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親目線で突き止めた「親ガチャ」の正体と果たすべき親の責任

「親ガチャ」という言葉について考えた。note上にも記事がたくさんあり、多くの意見があったが、私が目にしたもののうち、ある1点に深く言及したものはなかった。

それは「親ガチャ」という表現が適切かどうかという点だ。私がこの言葉を聞いたとき感じた胸の嫌な感じは、ガチャという言葉に起因するはずだ。よって、この不快感を払拭ふっしょくするには、「親ガチャ」はガチャかという点を考えることは避けられないと私は感じた。

無論、もう既に「親ガチャ」という言葉で認知されている時点で、その言葉の成り立ちや語義について物申してもなんの意味もない。

だが、私を含めた子を持つ親としての立場のある人にとって、この言葉と対峙する時の心構えをしておくという点では意義のあることだと思っている。

本記事の構成は下記のようにしている。
・ガチャの定義と親ガチャに対する立場
・○○ガチャはガチャとよべるか
・出生に関してガチャという言葉は適切か
・親ガチャという言葉の発生した背景と行く先
・親ガチャという言葉をまとめると(持論)
・親子の対峙 親ガチャ・子ガチャ
・最後に。 親ガチャ外れた方へ

親目線からこの言葉と向き合ってその本質に迫り、親と子の関係性について考えた内容としている。よって、社会問題などには一切触れないで話を進めた「人中心」の構成である。

かなり長くなってしまうが、親ガチャ問題を考える上で役に立てることがあると思うので、お付き合い頂きたい。

長すぎると感じた方は、まとめの項目を先に読んで頂き、興味が湧けば最初から読んでもらいたいと思う。

ガチャとその他用語の定義

「親ガチャ」を語るにはガチャやそれに付随する言葉の定義をしておかなければならない。

現代において認識される「ガチャ」はスマホゲームで提供されていることが多く、「親ガチャ」という言葉が生まれた背景にはこの電子上のガチャシステムが浸透したことにるところが大きいと考えてよい。また、後述する「リセマラ」という概念も重要で、これは電子上のガチャにしか該当しない。よってここでは、現物のガチャは考慮せず、電子上で行われるものに絞って考えたいと思う。

ガチャとは、明示されている複数種類ある商品のうちから1種類を、明示されている確率に基づいて獲得できるという商品購入システムの総称で、実際に購入されるまでは何が手に入るかわからない。

また、レアリティやその他の概念により、ガチャ提供者側が各商品の価値を設定することにより、商品全てが同じ確率に設定されていないというケースが多く、これも広く認知されている。

そして、現実のガチャとは違いデータ上の物のため、各商品の数量が制限されていることはなく、誰かが獲得したら自分は獲得できないといったことはない。理屈の上ではガチャをした人全員が同一商品を手にする可能性というのもある。

そのため、他者との比較(特定商品を持っているかどうか等)が発生し、確率の違いと合わさり射幸心を煽るシステムになっている。

要点をまとめておく

・購入する/しないの選択ができる
・何が手に入るかの商品範囲が明示されている
・各商品の獲得確率が明示されている
・実際に手に入るまでは何がでるかは不明
・提供者側からレアリティなどの価値付けを行われている場合がある
・どの商品も獲得機会に制限はない

以上が、ガチャの定義であるが補足しておくことがある。価値付けを行うのは提供者側だけに限らないという点だ。以下に説明する。

「親ガチャ」という言葉のあとには、「当たり」や「外れ」という言葉や意味を持たすことが通常である。そのため、この「当たり」と「外れ」についても明らかにしておく必要があり、これには商品の価値付けが重要である。

提供者側からレアリティや性能によってその価値は決められており、その優劣は客観的に定められている。そのため、一定以上の「当たり」という概念は存在する。「当たり」以外に属するもの全てを「外れ」とすることは可能であり、「外れ」も存在することになる。「外れ」が無いと「当たり」が際立きわだたず、射幸心があおれないので、これらの存在は確定的だ。

