粒≪りゅう≫ 第八話[全二十話]
第八話
“次回までに”と言われた原稿の一部と、必要な書類を鞄に詰めて、粒は打ち合わせにやって来た。
星加は粒にとって、とても魅力的な人だった。
打ち合わせの場で、先に席に着いて、粒が訪れるのを待っている星加の姿を目にした途端、粒の心?のような所に、何ともいいようのない恥じらいのようなものが沸き起こり、物凄く照れてしまった。
年を重ねるごとに、結構大胆不敵な女性になった自分を、客観的に見ている自分がいて
“おお、このように女の人は強くなって、悪く言うと、ふてぶてしくなっていくのかぁ~”
などと時折感心していたが、少女のような恥じらいもまだ残っていたのかと、らしくない自分に、粒は少し驚いた。
そして、新鮮だった。ワクワクした。
打ち合わせなのに、デートのような錯覚を、勝手に起こしていた。
粒は、
“おいおい、あんたは一大決心をして、今ここにいるのだよ、しっかりしなさいよ!”
と、自分に喝を入れる。するとすぐに
“いいじゃない!だって仕方ないよ、こんなに素敵な人と、こんなふうに話す事なんて、今までなかったもの・・・。少しくらいドキドキしてワクワクしたって・・・相手に迷惑かけるわけじゃないし。いくつになっても、ときめくことは大事だって!”
と、これまた自分が言う。
今日は、いつも姿をみせない自分が、ひょこひょこと顔を出してくる。
星加は、丁寧に挨拶をして、粒の耳に心地よく響く、温かい言葉をかけてくれる。
そして、粒が提出した原稿や書類を、一枚一枚丁寧に確認していく・・・その星加の手に、粒は釘付けになる。
勿論、自分が持参した原稿に対する星加の反応や、書類に不備がなかったかを気にしながら、だ。
「お忙しい中、どうもありがとうございます。原稿、拝見しました。とても、素晴らしいですね。日和さんの、この作品に込められたお気持ちが、こちらにも伝わってきます。幅広い年齢層の方に、是非、読んでいただきたい作品だなと思います。この作品に触れると、なんだか、心が穏やかになります。このキャラクター、とても愛らしくて、僕、大好きです!」
“大好きです”という言葉が、粒の胸を射抜いた。ズバーン!と。
これまで粒の胸は、違う意味で射抜かれっぱなしだった。
「ろくに働いてもいないのに?」
「~さんとこは、共働きだから安泰でいいよな~。」
「カッターシャツのさ、腕のところのアイロンの線が二重になっていたから、一日中気になって気になって・・・今度から気を付けてよ。」
「子供が周りになじめないのは、やっぱり母親に性質が似ているからじゃないの?」
「もう、髪にキューティクルの輪っか、ないね。歳だから仕方ないか。」
「なんかいつも大変そうにしてるけどさ、お母さんて、自分で仕事作って自分で勝手に忙しくしてるんだよなー。」
グサッ グサッ グサグサグサグサグサ・・・・・
粒の胸はこれまでに、一体何本の矢で射抜かれてきたのだろう。
刺さった矢には、まるで、矢の先に毒でも仕込んであったかのようで、その仕込まれた毒が、じわじわと粒の心や体に浸透してきて、粒はどんどん蝕まれていった。
自信、自尊心、希望、夢、光あるものが、粒から次々に遠ざかって行く。そして、粒の中のふつふつ煮えたぎる熱い怒りが、ひと回りふた回りと大きくなり、絶対に足を踏み入れたくない、どぶの中の汚泥が増える。
だぷんだぷんと、嫌な音を立てて。
望んでなどいない、要らないものばかりが増えていく。
「日和 粒さん」
名前を呼ばれてはっとした。
【日和】という苗字は別として、粒は【粒≪りゅう≫】という名前が気に入っている。
自分の名前を、改めて星加に呼ばれて、何だか粒の全てが、浄化されたように思えた。
今しがた思い返していた望まないものどもを、星加が、追い払ってくれたように思えた。
「はい」
と、粒は“ありがとう”の気持ちで答える。
「絵本の著者名は、ご本名でよろしいですか?」
特に、ペンネームも思いつかなかったし、本名に対して、何の抵抗もなかった粒は
「はい、本名でお願いします。」
と答えた。
粒は【粒】という名前が好きだ。
そして、苗字は、結婚してそう名乗るようになったものだが、嫌いではない。【日和】って、なんだか優しくて可愛らしい感じがするし。名乗る人間がどうであれ、名前に、その言葉には何の罪もなく、それぞれに深い意味を持ち、生きている、と粒は思う。
