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「嘘を嘘だと見抜けない人」と見抜くと嘘がつけない

 3日後に、世界中で巨大な地震が発生し地球は終焉を迎えます。

 はい、もちろん嘘です。今日は嘘について考えます。


 私は嘘つきな人間です。もう変更してしまいましたが、以前のプロフ欄に「嘘はないように」と敢えて記載して自分を戒めないといけないくらいには嘘つきなのです。

 私は嘘というものを悪だと捉えていません。そして、私は誠実な人間であろうとしています。実は、誠実であることと嘘つきであることは互いに干渉せず成立します。両立できます。
 ただ、誠実であろうとする限りは嘘を悪とは呼べないと考えています。そのため誠実さを損なう嘘はつきません。
 また、私は嘘を悪とは見倣さないのです。同時に、世の中の人全てにこのように考えてほしいとも思っているので、この世に生まれる嘘のその全てを、悪とは見倣したくありません。

 こう言うと、悪だと断じれる嘘も観念できる。と、反論が出るでしょう。分かっています。だから、悪と見倣したくありません・・・・・なのです。
 しかし、悪と断じるには基準が必要となります。倫理や道徳といったものさしが必要です。

 嘘を悪とするその根拠やものさしとして悪意の存在を挙げる事が多いと思います。その場合、確かに悪意のある嘘は悪になるでしょう。しかし、悪意があれば嘘を含めたあらゆる言動は悪となり得ます。そうすると、嘘そのものは悪だとは言い切れません。少なくとも悪意の無い嘘は悪とは言えません。

 ただ、嘘をつかれたという事実に嫌悪感を示し、こう感じさせることが即ち悪だとする言説も理解できます。これは否定できません。
 なので私は、嘘をついたことを分かってもらいたいのです。嘘をつかれたと理解した人は、その嘘にどういった意味があるのかを考えます。そうすることで、その嘘がどういった意識のもと、何を目的として発せられたかを想像します。その過程を経ることで嘘の悪性は取り除かれ得るのです。そして後に残るのは誠実さです。

 「何故この人(私)は嘘をついたのだろう」と、思いを巡らせられる人にしか私は嘘はつきません。そうでなければ、私の嘘は”悪意の無い悪意”となってしまい、なにかの拍子に嘘であることがばれた時には、その人を傷つけてしまうからです。それは、私の誠実さが許しません。

 私は、嘘を嘘であると見抜ける人と嘘をつきあいたいのです。
 本当のことを言い合う方が簡単かもしれません。ただ、相手が本当のことを言っているのだと思うのは、自分自身です。そう思いたい自分自身です。ともすれば、それは相手の言葉を鵜呑みにする盲信のようなものです。それはそれで美しいものだと思いますが、私はそれよりも確からしさを求めます。

 確からしさとは、そうであることを否定する材料が無くなった状態のことです。
 私は嘘をつきます。相手も嘘をつきます。互いに発する言葉の全てが嘘とは限りません。言葉一つ一つが嘘である可能性を考慮し、その裏にある意図を汲み取り、必要であれば嘘の言葉を重ねます。互いに重ね合います。

(このタイミングで相手が嘘をつくとは考えられない。いや、仮にこの言葉が真実だとしたら先程の言葉と整合性が取れないから、少なくともどちらかは嘘か、あるいは双方ひっくるめて嘘かもしれない。しかし、どちらの場合においても最終的に導かれる結論の方向性は同じであることは確からしい……ならばまだ判断は保留しよう。)
 例えば会話の途中、このように考えているうちは、そこに自分自身は必要ありません。ただひたすら、相手のことを考え続けているのです。

 自分が、相手に嘘が無いと思いたいという不確かなものではなく、相手が本当のことを言っているのは確からしいと感じる方が、より深い繋がりになれると考えているのです。それを欲しているのです。

 上っ面の「本当」ではなく、嘘で重ねられた「真実」の心を見たいのです。見せたいのです。嘘を一つ一つ剥がしていきたいのです。剥がしてほしいのです。その結果、「真実」だと思ったものがたとえ嘘でも、その嘘はとても優しく温かくうつくしいものだと、私は思うのです。その温度を奪うでも与えるでもなく、分かち合える人を私は求めているのです。



 さて、私は冒頭の地震のくだり以外にも、この記事内でたったひとつ嘘をついています。しかし、私の誠実さがその嘘を悪にはしないのです。それに、ここまで読み進めて頂いた皆様は「嘘を嘘だと見抜ける人」でしょう。だから私は安心して嘘をつけるのです。


 お付き合い頂きありがとうございました。
 私の「真実」の心、いかがでしたでしょうか?










※フィクションです。


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