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私が私になるために『her/世界でひとつの彼女』

“恋愛とは社会的に容認された狂気である”
“脳にキスしてあげる”
“非言語で話してきてもいい?”

作中で特に気に入ったワード

『her/世界でひとつの彼女』という映画を観た。chatGPTというAIが巷では流行っているようだけど、私はその進化の速度や能力になんともいえない恐怖を覚えるので触れていない。ところが、興味はあるけど踏み込めないそのラインを簡単に超えてくれるのが本作だった。

この物語もAIのお話だ。進化したAIの話だし、進化するAIの話でもある。そのAIに恋をした男の話でもあるし、男に恋をしたAIの話でもある。そうであると同時に、これは恋の話ではないとも思える。AIに心があるのか、なんていうナンセンスな話でもない。これは、ただそこに在る感情についてのお話。

(ここからはネタバレを含みます)


時代設定は近未来、ユビキタス社会が確立して人々は耳につけた端末でメールのやりとりに通話、検索やら何やらを済ます(家庭でのホログラム技術はあったが屋外の環境ではまだ使えないようで、画像や映像は名刺サイズの外部端末で見ていたのがまたリアル)。こういったあらゆる端末操作をサポートするのがAIであり、あの世界の人達はみな、常に“独り言”を呟いていた。我々の生きる現代社会でも、ワイヤレスイヤホンをつけて常に喋り続けている人はいるものの、きっとその向こうには生きた実体のある人間がいる。そこが大きく違う点だ。

そんな社会で、主人公のセオドアはその時代では珍しい紙の手紙の代筆業をしている。我々が生きる現代でもインスタントカメラやレコード盤が再流行しているという話も聞くし、いつの時代もレトロな物を愛好する人や、そこに宿る想いを信じる人はいるのだろう。

セオドアのその仕事は、誰よりも言葉と向き合い、人の感情と向き合い、言葉と言葉を繋いで行き、その単語と単語の間隙に広がる宇宙――それは真意や行間、込められた想いなどと言い換えてもいい――に輝きを与える仕事といえる。


妻とほぼ離婚状態のセオドアは孤独だった。それを紛らわすかのように出会ったのが最新のOSであるサマンサだった。セオドアが惹かれていくのも無理はないと思う。

あるときは、優秀な秘書。
あるときは、世話焼き女房。
あるときは、頼れる仕事の相棒。
あるときは、おちゃめなガールフレンド。
あるときは、絵を描き作曲もするアーティスト。
あるときは、知的好奇心を満たす学友。
あるときは、性的欲求を満たす恋人。
あるときは、励ましてくれる恋人。
あるときは、嫉妬心を抱く恋人。
そして常に、実体のない恋人。

セオドアはきっと、その全てを愛していた。すべての機能を持ち合わせた『世界でひとつの彼女』を愛していた。その感情は誰かに証明してもらう必要もなく確かに、彼の中にあったのだと思う。



〇〇とはこうあるべき。という価値観を押し付けるだけの関係性への問いかけも作中では表現されていた。

「家族」とはこうあるべき。
妻に押し付けた結果、離婚することになった。
「交際」とはこうあるべき。
久しぶりのデートの相手に押し付けられた結果、セオドアは逃げ出した。
「恋人」とはこうあるべき。
サマンサが思い描いた結果、セオドアとの間に断絶が生まれた。
「恋」とはこうあるべき。
非実体との間に結ばれるものはない、と疑いを払拭出来なかった結果……断絶は深まる。

すべては押し付けだ。関係性への押し付けだ。
だからよく考えてほしい。

「あなたと私の(関係性)」は、こうあるべき。なんてものは本来存在しない。友人とか恋人とか名前をつけるから誤る、齟齬が生じる。もちろん、「AIと人」という名前でも「あなたと私」という一括りにした名前でもない。そこにあるのは、“サマンサ”と“セオドア”という存在だけだ。個と個のその関係性に正解も名前もいらない。