「【粒≪りゅう≫】という字は、≪つぶ≫とも読みますよね。
ですから私、小さいころから『つぶちゃん』と呼ばれることが多くて。『つぶ』って、なんだかちっぽけな感じがするじゃないですか。でも、『つぶ』って、始まりなんですよね。」
「なんでも、どんなものでも、最初は小さいこと、小さいものから始まるでしょう。小さいものが集まって、どんどん集まって、大きくなっていく・・・その始りの《もと》って、なんか素敵だと思いませんか?」
「だから、私、凄く好きなんです。【粒】という名前が。」
「あ、でも、時々この名前のせいかもと思う、理不尽なこともあって・・・。名前が【粒】だけに、私って時々つぶつぶになって、分散しているのじゃあないかと思うことがあるんです。私、嘘をつくと、必ずばれるんです!どんなに巧みに嘘をついても、必ずばれてしまうんです。きっと、わたしの体が粒状になって、嘘をばらしに行くんですよ。そうとしか思えない。だからもういつの頃からか、嘘をつくことはきっぱりやめました。」
粒は、自分は一体何を話しているのだろう。べらべらと・・・。
禁酒しました!とか、禁煙することにしました!とか、はたまた、ギャンブル辞めました!みたいな報告をしているみたいではないかと思った。
“ただ単に星加さんは私に、著者名はどうするのかと確認してこられただけなのに、私はどうでもいいような事を、長々と話し続けてしまって・・・”
「ごめんなさい。長々と、要らない話をしてしまって。星加さん、お忙しいのに。」
粒にとって星加は魅力的で、目の前にいるとちょっと緊張するというか、照れるというか、ときめくというか・・・そして、星加の存在は、とても穏やかな何かを醸し出していて、粒を、本来あるべき『素』の状態に近づけようとする気がする。
気のせいかもしれないが、粒は、なんだかそんな気がした。
「悪事を働いて、誰も見ていないと思っても、自分自身が見ているのだよ・・・というようなことでしょうか。」
星加は、真面目に応えた。
「でも、長い間、なんて理不尽なんだろうと思っていました。だって、同じように嘘をついても、ばれずに飄々としている人は沢山いて、私なんて、たま~に嘘をつくと、まるで仕掛けられた罠にかかるみたいに、簡単にばれてしまう。嘘に限らず、です。私は、ズルが出来ないし、気を抜くことが出来ないんです。確かに、星加さんがおっしゃるように、自分が自分にそうさせないように見張っているのですね、きっと。そのお陰で、これまで、真っ当な人生を歩んで来ることが出来たのでしょうけれど。」
でもそれは、息(生き)苦しく窮屈な日々だった。
真面目な子という名札を勝手に貼られて。
粒は、そんな自分は果たして本当の自分なのかどうか、わからずにいた。
「ああ、すみません。また、ぶつぶつと、愚痴のようなことばかり・・・。」
星加は、にこっと笑うと、
「日和さん、【粒≪つぶ≫】って10回言ってみて下さい。」
と、真面目に言った。
”ん?”
と、不思議に思ったが、さっそく粒は言い始めた。
「つぶつぶつぶつぶつぶつぶつぶつぶつ・・ふふふふふ・・」
途中から笑いに変わった。
「はははははは。うわーやっぱり名前って、人を表すっていうか。なるほど、私が愚痴言いなのは、こういう事だったのですね。」
「いえ、そんな・・・というか、すみません・・・変な事を言わせてしまって・・・。というか、本当にすみません、大切なお名前なのに・・・。」
と、星加は何とも言えない表情で、申し訳なさそうに頭を下げた。
ヒョイと口に出してしまった事が、粒に対して失礼な事だったのではないかと、とても気にしているようだった。
だが、粒は感じていた。星加が、粒の鬱々とした気持ちを、払拭しようとしてくれた優しさを。
ふふふふふ・・・また笑いがこみ上げてきて、粒の腹部が波打った。本当に、名前は人を表していると思った。
星加は、人に希望や夢のように光あるもの・・・眩しすぎたりせず、そして、強く刺すような光でもない。夜空に瞬く星のように、優しい光を与えてくれる人だ。
そこにいて、チカリ チカリと光を放ち
“ここで見ているよ。大丈夫だよ、安心して”
と囁いてくれるような人だと、粒は思った。
第九話につづく
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