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粒≪りゅう≫  第七話[全二十話]

第七話

 
 ”この人の瞳に、私の姿、いや、私の顔が映し出されるなんて、なんとも申し訳ないなぁ・・・”と、考えるだけで冷や汗がタラタラ流れてくる。
”撮影時に使う、被写体がきれいに映るフィルターをかけてほしいな、この方の瞳に・・・”
粒は、目の前にいる相手に対して、相対するのが自分である事を、申し訳ないような気持ちになりながら、照れ隠しに微笑んだ。

 こんなにも素敵な男性と、喫茶店で、一対一で話すなんてことは、粒の未来予想絵図には思い描かれてもいなかったことで、それに過去にも経験がなさ過ぎて、粒の心臓はいつもにない動きをしていた。
 
 あかんあかん、しっかりしなあかん!なんだかんだといらんことを考えている場合ではない、と粒は、気を引き締める。
粒は今、大切な打ち合わせの最中なのだ。
 
 目の前にいる相手と話し合うために、今ここにいる。しっかりと相手の話を聞き理解し、そしてまた、自分自身の意見をしっかり話さなければならない場なのだ。
が、ついついうっとりしてしまいそうになる相手の顔を、長時間見ないようにと、粒は視線を、自分の膝の上、机の上と行き来し、そして書類を運ぶ彼の手に目をやった。
まあ、あんまりじいっと相手の顔を見つめるよりも、少し視線を落としがちにしていた方が、ちょっと控えめな中高年の女性という感じでいいのじゃあないか、とも思ったし。
 
 力強そうでいて、美しい手だった。
丸っこくない、そう分厚くもない、でも、薄っぺらじゃなくてある程度の厚みがあり、美しいけれど華奢ではない。
ピアノを弾くにも似合いそうだし、工具を持っても様になりそう。
 何より、ペンを走らせたり、そう、本に好まれる手だなぁ・・・と粒は思った。

 本に対する深い愛情が、本に対する敬意が、熱意が、彼の手から本に伝わっている気がした。
 
 好きだなぁ、この人の手。
ゾクッとキュンが一緒にくるような手、だと思った。
愛しく思う人をただ、ただ見つめているだけで心が満たされて、幸せに包まれていた青春時代の1シーンに身を置き、粒は珍しくぽーっとしていた。

「・・・さん」

「・・・さん。よろしいですか?」

学生時代、授業中にウトウトしていて、先生に呼び起された時のように“ビクッ”と “ハッ”が一緒にきて、粒は慌てて

「す、すみません。何でしょう」

と、相手の顔に目を向けた。
その人は、ちょっと控えめに微笑むと

「何か気になる事でもおありですか?どんなことでも、お話しください。」「日和さんの描かれた作品と、作品に込められた思いを、微塵も残さずに一冊の本としてこの世界に送り出すのです。」
「日和さんの思いが、沢山の人々に生きわたっていって・・・何かが生まれる本を創りましょう!」

『微塵も残さずに』という言葉に、粒の心はグッと来た。
粒は口元で「はいっ」と言いながら、こくっと頷き、その人の目をじっと見た。

 その人の瞳には、澄んだ光が見えて、そして、希望がみえた。
 
 
 粒は更に気を引き締めた。
そうなのだ、粒は思い切った決断をしたのだった。
趣味で書いたり描いたりしていた自作の物語を、書籍化することにしたのだ。 

 
 そして、粒の目の前にいる、力強く美しい手・・・だけでなく顔も・・・いや全てが美しい容姿の持ち主は、書籍化するにあたって、粒の担当となった編集者である。

名前は、星加光翼ほしかこうすけ

名前も美しい人だった。

 

 一大決心をしたのは一か月前のこと。
携帯の画面を見ていた、粒の目に留まった【自費出版】という文字。
その文字が表記されている同じ画面には、【自費出版】についての、様々な情報や、アドバイス、忠告?のようなものまでも書き込まれていた。
 