しかし、ガチャをする側の価値観によってもこれらは変化する。つまり、ゲーム提供者からしたら最大の「当たり」でも、ガチャをする側にとっては別の商品の方が価値があったという場合はあるし、複数回ガチャをするならば、同じものが手に入る状況は最大レアリティであっても「外れ」と称することはある。

レアリティや性能とは全く別の価値観(絵柄が好き、商品のモチーフとなった人物が好きなど)によって、当たり外れを語ることもあるだろう。

つまり、提供者側からの価値付けは相対評価によるものだが、ガチャする側からの価値付けは個人の絶対評価が反映されることもあると言える。

そして、評価付けのタイミングである。ガチャの性質上、評価は商品を獲得したタイミングと同時に行われて、当たりか外れの判定がされるはずである。しかし、時間経過による商品ラインナップの変化やゲーム環境の変化で、その当時は「当たり」だったものが、「外れ」になることはある。この逆もしかりだ。

この時間経過による価値観の変化のタイミングはいつ起こるかわからない。そして、そのタイミングを迎えたときに、ガチャをした当時に意識を飛ばして「外れ」を引いた、あるいは「当たり」を引いたと思い返し、価値観変化のタイミングまでのことを否定するのだろうか。そういう人もいるかもしれない。

・ガチャの商品の価値は提供者側だけが決めるのではなく購入側の価値観によっても変化する
・提供者側からの価値付けは、確率を変化させる場合においては、それを明示しなくてはいけないことから相対評価を行っているが、購入側は絶対評価を用いることがある
・時間経過などにより商品の価値は変わる。この時の基準は購入側の絶対評価による

定義に加え、この3点についてもおさえておいてもらいたい。

次に、リセマラ(リセットマラソン)という言葉を紹介しておこう。

これもやはりスマホゲームに多く見受けられる現象を表現したものだ。ゲーム開始時にガチャを無償提供することがある。そこで「当たり」がでなかった場合、ゲームをリセットして最初からやり直し再度無償ガチャをして、目的の「当たり」が出るまでリセットを繰り返すという行為のことを指す。

ガチャを何度も行う財力を持つ者であれば、このようなことはしない。しかし、持たざる者は、これを何度も繰り返して少しでも良い「スタートライン」に立ってからゲームを始めたい、という思いがあるのだろう。

それは、人生はリセマラできないがゲームならリセマラできる。人生は持たざる者として生きているが、ゲームでは持つ者としてスタートできるということを感じているからだろう。

リセマラ自体は本人の価値観による合理的な判断とも言えるため、それ自体は問題のある事ではない。ただ、親ガチャが外れたと感じている人に対して、親ガチャとリセマラを掛けて「親ガチャ失敗したならリセマラしろよ」といった、心ない言葉が発生している。こういったことも親ガチャという言葉への嫌悪感の要因になっていると感じる。


自分がどの立場にいるか

ガチャの定義とおさえてもらいたいポイントは解説した。次に、この「親ガチャ」という言葉を今のアナタがどういった判断を下すかを、下記に示す派閥のどれに属するかで考えてみてほしい。

親ガチャは無いよ派
・原理主義派「そもそも子供はガチャをひけない」
・仮説検討派「仮にガチャが外れたとして、その子が他の親元を羨んで、望み通りその親の子になったとしたら、その親元を羨んだ主体は消失するわけで、これは仮説自体が成り立たない」
親ガチャはあるよ派
・自己責任派「親ガチャはあるよ。でも大事なのは自分のその後の努力や行動だよ。現に僕は成功してる」
・親ガチャ外れ派「親ガチャ外れたせいで貧乏でしんどいよ。全部親のせいだよ」
・そんなもんじゃないよ派「私は5歳でこの世の地獄を知った。だが私は幸運だ。今のところ毎日生死ガチャでSSRの『生』を引き当て続けているからだ」

親ガチャに対していろんな意見を見てきた結果、意見を述べる人もその意見の対象となるものにも、立場を明確にしないままで話を進めている事があるため、議論が食い違っていたり反論が起きているように感じる。そのため、私が見聞きした意見と立場をこのように分類した。

