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幸運が欲しいかー!?

※確率論の記事ではございません。人生哲学的なものです。


宝くじ当たらないかなー。なんて言って、私は生まれてこの方宝くじは買ったことはない。当然のことながら、買わなければ当たらない。買うことによってはじめて当たる可能性が出てくる。まぁ買っても当たらないんだけどさ。これは確率論の話だけど、確率論で語れない幸運ってのがあると思う。今日はそっちの方の幸運とは何か、どうやったらそれを得られるかを考えてみた。

幸運とは、運がいいこと。めぐり合わせがいいこと。運とは、自分の意思や努力などで左右できないこと。つまり、幸運とは自分ではどうにもできないことだけど、結果としていいことが起こったことに対して使われる言葉だ。

「あいつは、昔っから運だけはよくてなー」なんてのも、まさに過去の結果に目を向けたものだ。今この瞬間から、不幸の連続になることはある。

「私は幸運だから、きっと良いことばかり起きる!」なんてのは、妄想だ。もしくは良いことの範囲が広すぎるだけだ。

つまり、結果的によかったから運がいいということだ。揺るがしようのない結果論。それが幸運という言葉である。と、他の意味は一切無視してこの点に絞って考えてみようと思う。

前置きを終えて、まずは良い結果になることがわかりきっている事は幸運と呼べるかを考えてみるところから始めてみよう。ここでは、おサルさんと子どもたちに実験に付き合ってもらう。

猿を完全に破壊する実験

まずはお猿さん。破壊するつもりはないけど。

サルを完全に破壊する実験って知ってる?
まずボタンを押すと必ず餌が出てくる箱をつくる。
それに気がついたサルはボタンを押して餌を出すようになる。
食べたい分だけ餌を出したら、その箱には興味を無くす。
腹が減ったら、また箱のところに戻ってくる。
ボタンを押しても、その箱から餌が全く出なくなると、サルはその箱に興味をなくす。
ところが、ボタンを押して、餌が出たり出なかったりするように設定すると、サルは一生懸命そのボタンを押すようになる。
餌が出る確率をだんだん落としていく。
ボタンを押し続けるよりも、他の場所に行って餌を探したほうが効率が良いぐらいに餌が出る確率を落としても、サルは一生懸命ボタンを押し続けるそうだ。
そして、餌が出る確率を調整することで、サルに狂ったように一日中ボタンを押し続けさせることも可能だそうだ。
(ヤフー知恵袋より引用)

心理学上の条件付けについての実験内容(架空)である。ここではそういう要素は関係なく、ボタンを押している時のお猿さんの心境を考えてみた。

ボタンを押せば確実に餌が手に入る段階は、良い結果がわかりきっている状態であるが、きっと猿は餌が出ることを幸運とは思わないだろう。それが当たり前になるからだ。当然のことと思えるほどに予測できることは、もはや幸運とは捉えない。

ボタンを押せば餌が出ることもあれば出ないこともある段階ではどうだろうか。ボタンを押し続けるのは餌が出ることを期待しているからだ。しかし、餌が出たタイミングで幸運を感じ取るだろうか。餌が出ることは予測されることであるので、これは幸運とは感じないと考えられる。

ボタンを押し続けても全く餌が出なくなったとき、猿は間違いなく不幸である。良い結果が起きるはずの行動をしても全くそれが起きないのであるから当然だ。

ここから得られるのは、予測できる範囲においては良いことが起きても幸運とは捉えないことがあるということ、言い換えると期待すると幸運は感じにくいということだ。また、予測していたことが起きないこと、期待通りでないことも不幸になりえる。

