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実存的不満と学問への動機~ぼくが社会学をはじめた理由~

 結局のところ、ぼくの学問への動機は、実存的不満からでしかなかった。ぼくは社会学を専攻しているが、別に社会問題に本気で取り組もうとか、なにか理想の社会像があるとか、そんな高尚な考えは一切ない。ただぼくは、自分が長年抱えてきた実存的不満(自分はなぜ不幸せなのか、人生に輝きがないのか)を解消したくて社会学をやっているだけなのだ。

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 ぼくは高校を卒業してからというもの、常に満たされない気持ちを抱き続けてきた。その理由はいまいちわからない。孤独が原因だと思い、仲間づくりをしたこともあった。確かに仲間ができれば満たされなさは解消された。だが、それは完全ではなく、そのうちまた元の気持ちへ戻っていった。自分の欲しいと思ったものはできる限り手に入れてきた。地位、モノ、経験、友……。それでも今もまだぼくの中には満たされなさは残っている。

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 要するにぼくはこのような人生における満たされなさを解消して、人生に輝きを持たせるために社会学という学問を求めた。最初は沖縄の米軍基地問題に関心を持った。大学1年生の頃だ。この頃は自分の孤独から、鬱屈した感情を「基地」という仮想敵にぶつけていた。米軍基地反対!米軍を追い出して日本を真の独立国へ!……そんな政治的な情熱をたぎらせていたが、今思えばそれも自分の実存的不満の埋め合わせに過ぎなかったのだ。気の知れた友人さえいれば、米軍がどうの、日本の独立がどうのといったコトに関心なんか湧くわけがなかったのだ。

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 大学2年生以降は、アイデンティティについて関心を持った。まさにド直球のテーマだ。最初は社会学というより心理学の本をよく読んだ。自己に関するテーマ以外にも、青年期の心理学にも手を出した。エリクソンやらマズローやらフロイトやら、いくつかの心理学者の名前を知った。社会学専攻だったのでその後は社会学における社会的自己論にも関心を持った。土井隆義やら浅野智彦やらの名前を知った。若者論にも関心を持ち、宮台真司を知った。大学4年生から現在までは、社会階層について関心を持っている。自分の不満を文化資本などの概念に求めたのだ。ここでブルデューの名前を知った。それから今は権力にも関心がある。いろいろな意味での「権力」が、ぼくの人生を阻害しているのではないかと思ったからだ。ここでフーコーを知った。

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 それもこれもすべて、ぼくの実存的不満を埋め合わせるためのものだ。なぜ自分は不幸せなのか、満たされないのか、その答えを見つけるためにぼくは社会学を中心として学問をしていると断言していい。他人のため、社会のために学問をするというのは、ぼくからしてみれば全く分からない動機だ。ぼくはどうしても「自分」という範囲から抜け出ることができない。セカイ系ではないが、「自分=セカイ」になってしまっている。これがおかしいことなのか、あるいはおかしくないことなのか、ぼくには分からない。とにかくぼくにとって学問とは、そういうものなのだ。

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