「親ガチャは無いよ派」は親ガチャの言葉の意味について語っていて、「あるよ派」は親ガチャの持つ概念を語っている。そして、無いよ派の自己責任派と他の2派との違いは、自己責任派は親ガチャを引いたタイミングでの結果についての価値判定で、そこからの人生は自己責任という考えに基づく。他方は、生まれたタイミングから成長していく今現在においてまでその影響力が作用しているという考えに基づいている。

そのため、自己責任派は親ガチャはあるとしつつも、親ガチャという言葉を自分から使うことは無いだろう。本人の実力でどうにかなると語る者がこの言葉を使うのは、マウントを取りたい時くらいのものだ。

よって、「親ガチャ」という言葉を使うのは親ガチャはあるよ派の2派閥となる。そして、この2派閥の違いは、親の外れ具合の差と認識してもらいたい。何をもってして外れとするかは個人の主観が大きいため語れないが、命の危険を感じるかどうかという線引が多いようだ。

親ガチャは無いよ派の方も、この2派閥の人に寄り添うような気持ちで読み進めてもらいたい。私は、どの派閥の人にも、「親ガチャ」という言葉を見つめ直してほしいのだ。


誰が提供するガチャを誰が購入して商品は何かという観点

「親ガチャ」を考える際に必要な言葉の確認と、どういった立場があるかの確認を行った。いよいよ「親ガチャ」やその他の「○○ガチャ」について、考えていこう。この項では「親ガチャ」が在るか無いかではなく、「親ガチャ」は「ガチャ」かという点を考える。


さて、親ガチャはガチャという商品提供システムになぞらえる以上、誰が誰に何を提供するのかという観点は重要となる。

スマホゲームで考えるならば

ゲームのガチャ
提供側:ゲーム運営側
購入側:プレイヤー(あなた)
商品 :ゲーム内アイテムなど

という具合になる。

この考え方を、私が耳にした「○○ガチャ」に適用すると下記のような分類になる。

A.友ガチャ・転職ガチャ
・結婚ガチャ・引っ越しガチャ
提供側:社会やそれに付随した人など
購入側:あなた
商品 :それぞれの○○にあたる部分

これらは、購入する/しないの選択ができる。また、結果に納得しなければ再度引き直すことが可能なものである。

B.(義務教育内の)教師ガチャ・上司ガチャ・姻族(配偶者以外の親戚などの意味の)ガチャ
提供側:社会やそれに付随した人など
購入側:あなた(強制)
商品 :それぞれの○○にあたる部分

構成要素はA分類と同じだが、この違いは、直接このガチャをしたのではなく、A分類のガチャの結果や、社会生活を営む上で強制的にガチャをさせられている状況にあるものだ。購入する/しないの選択の余地はないが、結果に不満があれば障害は多くとも引き直しやリセットは可能なものである。

C.国ガチャ・親ガチャ
提供側:「    」
購入側:生まれてくる個体(まだ生まれていない子)
商品 :国、親

出生にまつわることのうち、購入側が”まだ生まれていない子”となるもの。提供側は、無しまたは表現できない。

D.子ガチャ
提供側:「    」
購入側:親
商品 :まだ生まれていない子、
    あるいは生まれた子

C分類と同様に、提供側は表現できない。だが、購入側は存在する親であり、商品は子であることが確定的だ。まだ生まれていないか、既に生まれたかについては敢えて記載している。


【定義とこの分類を照合する】

ここまで読み進めていると、ある点に気づく方もいるだろう。

それは、先にあげた「○○ガチャ」の中にガチャの定義に沿っていない。つまり、ガチャではないものがあるということだ。

・購入する/しないの選択ができる
・何が手に入るかの商品範囲が明示されている
・各商品の獲得確率が明示されている
・実際に手に入るまでは何がでるか不明

先に挙げた定義より一部を再掲した。

まずB分類は購入する/しないの選択の余地がない時点でガチャではない。その前提となるA分類に関しては、条件によってはガチャと言ってよいケースもあるかもしれないが、基本的にガチャとはいえない。

