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いざ行かん 己が背を押す 行軍歌

 残業続きのある日。自宅の最寄駅に帰り着いた時にちょうど一通のメールが届いた。


From:妻                 
To:私                 
件名:帰ってくるな            
2021年12月14日19時56分

  今寝たところ
  最高に機嫌悪いから絶対に起こすな
  一時間は帰ってこないで


 ちなみに機嫌が悪いのは3歳の娘のことだろう。ただ、いつもより就寝時間が早いことを考えると、妻も最高に機嫌が悪いことは確定的だ。
 指示には素直に従う。でないと二次被害が発生するのだ。即、了解とだけ返信を入れる。
 妻は、恐い。


 子供が中心になる生活には慣れきっている。こういうことはよくある。
 時に理不尽な、我儘な、横暴な指示が下ることにも慣れきっている。こういうこともよくある。 
 しかし、このケースに限っては私の束の間の自由行動にもなる。帰らずにいることが正解だと告げられているわけで、何をしても咎められる事はない。

 大抵は本屋や喫茶店へ移動し、自由な時間を謳歌する。だが今日は歌いたくなったのだ、歌を。

 そもそも私は音楽が好きだ。聴くのも好きだし、詞の解釈をするのもの好きだし、脳内でミュージックビデオを創るのも好きだ。
 でも一番好きなのは、感情を込めまくって歌うこと。1人で


 コロナ以降、守るべきものがあるので誘惑に負けることはなかった。だが、師走の多忙で珍しくストレスを感じていたので少しばかり楽しみたい気持ちが芽生えたのだ。それにずっと歌ってみたかった曲がある。

「間違ってないよな……」
 なんて独り言ち、カラオケ屋のある繁華街方面へ足先を向けた。


 今の比較的落ち着いた感染状況から、忘年会を開いてよいかと部下から質問があったのをふと思い出した。
 当然のように否認の判をついた。落胆の溜め息を吐いた部下の顔が浮かんだが、カラオケ屋に着いた頃には消えていた。


 受付に向かうとそこは無人だった。タッチパネルで入店から精算まで完結できるシステムになっていた。

 流石だ。
 社会状況に適応した感染対策と銘打って、コスト削減と生き残りを図る企業努力。それを為せる技術の進歩に拍手を送りたいと思った。

 初めての利用の人は戸惑うかもしれないが、1人で入店するのが照れくさく感じる人や、諸々の事情で有人受付が都合の悪い人もいるだろうから、これはありだろう。
 ちなみに私はどちらにも該当しない。お一人様常連組である。

 しかし、手軽な料金かつ無人で個室が提供されるという状況は、治安維持という観点ではいささか不安に思う面がある。怪しげな取引に使われやすいのではないか心配になる。当然カラオケ会社も承知しているはずだから、監視カメラを充実させているかもしれない。
 人を信じて無人にし、人を信じきれずに監視する。これが、現代のスタンダードなのだろうか。いやしかし、過度な無人化は人の心をないがしろにしすぎではないか。この辺りで警鐘を鳴らすべきではないか。
 などと解けない思考の縺れを感じつつも、指定された部屋へ向かう足取りは確かだ。
 どうらや鳴ったのは私の胸だけらしい。
 それもそのはず、戸を開けた先に広がるのは自分だけの世界なのだから。


 私はあまり裕福でない家で育ち、兄弟もいたため個室を割り振られることはなかった。また、大学卒業後すぐに結婚し貧乏生活を送ったこともあり個室を体験することはなかった。
 現在も、購入したマンションに自分の部屋というものはない。

 そのため、自分の部屋、自分だけの世界というものに憧れがあった。ヒトカラ(1人でカラオケに行くこと)は時間制限付きとはいえ、自分だけの世界に浸れるのだ。


 私は自分の世界を堪能した。楽しい時間は瞬く間に過ぎた。私の世界が消える時間がきた。

 精算を済ませる。入店から退店まで店員とすれ違うことすら無かった。
 なるほど、これも自分の世界への没入感を高めるための計らいか。粋だ。


 店外に出ると冬の風が頬を撫でた。現実世界に戻ってきたことを実感する。
 ”出撃”の時間にはほんの少し早い。コンビニに立ち寄り、気を引き締めるためホットコーヒーを、それとスイーツも買った。

 マンションにつき、エントランスにある鏡で襟を正し、エレベーターに乗り込む。
 歴戦をくぐり抜け培った話術と真心を武器に、携えるは甘味品、口ずさむは『アンパンマンのマーチ』。
 戸を開けた先に広がるのは、時間制限なしの自分が選んだ者たちとの自分の世界。
 愛と勇気をとも、、に、いざ。


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