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鏡の世界 鏡像の認識

 腹ぺこさんのこちらの記事が大変興味深い内容で、読み進めるうちに会話劇が浮かんできました。また、内容に触発されて私なりの考察も書きました。

 どちらの記事から読んでも構わない構成ですが、本記事の『会話劇』の後に腹ぺこさんの記事を読んでもらうと画像付きで分かりやすいと思いますので、是非読んで下さい。
 そして、戻ってきて最後まで付き合って頂けると幸いです。

会話劇『アルファベットと鏡』

「すごいもんを見つけたぜ!」
「どうしたんだい、E君」
「鏡だよ鏡。すごいぜ、上下逆さまに映るんだ」
「それは違うよ。鏡は左右逆さまに映るんだよ。僕も見たことあるけど、その時僕の左側にあった『.』が僕の右側にあったからね」
「いやいや、Aよ。おれは確かに見たんだ。俺の上の部分が鏡の下に映ってんだよ!」
「よく分かんないけど、その理屈で言うと鏡に映る僕は『∀』にならないとおかしいだろ? でも僕が鏡の前にたっても『A』のままなんだよ。それに君の場合は『ヨ』と映っていたはずだよ」
「んんんん、いやまぁ確かに『ヨ』になっているという見方もできるかもしれんが、それは上下逆さまになってるんだから当然だろ?」
「いやだから、鏡は左右逆さまに映るものってこと。君が上下逆さまに映るって思い込んでるだけだよ」
「あんたたちバッカじゃないの? 鏡なんてね、本当のことは全く映さない。ただのまやかしよ」
「いきなりどうしたのFちゃん。そんなに腹を立てて」
「おーFちゃん! 鏡どうだった? 上下逆さまに映っただろ?」
「わけ分かんなかった。面白いから見てこいって言われたのに。腹たったから壁に掛けてあったの床に降ろして踏んづけて来てやったわ。あたし、帰る。じゃぁね」
「ほら、Fちゃんも君の意見には同意してないね」
「くっそ。おいA、一緒に鏡見に行こうぜ」


「お、あったあった。Fちゃんが床に置いたままになってるな。おいA、お前鏡の上乗ってみろよ」
「やれやれ、これでいいんだろ……」
「おおおい! 『∀』になってんじゃねーか!」
「おかしい、どうして……」
「変われ、変われ。ほれほれ、俺も『E』のままだろ。つまり上下逆さまになってるってことだ!」
「おかしい! 何かがおかしい!」


 A君とE君が立ち去るまで、ボクは傍からこの様子を眺めていた。
 E君が大はしゃぎし、Fちゃんが激怒し、A君が頭を抱えていた鏡という代物。
 一体何がおもしろいのか。

 床に置き去りにされた鏡に乗ってみるも、ボクの姿は上下逆さまにならない。壁に掛けて眺めても左右逆さまにもならない。色んな角度にして見ても、鏡に映る自分はなんの変容もなく、いつもと変わらない自分がいて、まやかしなんかでもない。

 鏡はありのままを映すものとしか思えないO君なのでした。
 


幕間

 鏡問題。古くから親しまれてきたこの問題について、何故左右反転しているように見えるのか、という点について、腹ぺこさんは考察されていた。

 私自身は、鏡に映るものは左右反転しているように見えるが、実際は前後が反転している。と、このように理解して生きてきた。しかし、それも左右対称が当たり前の世界で生きていて、また鏡を見るという行為をもっぱら横方向に行い、上下方向(天井や床)には行わないことから、そのように感じることが自然であっただけのことだと理解した。

 腹ぺこさんの記事で人間が作ったアルファベットをもとに鏡の世界を意識することができた。
 また、これを発展させることで下記のような世界を想像し、私も考察してみた。
 上掲した会話劇のラストで触れた部分だ。


考察 

 人間が真球の形状の世界であったなら、鏡に映った像はどういう認識になるのだろう。
 真球は、どの角度どの方向から見ても同じ形をしている。左右対称であり上下対称である。あらゆる角度から見ても全ての方向に対称性を保つ。
 そんな真球が鏡を見たらどう映っていると判断するのだろうか。