このように、○○ガチャはほとんどがガチャとはいえない。にも関わらず、これらをガチャと表現するのは、ひとえに運の要素が色濃くあるからだろう。

つまり、運の要素が強いものをなんでもかんでもガチャと呼ぶのだろうか。この点については後で言及する。


出生にまつわる事は絶対にガチャとは呼べない

では、いよいよ親ガチャの存在について考えていこう。

結論から言うと、他の○○ガチャ同様、親ガチャはガチャではないし、親ガチャは存在しない。以下、ガチャの定義にあてはめる。

・存在していない”子”がガチャなどできない
仮にできたとしても
・手に入る商品(親)の範囲が定まっていない
・提供側が存在しないので相対的な価値基準がない
・生まれてきた個体(子)が、その商品(親)の価値を、その場ですぐに引き当てなかったもの(別の親)とで比較できない。生まれた子にはまだ評価軸すらないので絶対評価もできない

つまり、そもそもガチャでないし、仮にガチャだとしても、生まれでてきたその時点で「当たり」「外れ」の価値判定が子にはできない。

よって、「親ガチャ」という言葉を発したり、当たり外れを語るには、ガチャをした後からの時間経過や環境の変化による価値の変化が発生した場合、つまり生まれてから後の生育環境や能力などのあらゆる要素を他者と比較した時に、自分が自分のことをどう評価するかというところに決定的な要素があり、「親ガチャ」という言葉の本質を語るには、その言葉を発した人の内面について理解を示すしかない。その内面には必ず終わりのない相対評価による呪縛があるはずだ。

この概念こそが「親ガチャ」の正体だ。


ガチャと表現したいその気持ちを考える

親ガチャはガチャではないし、存在もしない。しかし、この言葉は既にそこにあるのだ。理屈ではガチャと呼べないものを、何故このように表現し、そしてそれが話題にあがるかを考えなくてはならない。ここからは、この言葉が生まれた背景とその行く先を考える。

親ガチャは無いよ派の方も、あるよ派に鞍替えした気持ちで読み進めてほしい。

前項で示したとおり、親ガチャ(とその当たり外れ)を語るかどうかは、子が育っていく段階での環境や、他者と比較した時の子自身の価値観に左右される。

子は親からしか生まれない。そこには出生という特異なものがある。これをガチャと呼ぶのであれば、その類似点を考えなくてはいけない。
(望まない出生については考慮外とする)

・運の要素。選ぶことはできないということ。
・全て望む結果にはならないという諦念をかも
・射幸心(出生に関しては、子を持つことにより幸福になりたいという思いとする)
・価値が変化する可能性がある

確かに似たような要素はある。

例えば、「生んでくれなんて頼んでねーよ」というセリフは、「親の身勝手な欲望によって、こんな酷い環境の場所に、運悪く、望んでもいないのに生まれさせられた」と、言っているようなもので、親ガチャに外れたという表現は、辛いことがあった時などに親に文句を言いたくなる気持ちとしては理解できる。

子は生まれたその時に親の価値判定をすることはできない。だが、成長するにつれ価値基準が形成されていき、その過程で他者との比較を行い、自分が「持たざる側」にいることを認識する。これは自己を客観的に評価するという点では重要な行為であり、ここは否定すべきではない。そして、そのことについて何かに責任を求める発想に至るのは、評価軸が未成熟な子供において無理はないと考える。

ここで、自分の力で頑張ろうと思えて行動出来た人が、親ガチャあるよ派の自己責任派となる。

そうならなかった人たちが、「親ガチャ」という言葉を使う権利を手にする。


コミュニケーションをとるための「親ガチャ」 親ガチャでないとダメな理由

A「あーマジ、親ガチャはずれだわ。頭悪いの遺伝して、今日もこれから塾いかないと」
B「俺もはずれ。金がないからって、いまだに親が髪切ってるのってクラスで俺くらいじゃね」
C「僕もはずれだよ」
A「いやいや、お前ん家はいいじゃん。親は偉い人で賢いし」
B「金持ちだし」
C「……それはそうかもしれないけど(意味深に骨折した左腕を触りながら)」