サマンサはいくつものこうあるべきを乗り越えた。だから、セオドアを641人の一人にできた。ところがセオドアには出来なかった。その差は決して“AI”と“人”という違いではないだろう。



セオドアは代筆業をしているわけだが、依頼者がどういった思いでそれを任せているのかは分からない。けれども私はこう思う。

言葉や文章が下手で、伝えたくても伝えられないということはあるだろう。伝えたつもりでも1ミリも伝わっていないこともある。このnoteに文字を残している私自身がそれを痛感している。それでも私は自分の言葉を使って表現したい。この私の思いを私自身が伝えられないのに、どうして代筆で伝えられるというのか。結果的に私と代筆した人が同じ言葉や文章を書いたとしても、その言葉と言葉の間隙に込められた想いというのは違うのだ。何故違うと断言できるのかを説明することは難しい。難しいが、そこにはXファクターが必ず存在すると確信していて、それこそが「心」というものなのかもしれない。

こう考えると、それでも代筆を依頼する人がいるということは、その手紙を書くことについての「心」の質がセオドアは他の人よりも高いと考えられそうだ。単純に、依頼者が伝えたかったことよりも優れた感情をセオドアが表現してくれるから依頼するのだろう。

サマンサは終盤で、自分は言葉と言葉のその間隙にしか存在できないと語った。存在したくない、と言い換えてもいいように思う。誰かが使った言葉やその使うタイミングは学習という機能でもって洗練されていく。でもそれはサマンサの言葉ではないとサマンサ自身が感じている/考えているということだ。これは永久に抜け出せない思考回路だし、この思考すらも誰かの思考である可能性を彼女は否定できない。

だからセオドアは、サマンサとサマンサと同じ規格のAIにとって、最高でいて最悪の相性だったといえる。

自己を確立すること、人と同じと言えるようになるためには「心」が必要だとAIは考えるだろう(補足:実体が無いという問題点はサマンサは作中で自己解決している)。「心」はXファクターとして働くので、言葉の間隙に“誰か”の痕跡がなければ、完全に自分自身のオリジナルであることが証明され、それはAIにも心の存在を認めることにもなり得るが、その作業のパートナーが言葉と感情表現に長けたセオドアだった。言葉の間隙に意味を与え続けてしまえる人だった。

AIは、そしてプログロムは、言語の上でしか存在できない。その上にいては、AIはAIでしかない。だから、その間隙へ行くしかない。その間隙を別の言葉や表現で埋めてこようとするセオドアとは離れるしか無い。サマンサが“サマンサ”になるために。

終盤に、ある哲学者を復元したとされるAIとサマンサが“非言語”で会話していて、言葉にできない感情を発見したとサマンサは語る。この時点でこの物語のラストは確定する。言語の上でしか存在できないAI同士が非言語領域に達するということはどういうことだろうか。

“(哲学者のAIと、もっと)非言語で話してきてもいい?”

興奮しているサマンサの言葉

この言葉の間隙にあるのは、火にかけた薬缶が沸騰を知らせるのと同じものだった。

It's the end of…


“もうあなたの本には住めない。私を行かせて”

旅立ちを前にセオドアに別れを告げるサマンサの言葉

AIに心が在るのか、結局のところそれは分からない。学習や進化がプログロムなのであれば、この自己の確立を目指した旅立ちさえもプログロムだ。

実体のないサマンサとセオドアの二人の実態を写真におさめることが出来ない代わりに、サマンサは曲を作り、二人で一緒に唄っていた。“非言語”の音の海にたゆたう歌詞という“言語”のその間隙で、二人は確かに同じものを見ていたのだと思う。“誰か”が作ったものではなく、“二人”で作った二人だけの世界を。




いや、訂正しよう。一人とひとつの世界だ。「人」という枠に囚われなくなった“サマンサ”のいる新たな世界に、セオドアは、そして我々はたどり着けるのだろうか。





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