 粒は、だいたいざあーっと目を通すと、思い切った決断をした。
これまで、子供が生まれる前、まだ正社員として働いていた時から、手を付けず守り続けていた、粒の個人的財産。
所謂小遣いである。
 ガンガン稼いでいる人からすれば、それ程大袈裟なことではないかもしれないが、粒にしたら大した財産だ。これまで、手を付けずにちみちみと守ってきた。

 いくら、結婚したら財産は全て夫婦ふたりの物、なのだとしても、これだけは絶対に譲れない。
それを自費としてつぎ込み、出版社に自身の本を創ってもらうことに決めたのだ。
 
 文章も絵画も、専門的に学んだ経験はない。登竜門とか言われているコンクールに入賞したこともないし、年がら年中ずっと書き続けているわけでもない。
 
 時折思い立って家事の合間に突発的に描いた作品を、話を膨らませ、絵をブラッシュアップ(カッコイイ言葉…打ち合わせで初めて知った)していき、本のサイズ、どのような紙で、どのような色あいで、表紙や裏表紙、カバー・・・様々な過程を経て生まれて初めて、粒の本が誕生するのだ。
世に出るのだ。
 
 粒は、いいじゃないかと思った。あほにされてもいいやと思った。ドン引きされてもいいと思った。もどかしく、八方塞がりのような状態で、鬱々としてきたこれまでの自分を、なんとかしたかった。悶々と生きてきた自分の何かを、どうにかしたかった。
 
 
 ろくに稼げてもいないのに、とか、これから掛かる生活費の心配とか、不安は挙げれば切りがないが、お金が使えばなくなるのと同じで、命もなくなっているのだ。

一日一日・・・一刻一刻と。
 
 
行動に移したという事は、自身が何かを感じたからだ。

 
 誰かに相談など、全くしようとも思わなかったが、ただ後々面倒な事になるのは嫌だと思い、粒は、配偶者に報告した。

「金にはならんよ。」
「そんな大金、ドブに捨てるようなものだし・・・どれだけの人間が作家目指していると思う?で、その中で、どれだけの人間が思うように仕事が出来て、作家として食ってけてると思う?」

“うん。言いたいことはよくわかる。まるで、就活中の子供が親に説き伏せられているような状況だな・・・”

 配偶者の言っていることは間違いないと、粒も思った。
実際に、我が子がその道を志願していたとするなら、やはり無謀なことだと思うだろう。
まず、確実に生活していける基盤をつくってから、挑戦したらどうだと言いたくなる。

しかし・・・粒は黙って配偶者の言葉を聞き流す。

“私は作家になろうと、出版を決めたのではない。私は、この状況を変えたくて決めたのだ。自分自身によって、固く小さく圧縮された私の精神を、今の状態から変化させるきっかけにしたかった。このことは、どう説明してもこの人には理解できないだろう。黙っていよう・・・”

 粒は固く口をつぐんで、じっと配偶者の口から排出される音の止むのを待った。


「夫婦だぞ。お前の小遣いは、俺の物でもあるんだから好き勝手は許さない!」
とか、言われなくて本当によかった・・・。

 言いたいことを言うだけ言ったら、もう後はどう後悔しようが知ったことではない・・・という余韻を残して自室へと姿を消した配偶者に、粒は少しだけ感謝した。
 

 秘密にしていることは、何かと窮屈だ。
悪いことをしているわけでもないのに、コソコソしたくない。
しかも、多額のお金の掛かることだし、黙って事を始めて途中で知れた時に、根掘り葉掘り問いただされたりするのは、本当に面倒だし屈辱だと粒は思う。

 言葉では全否定されて、阻止されたけれど、断固として阻止されたのではない。
脅しみたいなことも散々言われたが、まぁ、本当の事を言っているといえば、本当の事なのだ・・・確かに。


 
 粒が、子供たちが、何かに取り組もうとすると、後押しよりは、後ずさりさせるようなことをまくし立てて不安にさせるのは、いつもの事だ。
もう慣れている。

 温かい言葉も、気持ちが和らぐ言葉も、勇気が湧いてくるような言葉も、配偶者のその口から出てこないことはよくわかっている。



第八話につづく


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