親ガチャという言葉は、こういった若者同士のコミュニケーションから発生したと考えている。この会話の3人はそれぞれが親ガチャに外れたと捉えているが、アナタはどう思うだろうか。

この言葉は、前提や価値観の差によりその意味する範囲が千差万別である。あらゆることについて、自分が「持つ側」にあるのか「持たざる側」にあるのかを判定して、「持たざる側」になったことについて、具体的なその内容と一緒に外れたと表現したり(A君、B君)、具体的な内容は伴わず、ただ外れたと言ったりもする(C君)。

この判定は多くの場合、独立したものとして扱われる。総合的に親ガチャが当たった外れたはあまり語られない。これは、語ってはいけない暗黙の了解があるからと推測する。総合的に判定してしまうと、一方が完全に価値が無いということになってしまうが、この言葉を軽い気持ちで使う者たちはそこまでは求めていないのである。

よく例にあがる親ガチャの比較対象となる要素に、遺伝(知力・体質など)・経済(金銭面)・環境(ここでは親からの愛情とする)がある。この要素を先の3人に当てはめて考えてみよう。あくまで、3人の中の相対評価だ。

A君は、賢くないが塾に行く余裕はあり、通わしてもらえる環境がある
遺伝(知力) 劣
経済     並
環境     並
B君は、お金はないが、髪を切ってもらえる点から親子関係は良好そうだ
遺伝(知力) 不明
経済     劣
環境     優
C君は、賢く家庭も裕福だが、どうやら家庭内暴力があるようだ
遺伝(知力) 優
経済     優
環境     劣

B君からしたら、塾に通える経済力のあるA君は羨ましいし、A君からしたらC君の賢さは羨ましい。C君からしたら、暴力がない家庭のA君B君ともに羨ましい。

どんなに相対評価でたくさんの要素を判定しても、それぞれが重要視する要素に絞って親ガチャの当たり外れを語る。

しかし、これでいいのだ。この言葉を使うことで、「同じ環境・同じ視点を持っていなくても伝わる悲愴感や諦念、そしてそれらを運の要素として押しやることによる、僅かながらも前向きに進もうという気持ちのアンバランスさを絶妙に表現」しているのだ。

何かの責任を全て自分に負わすことは、とてもエネルギーを消耗する。運や親のせいにすることで、少しでもその負荷を軽減しているのだ。そういったことを表現してくれるのがガチャという言葉だ。


また、仮にこの3人が総合的に判定しようとして、事細かに自分の置かれている状況を説明し、

「……だから私は親ガチャにはずれたという結論に至った。そして総合的に判断し、この中で最も外れ度合いが大きいのも、この私である」

などと説明をしても、きっと共感は得られないし、そこまで具体的にしたくないだろう。だからC君は具体的な内容は言わず、「はずれ」とだけ発言するし、他の子は具体的な事を、聞かないし聞けないし聞きたくないのである。

つまり、この言葉が発生した背景は、

若者の年相応のセンシティブな自己認識を深めていく過程で、ドメスティックな要素を出しすぎずに他者との共感をしていくにあたり、ガチャというシステムの理解、すなわち冒頭で確認したほどハッキリとはいかないまでも「ガチャの定義の理解」(「運の要素」「価値の変質可能性」「他者との比較による相対的な幸福度」など)や、それらの「漠然とした周知性」といったものが、彼らが表現したい内容に都合がよいためだと私は考える。
(この「漠然とした周知性」とは、細かく解説しなくてもガチャのことは大体分かっているよね。というものだ。親ガチャを取り扱う記事においてでさえも、ガチャの定義に踏み込んでいない物が多く、この点からもこの傾向はうかがえる。)

そのため、単純な運の要素だけではこの概念は語れない。ゆえに、「親くじ引き」でも「親ルーレット」でもなく、「親ガチャ」なのだ。

【結論として】
「親ガチャ」というのは、要はただの若者言葉で、大人がそこに深い意味を与えるべきではないというのが私の結論だ。昔からある、「ダメ親クズ親」「うちの親なんて……」などの表現と同じとしてよい。もちろん、子供同士の場においてのみ使用するべきなのは、言うまでもない。