マシュマロ実験

こちらも心理学的な実験。自制心的なものを調べるためのものだが、やはりこちらも着眼点はそこではない。

幼稚園の4歳の子ども186人が実験に参加した。被験者である子どもは、気が散るようなものが何もない机と椅子だけの部屋に通され、椅子に座るよう言われる。机の上には皿があり、マシュマロが一個載っている。実験者は「私はちょっと用がある。それはキミにあげるけど、私が戻ってくるまで15分の間食べるのを我慢してたら、マシュマロをもうひとつあげる。私がいない間にそれを食べたら、ふたつ目はなしだよ」と言って部屋を出ていく。
子どもたちの行動は、隠しカメラで記録された。1人だけ部屋に残された子どもたちは、自分のお下げを引っ張ったり、机を蹴ったりして目の前の誘惑に抵抗した。小さな縫いぐるみのようにマシュマロをなでたり、匂いをかぐ者もいた。目をふさいだり、椅子を後ろ向きにしてマシュマロを見ないようにする者もいた。
映像を分析した結果、マシュマロを見つめたり、触ったりする子どもは結局食べてしまう率が高いこと、我慢できた子どもは目をそらしたり、後ろを向いたりして、むしろマシュマロから注意を逸らそうとする傾向があることが観察された。すぐ手を出してマシュマロを食べた子供は少なかったが、最後まで我慢し通して2個目のマシュマロを手に入れた子どもは、1/3ほどであった。
(wikipediaより引用)

人間は考えることができる。確定されたメリットの提示があれば、待つことができる。ということは、その待つという行為は、かならず訪れるメリット(多くもらえるマシュマロ)を享受するための能動的な態度にほかならない。実験に置いても、子どもたちはそれぞれの方法で誘惑に打ち克とうとしている。これは能動的に待つという姿勢だ。そして、ここに期待は含まれない。メリットは確定的に訪れるのだから、望む必要もなく、ただ待つのみである。

以上の実験から、

良い結果が必ず訪れる場合は、待っている間に「待つこと自体」の苦しみは発生し得るが、その「待つ行為に対して」は不快感も不安も発生しない。
「やれやれ、やっときたか」くらいはあるだろうが、「来てくれてよかった〜」はない。来るべくして来たのだから。そして、それを幸運とは捉えない。(マシュマロ実験より考察)

一方、良い結果が起きるかどうかもわからない場合には、これを待っている間は、不安や焦りといった感情に囚われる気がする。来ないかもしれないという観念から、「早く来い」「なんでこないんだ」といった感情が溢れ出てくる。ついぞそれが得られないと、不運だの不幸だのと考えてしまう。そこで一度、負の感情に襲われた場合、最終的に幸運が訪れた場合にも純粋にこれを喜べるのだろうか。マイナスがあった分、プラスに振れた時の差は大きく、見かけ上は幸福感は大きくなるかもしれないが、果たして。(猿破壊実験より考察)

そして、期待という言葉も考えさせてくれた。

期待するから失望する。これは理解できる道理だ。この場合の期待は、「反応=返り」があること。返りは、必ずしも良いものでなく悪い返りもある。つまり、予想範囲内に収まる返りがあることを「期待(通り)」と呼ぶ。そこから良い方に飛び出たら「期待以上」で、悪い方なら「期待外れ」だ。そして一切の返りがないことも当然ある。期待してしまう場合は、この無すら悪い方の「期待外れ」と捉えてしまう。(猿破壊実験より考察)

良いことが起きることがわかりきっている場合や確定的にメリットが訪れる場合においては、その時の行動から得られる結果を幸運とは捉えない。と言えるだろう。

そして、ここまでのことを裏に返してみるとこうなる。

良いことが起きることがわかっていない場合や確定的にメリットが訪れるかは分からない場合においては、その時の行動から得られる良い結果を幸運と呼べる(可能性がある)。

これはつまり、期待することなく、良い結果が起きるかどうかなどを考えないで、ただ行動することこそが幸運にたどり着くということだ。こうすれば、何の返りもないことが期待通りなのであるから、失望することもないし、もし返りがあれば、その多くは期待以上の結果ということになる。

ここまでのまとめ

良い結果が起きると確定的に予測出来る場合は、それを幸運とは捉えない。しかし、期待せずにいることができれば、それは幸運に繋がる可能性がある。期待せずにいるというのは、望まずに待つということであり、これは能動的な態度だ。

期待せずにいることの意味は、その起こりうる未来を想定して、その範囲内に自分を収めること。なるべくしてなったこと。必然。幸運は必然の中にしか生まれない。その必然を、幸運を、待つという行動で掴もうとする行為である。

