あなたに会いたくなる夜は冷えます
瞼を開くと夜の闇は依然として寝室を覆っていた。枕元の置き時計は無情にも午前3時前を指していた。
またか、と思った同時に溜め息が漏れた。数日、寝付けない日と眠れない日が続いていた。
布団から出た顔の肌越しに刺さる空気に外の気温を知る。底冷えのする11月の夜だった。
ブラインドの隙間からは遠くの商業施設群の明かりがいくつか、ぼんやりと丸い形をして光っているのが見えた。
まるでいつかあなたと見たクリスマスのイルミネーションみたいだと思った。だけれどすぐに、その例えにしてはそれは余りにも儚い光たちであることに気づいてからは、それは物寂しい風景に思えてきたのだった。
私は眠れずにその夜の風景と向き合っていた。その風景は何か語ってくれるような気がした。
いつしか私はその物寂しい風景に私自身を重ねて見ていることに気がついた。
なんでもない日常にふいに、だけれども確実に、どうしようもない寂しさは訪れる。
それはある種の絵画的な寂しさである。『寂しさ』を描く絵画をただ眺めるような寂しさ。
私が見る景色が、私の抱く感情が、そして私自身が、現実感を欠いているがために、自身を観察し、推定することによって自身の心情を定めるというプロセスが必要となる。それが今の私だ。
そのプロセスは絵画を丁寧に鑑賞することから始まる。絵画には『私』が描かれている。絵画の中の『私』は両足を抱えるように体を丸めて木製の椅子の上に乗っている。頬は白く荒れていて、目は何か縋りつくものが無いか散々探した末に、見ること自体を辞めたようにも見える。
私はその絵の観察を経て、自身の抱いている心情の推定を終了させ、それに「寂しさ」いう名をつけるしかないことを自覚する。すると気付けば、今度は絵は『寂しさ』そのものを描き始めている…。そして私は白い壁に四方を囲まれた独房のような美術館で一人、その恐ろしいものを描き始めた絵から目を離せないでいる…。
そういった感じだ。現実は余りにもどうしようもできないが故に、ただ自分を見つめることしかできず、それによって初めて自分が寂しいことに気づくほど強く自我を覆う寂しさ。自分の寂しさに気づいたことで、思い出される数々の寂しさと新たに描かれ出される数々の寂しさ。
そんなどうしようもない寂しさを絵画でも鑑賞するようにただ見つめている。
そんな寂しさを描き出す絵は余りに残酷だけれど、その絵からはどうやっても目を背けることができない。それは魂が描き出す絵だ。心象美術館にあるその絵は目を閉じれば閉じるほど、よりその存在の確かさを強固なものとする。絵はより鮮明に見えてくる。
絵は今でもまだ描かれ続けている。
その絵はもう寂しさを通り越して虚しさに近いものが描かれているようにも最近は感じられる。
喪失は波のように訪れては何かを攫っていく。そして寂しさだけが残る。寂しさはやがて虚しさに変わる。今は恐らくその段階だ。
そんな喪失に救いはあるのだろうか。と度々思う。
「これ以上何を失うというのか。」
よく聞くこのセリフは喪失にとって唯一の慰めとなりうるかも知れない。だけれども失ったものの大きさを最大限に知らしめる文句でもあると、二十四年の人生で何かを失う度思ってきた。
私にとっていつもその文句は、どうにもならない後悔を私の心に刻みつける心理的ナイフを主機能として備えており、「もう何も失うものなど無いから喪失など怖く無い」と考えることで前方への推進力を生み出す気にもなれない私には、この文句が慰めとして全く機能しない。
であるならば、
「喪失に救いなど、慰めなどない。虚しさだけが残っていく。」
そう書きたい。
そう言い切ってしまいたい。そのつもりで書いてきた。
だけれど、そう言い切ってしまったら、どれほど苦しいだろうか考えるほどに、私の臆病な精神がその邪魔をする。
私はまだ喪失に向き合う決意を固めることができない。背水の陣は張れない。心のどこかで山を背にして安心したがっている。
そうして虚しさだけが残り続ける。それはどうしようもないことだ。
あなたに会いたくなる夜は冷えます。あなたは元気でいますか。
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