そして、「親ガチャ」という表現の絶妙さが損なわれるまでこの言葉は残り続けるだろう。しかし、無くなったとしてもそれは別の言葉に置き換わるだけだと考える。親への反発、あるいはただの不幸自慢的なものを表現した内輪ネタ的な言葉は、その外側はかわっても中身は普遍的なものだ。

今起きている「親ガチャ」論争は、内輪ネタ的なそれが、大人や社会全体に表出したに過ぎない。これはSNSネイティブ世代が、隣にいる友人に話しかけるのと同じ感覚で、誰の目にも入りデータとして残り続けてしまうネット上にも記してしまったからだろう。

5000年前のエジプトの壁画にも、枕草子の一節にも、近所のおじいさんの口からも漏れ聞こえる「最近の若者は……」という言葉と、その本質は同じなのだ。

だから、この言葉に必要以上にすがったり神聖視したり、あるいは邪険にあつかったり。そんなことをする必要はないのだ。

A君たちの会話を思い出してもらいたい。彼らはこの言葉で直接他人を傷つけたりはしていない。大人たちがこの言葉の意味するところを良く考えもせず、自分から顔を突っ込んできて勝手に不快になって、けしからんだの、努力しろだの、現実から逃げるなだのと言うのは、見当違いな事であると私は感じた。


親ガチャという言葉をまとめると

・親ガチャはガチャではない
・親ガチャという行為は存在しない
・親ガチャという言葉は存在する
・普遍的な不満などを表現した言葉である
・この言葉から想起される概念は存在する
その概念により前向きになれる要素があることで
・必ずしも逃げの言葉ではない
他の言葉では言い表せない要素があることで
・コミュニケーションを円滑にする作用がある
・大人が過度に反応する必要のない言葉である

これらを記事中に述べた言葉をつなぎ合わせて再度述べると、

親ガチャ(の当たり外れ)は、生まれてから後の生育環境や能力などのあらゆる要素を他者と比較した時に、自分が自分のことをどう評価するかということを、同じ環境・同じ視点を持っていなくても伝わる悲愴感や諦念、そしてそれらを運の要素として押しやることによる、僅かながらも前向きに進もうという気持ちのアンバランスさを絶妙に表現しつつ、自己認識を深めるために他者と共感をしていくにあたって、ガチャというシステムとその言葉から想起される概念が、コミュニケーションをとる上で適していたから広く使われるようになった言葉で、その本質は昔からある、親や(本記事では言及していないが)社会に対して不満を述べた内輪ネタ的なものだ。

以上のことから、私は「親ガチャ」という言葉の存在とこれを使用することを肯定する。価値があるものと判断する。

* * *

この言葉が発生した背景と、使用したい気持ちを自分なりに理解することができた。これでようやく、「親ガチャ」という言葉を聞いても不快感を覚えずに済むようになった気がする。


しかし、本当にその認識で考察を終えてよいだろうか。いや、ここまでは一般論を述べただけで、親に直接この言葉が向けられるシーンは想定していない。次項では、「子ガチャ」という言葉も含めて、親としての感情論も交えながら整理したいと思う。


親子の関係性における 親ガチャ・子ガチャ

「親ガチャ」という言葉を肯定はしたものの、積極的に使うかはまた別問題である。また、使われる側としても、しっかりと考えておきたい。

「親ガチャ」。これはあたかも、生まれていない自分(子)が存在して、ガチャの結果悪い親のところに来てしまったという想定だ。ガチャをしたことを失敗と認識しているのではない。つまり、産まれてきたことを後悔するほどではない。他者と比較したときに今の自分が恵まれていないと感じてからの「親ガチャはずれ」という言葉だ。「産まれてこなければよかった」とはまた違うのだ。

これは、親にとっては生まれてこなければよかったという言葉よりも、ある意味残酷だ。

まともな親がこれを言われている想定であるが、「生まれてこなければよかった」は、生きていること自体を放棄したくなる心境で、不慮の事故や凄惨な被害にあったなど、言われた親もその心境を理解することは出来るのではないかと推測する。責任が親にない場合もある。

