見出し画像

収まりのいい入れ物



幼少期からの癖


昔から片付け紛いの行為が好きだった。床に散らばる物を集めて一箇所に纏めて整えると、散らされていた意識さえも整う感じがして快感だった。神経過敏な私にとっては気が散らないことが自身の存在を脅かさないためには重要だったようだ。それはある意味、気が散らなければそれで良い訳で、一箇所に纏めた物の全体としての見た目が良ければそれだけで私が求める片付けの基準は満たされる。その基準は人より大分と低いはずなので、私は自分の片付けと呼ぶ行為は紛い物だろうなと小さい頃から薄々感じていた。

私の部屋はいつも綺麗だった。それは外面的な整いであって、例えば机の引き出しを開けばその事はすぐ分かってしまう事だった。まるですぐバレる嘘を吐いているような片付け方。だけれど意外と気づかれないものだった。外見が綺麗な人は性格も良いように見える的な話。

小学生くらいの頃、ある収納グッズと出会った。
こんな感じの。

当時の私にとってちょっとした衝撃のある出会いだった。棚の中に引き出しを作り出せる便利グッズ。外見だけを整える癖のある私にとっては人よりさらに便利だった。そこに放りこめば見た目の良さは保証される。手軽に私の求める片づけの基準に達し、散らされていた意識が整う。極めて便利なグッズだった。

ただいつしかから、このような片付け紛いの行為を続けている私はこの収納ボックスみたいに外見だけ綺麗で中身は混沌とした状態なんだろうなと気づいてしまった。部屋にいると、綺麗に整ったように見える棚の中ではムカデが蠢いているような気持ち悪さを感じることもあった。ただ外面を美しく保っているから疑われることもなく、その内面が暴かれ晒し出されることは殆どなかったのも、幼少期からのその癖が直らない主な要因だった。気持ち悪さを感じつつも他人から指摘されなければ無視され続けるような厄介な癖だった。

大人になるにつれその癖は片付け以外にも波及してくる訳で、その癖が自分の行動を決定づけてきた気がする。
例えば高校の頃は愛想の良い可愛らしい子を演じるために努力した。大学の頃はとにかくメイクに拘っていた。内面をファンデーションで覆い尽くすように生きた。外見の良さって他人にとっては想像より重要なファクターみたいだった。小さい頃からそれを整えることに長けていた私は人から見れば生きやすかったように思われるのだけど、内面の状態は私だけがよく分かっていた。好意を向けられると私は何だかその人を騙しているような気分にならざるを得なかった。それは贅沢な悩みだったのだろうか?ただ気分のいいものではなかったのは確か。どうにかしようにも癖が直らないからどうにもならなかった。

外見の良さを整えてもその中身を知っている私だけにはその意味がないことに私はずっと悩んでいる。特に自分が抱いた感情さえも、その外見だけを整えてしまい込んでしまうのにはもう嫌になっている。

「元気かな」と呟いてしまう


とても大切だった人との別れを私はもう受け入れていますよとでも振る舞いたいがために、彼の姿をまた愛おしく思い出してしまう度、彼は元気かな〜なんて頭の中で呟くことになってしまっている。まるで収まりのいい入れ物を見つけたみたい。

懐かしむ素振りは気持ちの収まりがいい。それは醜い思いを懐かしさという名のついた収納ボックスに放り込んで感情の見え方を無理やり変えて整えることでまともな意識を取り戻そうとする試み。それは幼少期から続く癖と変わりない。

「言葉を発すること」は「形を定めること」だとよく思う。イメージという名の世界からある形を切り出す行為。言葉を発する人は皆、仏師みたいなもの。丸太から思い描く仏像の形を削り、彫り出していく。それは不定のイメージから自分の思いに合う言葉を探し出し、意味のある文を紡ぎ出すのに似ている。そしてそのプロセスを通じて定まった形で自分の思いを知覚し、確定し、理解する。

私はそのプロセスを逆に利用しているみたいだ。元気かなという言葉を反射的にまず頭に生成してしまえば、何だか自分が本当にそう思っている気になる。感情から言葉が発されるという自然なプロセスを無理やり逆方向に推し進める不自然な行為。それを繰り返してまた外見だけ整えている。私はあの頃から本質的には何も変わっていないんだろうね。癖はなかなか直らないもの。

生成された言葉から確定した自分の真の思いを知覚したくないからといって、感情から言葉を生成するという方向のプロセスから逃げてはいけないと私は思い続けている。それから逃げたらどうなるかは周囲にサンプルが沢山ある。感情ありきの言葉ではなくて、言葉ありきの感情というか。発された言葉の向こうに感情(=人柄)が薄い、もしくはない。そんな深みのない人は大抵、自身で再検討したことのない正論をよく喋り、それを自分の価値観としている。覚えた価値観。君じゃなくても君と話せるよ、という気がしてくる。彼らがどういう理由でそのプロセスをサボっているのかは知らないけど、私はそんな人を見る度うんざりする。もちろんnoteなんて書く人は違うだろうけど。その意味でnoteは好きだな〜。noteを書く間は正しい方向でプロセスを推し進めることができていると私は言えるし、自分の思いを言葉にしようとする人の文章を読めるのは幸せだなぁ。いつも素敵な文章を読ませていただいて皆さんありがとう。ここまで読んでくださった方もありがとう。




この記事が参加している募集

今こんな気分

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?