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【感想文】ドビュッシーとラヴェル@芸術劇場4.13(後半)         

三曲目はサン=サーンスの「ヴァイオリン協奏曲第3番ロ短調作品61」。1881年の作品。

独奏ヴァイオリンが上手だったので感動した。ヴァイオリン協奏曲というと、シベリウスのヴァイオリン協奏曲ニ短調作品47も有名だが、こちらの演奏を聴きに行った際、独奏ヴァイオリンの高音が耳をつんざくようで、しばらく独奏ヴァイオリンを聴くのが嫌になったことがあるのだ。

ドビュッシーの曲(演奏)に比べると、良い意味で堅苦しい。カチッとしている。型にはまっている。他の曲でもそうだが、サン=サーンスの曲は、大体の場面において、予測を裏切らない音の展開をする。次はこの音が来る、と、聴き手は予測する。そして、その通りの音の運びになる。要するに、ドビュッシー(または後述するラヴェル)のような、危うさが感じられない。不安にならない、安心できる、音の運びである。

この曲のあとに、独奏者によるヴァイオリンだけのアンコールがあった。

最後はラヴェルの「ラ・ヴァルス」。1919年~1920年作曲。私はバッハとラヴェルが好きだと公言しているが、ラヴェルの曲の中でも、とりわけ(おそらく一番)好きな曲である。

ラ・ヴァルスとは「ワルツ」のフランス語読みなので(「ラ」は女性名詞の冠詞)、この曲は「ワルツ」である。特にウインナー・ワルツを模倣したものである。といっても、最後の方はとてもではないが、ウインナー・ワルツどころか、ワルツとすら呼べないような崩れ方をしていくのであるが。

もともと、ラヴェルは全曲(重複はあるが)CDを持っていたが「ラ・ヴァルス」だけで、1台ピアノバージョン、2台ピアノ、指揮者や楽団違いのオーケストラと、合せて6パターンくらいCDを持っていた。今回コンサートに来るにあたり、久しぶりに家で演奏予定の曲目を聴いたが「ラ・ヴァルス」は、若い頃よく聴いていた、ピエール・ブーレーズ指揮、ベルリン・フィル演奏のものをたまたま聴いた。ちなみに、ブーレーズは、もともと作曲家で、のちに指揮者に転向したのである。彼の指揮は別段、テンポが速いとか遅いとかいうわけではないが、どうも、全ての楽器の音を前面に出そうとするあまり、時には音と音がぶつかってしまう、というきらいがある、これは私の勝手な受け取り方である。また、作曲家としては、あまり大成していないのではないか。

コンサートでの演奏は、かなりのスローテンポだった。そもそもが、このワルツは「踊れないワルツ」である。というのは、ラヴェルに新作を委嘱したディアギレフが「バレエ音楽に不向きだ」として受け取りを拒否し、二人のコラボレーションも終わってしまったという、その原因となったほどの曲なのである。

「踊れないワルツ」とはいえ、この遅さは何だろう、と思った。要するに、ラヴェルではなく「この演奏」に限っていうのだから「この指揮者」は、この演奏で、一体何を表現したいのだろう、と思ったのだ。

さて「この演奏」から脱出して、曲そのものについてみてみる。コンサートでは常に最初にコンサートマスターが音を出し、そのあと各楽器が音をちらほら出していって、やがて協和していない偶然できた妙な音の空間が一瞬出来上がるが、このラ・ヴァルスは、この混沌がそのまま曲になったような作品である。

最初の方は、穏やかな主題で始まる。ウインナー・ワルツの優雅な流れから、ウイーンの宮廷での舞踏会の様子が目に浮かぶようである。ちなみに、ウインナー・ワルツの3拍子は、普通の3拍子と少し違い、3拍の長さが均等ではない。「美しき青きドナウ」などを思い出してみるとよくわかるかもしれない。

優雅なハープ(そういえばラヴェルの曲にはハープが多用される)、下降していく主旋律を奏でる弦楽器と、上昇していく管楽器との美しい交差、旋回するワルツのメロディ、これらに身をゆだね、しばしうっとりとする。

だが、この「踊れそうなワルツ」は、徐々に、リズム・テンポがきしみ出す。そして穏やかだった主題も、崩れていく。「これ、楽譜読み間違えていないか?」というような「この音じゃないでしょう」という「間違ったワルツ」に移行していく。聴き手の不安を誘い、不均衡で危うい音の運びにより、次の音の予測は次々と裏切られ、予測不能な音の渦に巻かれて聴き手は不安定な心情になる。

そして最後の大崩壊を迎える。混沌が全てを支配しているようなのに、たった一粒の調和の種が、全体を調和させている。いわば調和と混沌が調和している。

クラシックでよくある「ジャジャン!」という終わり方でカタルシスを得る人間は多いと思うが、ラ・ヴァルスの最後の2小節は、上記のようなことを意図した時代の作曲家などからすれば、一体なぜこの音をここに配置したんだろう、と怒り出しかねないのではないか、それくらいの破壊力がある。転調が繰り返され、リズムや主題が崩れながら進み、最後の2小節でいきなり、半ば強引な終わり方をする。

さて、この「踊れそうなワルツ」から「踊れないワルツ」へ移行してしまった、この曲の底辺に流れるラヴェルの「暗さ」とは何だろう。憶測の域を全く出ないし、そもそも作曲家の私的な事情を作品から逆に読み取ることに意味は全くないかもしれない。ただ、時代背景や、個人的事情が、作品に全く影響しないともいえない。この曲ラ・ヴァルスの崩壊は、その背景に戦争(第一次世界大戦)をも見ることができよう。また、戦争だけでなく、自身が病を患ったことや、最愛の母を失ったことなどから、長期のdepressionに陥ったという事実もあり、これが作品ラ・ヴァルスに影響しているとみる説は一般的のようである。だが、私個人の意見としては、時代背景に左右されるのではない、ラヴェルその人自身のもつ固有の暗さを見るのである。また、穿った見方をすれば「ボレロ」に代表されるような、一種「狂気的」ともいえるその知的な技巧(「ボレロ」初演の時、曲が終わって「こんな曲狂っているわ!」と飛び出していった婦人をさして「あのご婦人が唯一この曲を本当に理解している」とラヴェルは言ったというエピソードがある)、このラヴェル独特の技巧を凝らすにあたって「ボレロ」のように(皮肉なことだが)万人受けするようなカタルシスをもたらす曲とは全く違った、もしくはラヴェルにとってはほんの少しずれただけの方向へ、発揮させてみた、ただそれだけのことなのかもしれない。「影のある皮肉屋」「知性と感性のバランスに優れた作曲家」、私にとってはラヴェルとはそういう芸術家である。そして、彼の生み出した音楽のような、知性と感性の見事な融合を、詩作において発現することが、今の私の目指す地平である。



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