しかし、「親ガチャはずれ」は、生きていくことは生きていくが、それに伴う生きづらさ、他者と比較し劣る点などの諸々もろもろを親に責任転嫁しているような気がする。親であるお前らが全て悪いと言われている気がする。

これは、ある意味で正しい。親の経済力などが原因で機会すら与えれなければどうにもならないことは確かにある。しかし、それは出来ない要因の一つであっても、出来ない理由にはならない。そういった点を親ガチャ外れといって、全てを親の責任にできることでもない。

「生まれてこなければよかった」と
「生きたいのに、お前のせいで生きづらい」では、後者の言葉のほうが私は辛い。急に言われたら、かける言葉を失うだろう。頭では、「いやいや、それはおかしい」と思っても、心が追いつかないような気がする。そして、「なんてこと言うんだ! まったく、子ガチャはずれだよ!」なんて返してしまったら……

ということで、「子ガチャ」について考えてみよう。

先述した定義に沿って考えれば、子ガチャもやはりガチャとはいえない。しかし、親ガチャとの違いは、出生時に価値判定をするのは親だということだ。そして、これは相対評価は無理でも絶対評価はできる。

では、子ガチャの当たり外れはどう判断するか。

生まれたその時の、我が子に対する絶対評価は特殊な場合を除き、多くの人が高評価をつけると考える。「生まれてきてくれてありがとう」の気持ちだ。その観点だけで言えば、子ガチャは当たりしかないと言ってもいい。

しかし、現実はそうではない。子ガチャも親ガチャと同様に、時間経過とともにその価値基準が変わっていき、「外れ」と評価するタイミングが訪れる可能性がある。

そのタイミングで再度ガチャの結果を価値判定した時に、生まれたその時まで遡って「外れ」と評するのは、今までの人生を全否定しているようなものだ。これは、親ガチャ・子ガチャ双方にいえる。が、否定されているのは、どちらも子の人生だ。

親が子ガチャに外れたというのは、「親が望むような価値のある存在になっていないのは、全て子の責任だ」と、言っているようなものだ。親の価値基準において、今現在の子の価値が無いと断言している。

子が親ガチャに外れたというのは、「自分が価値のある存在になっていないのは、全て親の責任だ」ということだ。つまり、子自身の価値基準において、今現在の自分自身に価値がないと言っている。

自分の価値観は変えられるが、他者のそれはそう簡単なものではない。まして、自分を深く知っているはずの親に価値が無いと言われることは、きっと耐え難いことだろう。

論理として、親ガチャよりも子ガチャの方が(購入側にあたる親は存在しているという点で)筋は通っているような気がするのはわかる。売り言葉に買い言葉で、言ってしまいたい気持ちもわかる。しかし、その裏にあるものをうかがえば、子の言う「親ガチャ」は自虐的な要素や未成熟という観点で許容できる余地があるが、「子ガチャ」だけは親が絶対にいってはならない言葉だと思う。


もし、子に「親ガチャはずれた」と言われたら

子供の言葉に耳をかたむけ、その言葉の裏にあるものを感じ取ってほしい。子供同士の内輪ネタから飛び出したこの言葉は、自分の価値がどんなものか迷い苦しんでいる子供から親へのヘルプサインなのだ。

何のことについて、どういったものと比較し、子が何を思ったのか、そのことについてどう向き合っているのか、あるいは向き合っていないのか、どう対処していけばいいのか、といったことを、親と子という関連性ではなく、人と人として語り合ってほしいと思う。

大事な事なのでもう一度言うと、親ガチャが外れたというのは、「自分が価値のある存在になっていないのは、全て親の責任だ」と言っている。つまり、子自身の価値基準においての自己評価が低いのを、親に責任を押し付け自分のせいではないとして、自尊心を保ちたいがための言葉だ。だが、この言葉を使うことは責任の所在に関わらず自分に価値が無いという観念を必然的にもたらす。ここが見落としてはいけないポイントだ。