 真球は単体では左右の確定ができない。もちろん上下の確定もできない。前後の確定もできない。
 何か――たとえば、鏡を見たA君のように、一緒に自分以外のものと映ったら、その相対的な位置関係から鏡に映ったものを認識できるかもしれない。しかし、それを左右反転しているとは思わない可能性がある。上下反転と捉える可能性もある。
 
 真球である2物体は鏡に映った自分らを見ても、絶対的な左右や上下の確定はできない。出来るのは相対的な位置関係による把握のみだ。

 自分を『O』として、『O』の右側に少し小さい『o』を並べて鏡を見るとしよう。
 実世界の『O』の右に『o』があり、鏡に映った像も『O』の右に『o』がある。
 これは、実世界からの視点で2物体を認識している。鏡に映った像をも実世界から認識していることになる。

 次に、鏡から実世界を見るという視点を意識する(自分が鏡の世界に入り込んだと意識する)と『O』の左に『o』があることになる。実世界とは左右が反転している(ように感じる)。
 左右反転していないという認識に至るには、鏡の世界に上下反転して『O』と『o』が入り込むのをイメージするとよい。(分度器のような半円をイメージし、頭を底辺に対し垂直にした状態で固定し、その外周に手の平をぴったりくっつけたまま0度から180度側に移動するイメージ。反対側に着いたときには頭が下側になっている)
 もう一度確認すると、真球に上下の判定はできない。上下反転をイメージしても、そうであるかは確定できないのだが、分度器の外周を辿る動き方をイメージすれば、『o』は実世界と同じく『O』の右にくることになる。そのため、鏡に映った像を見て上下反転するという認識を持つ可能性はある。会話劇のE君は鏡に映る『ヨ』をこのように認識したわけだ。

 この例では右に並べるとして説明したが、真球と真球同士であればその位置関係は、上でも下でも斜めでも構わない。鏡自体がどの向きにあっても同様だ。


 と、この説明であることを勘づく人もいるだろう。鏡に対して『O』と『o』が重なる場合だ。
 
 鏡を正面にして『O』の前に『o』がある場合を想像してみよう。

 Oo┃ 
   ↑鏡
鏡に映る像も表現すると
 Oo┃oO
↑現実  ↑鏡の像
このようになる。
 この時、Oが見る鏡には『◎』の状態で見える。内側の円が『o』で外側が『O』だ。
 この状態の時は、左右反転しているかも上下反転しているかも判定はできないが、この鏡の像になるには前後が反転していなくてはならず、これだけは確かだと言える。
 鏡というのは、前後反転をしているのだ。

 さて、前後反転についてもう少し説明しよう。
 鏡というものを取っ払って、『O』と『o』の分身の『O’』と『o’』を作って考える。分身は鏡の像と同様、本体と同じ動きをするものとする。この時『O』の前に『o』があるとして、本体と分身を並べるとこうなる。

 Oo  |  O’o’
     ↑便宜上の線で、鏡ではない

『O』がジャンプすれば、『O’』もジャンプする(上下が確定される)。
『O』が右に転がれば『O’』も『O』から見て右に転がる(左右が確定される)。
 ここまでは鏡の像と同じ動きをするが、『O』が線に近づこうと前進するとどうだろうか。
 
   Oo|    O’o’

このようになる。
 本体が前進すれば、分身も前進する。同じ動きをするならば距離は絶対に縮まらない。
 しかし、鏡なら像は近づいてくるのを我々は経験として知っている。
 ということで、|部分に鏡を差し込んでみよう。

   Oo┃oO  O’o’
  ↑実像 ↑鏡像  ↑分身

このようになる。
 当然、実世界の『O』からは鏡の裏にいる分身の『O’』は見えないが、この状態でジャンプしても右に転がっても、この全てが同じ方向に移動するが、前後移動だけは鏡像のみ反転しているのだ。

 つまり、鏡の像は左右も上下も変化させないが、鏡を境に前後が反転している。


 ここまでは鏡が前後反転している説明で、ここからが、人間が左右反転していると何故思うかの部分で、本記事の重要なところだ。

鏡との距離を大きくとって、鏡を見よう。

Oo      ┃      .. 

