよね。そこまで含めて解釈しなければならない。

もう一つの捉え方は、逆に、「光源氏という男を、自分自身が女性になって、女性の気持ちで眼差したい」という理解です。これ意味わかりますか。今目の前に、光源氏っていう超絶イケメンがいるわけでしょ、で、男同士の感覚でいっても、めちゃくちゃ素敵だなこいつって思うわけですよ。まして、自分が女性で、もっと言えば、自分が光源氏の恋人だったら、今この瞬間の色気溢れる光源氏の姿を見て、女としてどれほど心ときめくだろうかと、そういう想像と願望を膨らませるわけです。

この場合、「見る」って単語を「お世話する」って解釈でとって、恋人として光源氏をお世話して差し上げたい、って読む人もいますね。

三つ目の解釈はもう少し穏やかで、なんというか、彼の姿に対して、あくまで女性的な美しさを見出しているに過ぎないんじゃないかって理解も、ここでは成立しうる。つまり、光源氏の体を女性に変えちゃいたい、とかって話ではなくて、彼はあまりに美しいから、まるで女性みたいだと。男だってことはもちろん分かってるんだけど、女性みたいなものとして眼差してしまいたいほどの美しさだってことを、ここでは表現しているのではないか、という説です。

光源氏の美しさって、一番最初の桐壺の頃から、女性に準えて表現されることが多かったから、私個人としては、この三つ目の解釈が穏当かなぁって思うんですけど、ちゃんと検討したわけじゃないから、なんとも言えないなぁ、というのが、正直なところです。

ちゃんと検討するってどういうことかというと、まずさっき言ったように、注釈を見比べなきゃいけないですよね。古注の時代から現在に至るまで、この箇所に言及したすべての注釈を集めてきて、みんながそれぞれ何言ってるか比較する必要がある。

あと、研究論文でこの箇所を論じているものがいくつかあるから、それも集めて目を通さなければなりません。

そして何より大事なのが、言葉の用例を収集することです。同じような表現を他のところから探してきて、並べて見比べることによって、文脈が見えてきて、あぁ、これって大体こういう場面で、こういう意味の言葉として使われてるんだなってことがわかってくる。

ただ、今問題になっている、この「女にて見る」に限って言えば、用例を集めてもなお、解釈を確定することが難しそうな気配があります。結構いっぱい、他の例見つかるんですよ、源氏物語の中だけで探しても。けれどその一つ一つがまた解釈難しくて、どうにも一つに定め難い感があります。

もちろん、研究論文書いたり注釈書書いたりしている人たちの中には、その人なりの根拠と結論があります。だからそれを読んで、確かにそうだね、それしかないねって思えた人にとっては、解釈一つに定まるんですけど、私はまだそれができていないという、ただ、それだけの話です。

これ、大丈夫かな。 ややこしいばっかりで、頭痛いかもしれないですけど、でも、ここが面白いんですよ。

また余談になってしまいますが、私が大学生になって、古典を勉強していて、一番感動したのは、世の中にはまだ答えの出ていない問題が山ほどあるってことでした。

子供の頃って、答えがわからないのは、自分が無知で未熟なせいだって、思うじゃないですか。私がまだ知らないだけで、大人とか専門家は正解や真実をすでに知ってるはずだと、なんとなく信じている。でも実際は、全然そんなことないんですよね。

大学入って、古典読んでて、わかんないところが当然出てくるから、教授に訊くわけですよ「すみません、ここ、僕の力ではうまく訳せませんでした。どう読んだらいですか?」って。すると教授は首を傾げて笑う。「いやー、私もわかりませんねー。これ、もう少しゆっくり調べ直して、また来週報告してくれますか」っつってね。

で、ヒントとして、大体の場合は、参考になりそうな研究者の名前を何人か教えてくれる。この人とこの人は確かそのあたりの専門家だったはずだから、本や論文に記述がないか探してみてください、と。それで解決することもあれば、解決しないこともあります。そしたら、本も論文もめぼしいところ全部調べたけど、どこにも答えはありませんでしたって、改めて報告することになるね。あるいは今回みたいに、諸説乱立してて、答えが一つに絞れませんでした、みたいな結果になることも多い。すると、教授はまた笑うんですよ。

「そうですかー、じゃあこれについては、まだ誰も答えを出していないのかもしれませんねー。いやー、面白いですねー」つって。このときが一番楽しそうなんです。研究室の教授とか先輩って。「わかんないですねー」っていってるときが一番ニコニコしてて、最高だなここはって、思ったなぁ。

だから、今回紹介した「女にて見る」問題についても、「いやーわかんないなー」って感覚を、楽しんでもらえたら嬉しいですね。そして、自分なりの答えを確かめたくなった人は、いつかいろんな論文読んだり、注釈書比較したりして、あーだこーだ考えてみてください。

ちょっと無責任な終わり方ですけど、今回は、ここまでにしておきましょう。ではでは、お疲れ様でした。また次回。

【追記】
今回の解説は、「かしわ丸」さんのnote記事に刺激を受け、大学時代の日々を思い出して書きました。大学で古典を学ぶということがどういうことなのかとてもよくわかる素晴らしい文章です。


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