つまり、
「ごめんな、こんな親で……」
なんて、無意味な懺悔も、
「何でもかんでも親のせいにするな」
なんて、突き放しも、
「俺の子なんだから、しょうがないだろ」
なんて、開き直りも必要ない。
子はそんな言葉を求めているわけではなく、自分の価値を知りたいのだ。

だからこそ、出生・遺伝・環境という親子である以上切り離せない要素を意図的に排除して、一人の人間同士として語らうことでお互いを認め合い、お互いの価値を確認し合う必要がある。

親ガチャという言葉がどうのとか、子供なんだから、親なんだからとか、そういったものを考えている場合ではない。子供の内面としっかり向き合い会話をし、相対評価の呪縛から開放してあげなければならい。それができれば、もう2度と親ガチャなんて言葉は親に対しては言わないだろう。

そして、これを果たすことこそが、「親ガチャ」という言葉にまつわる、唯一の親の責任であると私は考える。


ガチャでもないカードゲームでもない

「ガチャでもなんでも構わない、人生は配られたカードで戦え!」という意見も散見される。しかし、これはきっと「持つ者」の視点が色濃い。

カードの性能は決まっているし共通のルールという枠組みを越えることはないので、それは一見平等に感じる。しかしそれ自体が既にルールに守られている、という感覚もこの意見を言う人にはわからない。

「持たざる者」の意識が強くある者は、そういうレベルではないのだ。戦うカードすら配られていなかったり、戦う権利がない状態だったり、自分という存在すらないと捉えている人もいる。

ガチャもそうだ。定義のところで触れたが、ガチャの商品は、その入手確率は誰にでも平等だ。このことが余計に、手に入れられなかった現実を浮き彫りにする。それどころか、自分は呪いのアイテムをひいてしまったように感じられる。なぜ、自分だけ、と。

この意識の断絶は、どんな言葉を並べても解消できるものではないだろう。実際に経験しなくては想像すらつかないし、経験しても完全には分かりあえないことなのだ。

若者同士のコミュニケーション以外で、親ガチャという言葉を使う人、「親ガチャはあるよ、どうしようもないほどに……」と思うのは、こういう人たちなのだと思う。

最後に、所詮しょせん「持つ側」の戯言たわごとにしか聞こえないかもしれないが、そういう人たちに向けた私からのメッセージを添えて、この記事を終えることとする。


“生きていくということは、人生ゲームでダイスを振るようなものだ。何度もダイスをふって、そのたびに人生ゲームのマスを進んでいく。それは決して誰かと同じではないアナタ専用の人生ゲームで、ゴールもマスごとのイベントも人によって違う。当然、スタートラインだって違っただろう。

他の人が見えてしまうから、比較してしまうから、単純にその点を羨む気持ちはわかる。だが、そこには何の意味もない。

アナタに用意されたマスや、その中のあらゆるイベントにどんな意味を持たすかはアナタ次第で、別の人生を進む誰かではない。

足を止めて未来に背を向けて、他人と比較したり選べなかった他の可能性を考えたり、まして生まれたその時まで意識を飛ばして、今までの自分を否定したりすることはない。

相対評価の呪縛の中で、アナタは自分に足りないものを目の当たりにしただろう。実は同時に、自分に“あるもの“も無意識に認識しているはずだ。そうでなければ、そもそも他人と比較などできない。
無意識下の自己評価。
アナタをアナタたらしめる絶対評価。

アナタを苦しめるものは、いつだってアナタの後ろにしかない。隣や自分の前にいると感じるのは、タチの悪い妄想で、そこに焦点を合わせてはいけない。

ここまで読み進めてくれたアナタは、既に1マス進んだようなものだ。僭越せんえつながら私がアナタの足元のマスに書かれているイベントを読み上げよう。

「アナタは自分を見つめ直した。自分の好きな方向へ、もう一度ダイスを振る」

さぁダイスを振ろう。1の目しか出なくたって構わない。一歩ずつアナタの人生を歩こう。

この「ゲーム」はリセットできないのだから“


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