この図は、『O』の視点によるサイズ感だ。
拡大鏡などで無い限り、実際のサイズは同じなので

Oo      ┃      oO
このようになるはずである。
しかし、通常我々が物を目で認識する場合は、

Oo      ┃      ..
このように、近くにあるものは大きく、遠くにあるものは小さく見えるはずだ。これは視覚機能というものがそうなっているもので、どうしようもない。

 簡単に実験できる方法がある。
 顔の前で両手を開いて鏡を見てほしい。肉眼で見る手の大きさは左右同じだ。鏡に映る両手の大きさも同じだ。
 では、右手だけをゆっくり突き出していってほしい。すると現実世界の右手は左手よりも相対的に小さく見える。
 しかし、鏡に映る右手(左手に見える方)は、徐々に大きくなっていく。

 突き出した手は、実世界の視線では遠くに移動して行くので小さく見えるが、鏡に映る像の右手は近づいてくるので大きくなる。当然、元のサイズは同じだ。

 もっと単純に、鏡に顔を近づけることを考えても良い。前後が反転していなければ近づいた分、鏡像も遠のいてくれないとおかしいのだが、実世界と鏡像は同時に近づく。これをおかしいとは通常認識しない。
 これは、鏡をそういうものだと認識しているからだ。近づけば大きく見えるということを理解しているからだ。

 これらのことは遠近感によるためであり、遠近感とは奥行きを感じること。すなわち、前後を意識することに他ならない。

 つまり、近くのものが大きくみえるという視覚機能の根本的な性質があるため、鏡を見ると、鏡(本体あるいは鏡像どちらでも可)と自分との位置関係から奥行きが必ず発生し、無意識のうちに鏡に映る世界に前後反転が発生していると認識する。(鏡とはこういうものだと認識する。)

 そして、横方向に鏡があるのが普通なため、
・上下は確定しやすく(反転していると思わない)
・前後は反転で確定していること(鏡の映り方)を無意識の内に理解している……はずなのだが、この認識がない場合において、人間そのものや人間社会が左右対称なものが多いことから、
・左右のみが反転していると認識しやすい

 上下と前後が決まった場合、左右の向きは必ず決定される。鏡が前後反転しているという認識が欠如していると、鏡に映った像の前後を誤認して、左右が反転していると感じてしまうのだ。



 仮に真球でなく普通の人間であっても、この世界に鏡というものが上下方向にしか設置されていないもので、頭部を固定して真上と真下を見えないようになっている世界であれば、鏡というものは上下逆さまに映すものという認識になっていたかもしれない。
(もちろん、今我々が行っているように想像力の力で、慣れている反転とは違う方をイメージすることは可能ではある)
 しかし、前後反転だけはどういった状態であっても成立する。


 以上のことから、人間が鏡を見て左右反転して映ると感じるその理由は、

①.人間を含めたこの世界の多くのものが左右対称(左右交換可能)であり、左右が入れ替わっていても成立すると無意識に思っていること

②.加えて、横方向に鏡が設置してあることが通常なため、反転方向を意識するとき、上下ではなく左右反転になると認識する機会が多いこと

③.鏡と自分(観測者)において相対的な位置関係が必ず発生し、像の大きさによる遠近感により前後感覚が確定してしまうこと

④.①により、左右反転に対しては認識として受け容れる余地がある(判断は保留される)。
 ②により、上下反転しているという認識にはされにくい(上下は確定されている)。
 ③により、前後反転は無意識であっても必ず認識される(前後が確定される)が、誤認されやすい。
これらにより、「上下の確定と前後の誤認と左右対称(左右交換可能な性質)によって、左右反転しているという認識」が発生しやすいためだと考えられる。

 結局の所なぜ左右反転しているように感じるかというのは、物の認識の仕方による影響が大きいため個人によって理解しやすさは変わってくるし、正解というものを決められるものでもない。


 当たり前だと思っていたことに疑問を感じて、しっかり考えることは大事だなと思った。そして実に面白い。
(が、この記事の記述自体がそもそも間違っていないか、そして理解してもらえるかがちょっと気掛かりではある。)

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