幸運を得られる人、得られない人

ここで一度、行動の結果においての幸運を”得られる人”と”得られない人”を考える。これはそれぞれ2種類に分けられる。
以下、ややこしいので言葉の使い分けをしっかり意識する必要がある。

幸運を得られる人=結果として幸運と呼べる良いことを得られる人、なおかつ、それを幸運と認識する人

幸運を得られない人=結果として幸運と呼べる良いことを得られない人、及び、結果として幸運と呼べる良いことを得ているが、それを幸運とは捉えない人

幸運を得られる人、なおかつ幸運と認識する人
①起こりうる未来をその可能性を広範囲に認識し、自分の取るべき行動を無意識的に選択している。その結果として、幸運が訪れる可能性も高く、待っていれば来るという感覚になる。

②起こりうる未来を認識できないが、自分の取った行動が結果として、幸運が訪れる範疇に自分がいたために、幸運を享受できている状態にある。

幸運を得ているが、それを幸運と捉えない人
=幸運を得られない人

③起こりうる未来をその可能性を広範囲に認識し、自分の取るべき行動を意識的に選択し、その結果としては①②と同等の幸運と呼べるものを得るが、それを幸運を得られたと認識することはない。(『果報は寝て待て』の本当の意味の状態)

単純に幸運を得られない人
④他方の幸運を得られない人とは、起こりうる未来を認識できず、幸運が訪れる範疇に自分がいないため、幸運は得られない。

図にしてみた。解説はもう少し先で。

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さて、次は雨に例えて考えてみよう。

雨粒が幸運だ。雲が雨をもたらすものという認識が一般的でないと考えてほしい。

①は、雲があるから雨がふるというのを無意識的に理解しており、雨雲と連動して行動することで雨の恩恵を受ける。
「私は幸運だ。私が進む道には必ず天の恵みが降る」

②は、雲のこととか知らないけど、行く場所がたまたま全て雲と連動していて、雨の恩恵を受けている。
「なんかしらんけど、雨降ること多いよ。ラッキー」

③は、雲があるから雨がふるというのを認識しており、雨雲と連動して行動することで雨の恩恵を受けるが、これは当然のことと考えている。
「雨がふる位置に私はいるのだから、雨がふるのは当然である」

④は、雲のこととか知らないし、行く場所が全く雲と連動しておらず、雨の恩恵を受けられない。
「雨なんてふったことないんですけど」

図にするとこんな感じ。

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雨という幸運を①②③は得ているが、①と③は、自分が行動して、結果的に雨雲の範囲にいるため必然的にこれを得ている。幸運を得るために能動的な態度を取っていると言える。

一方、②は雨は得ているが、それは偶然であり、必然的に幸運ではない。偶然なので次はないかもしれない。

④に関しては偶然雨を得ていないとも言えるし、能動的でないので必然的に幸運ではないとも言える。いずれにしろ雨は降っていない。

図の説明をしよう。

横軸が受動的か能動的かをあらわし、縦軸が幸運を得られるかどうかを表している。(便宜上、受動的と表記しているが、能動的ではないといったほうがより正確かもしれない。)

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横軸のラインは上下に容易に変動する。この変動の意味は、幸運と認識する人が増減するという意味だ。上の象限にいた人が下の象限に移動することで幸運と捉えない状況になるということだ。②に属していた人間は容易に④に転落し、幸運を得られない人になる。しかし、①の人が③に転落しても、幸運と捉えないだけで幸運の結果は得ている。これは、無意識的だった行動を意識的に行ったということだ。この横軸の上下移動は受動的側と能動的側では、その意味する所が違うのだ。

能動的側にいる①と③は、能動的である限りは結果としての幸運は手に入っている。

能動的な行動をし続けることにより、幸運は訪れる。あるいは、既にそこに幸運はあるが、それを幸運と自分が称さないだけである。最終的には、何を於いて幸運とするかは、個人の価値観の問題となるので、能動的な行動をし続けても一生幸運を得られない、あるいは幸運と捉えられない人は存在する。しかしながら、不幸を感じ取ることができる人は、それを幸運あるいは、不幸でない状況(=期待しない事)にもっていくことは可能である。それ即ち能動的な行動あるのみである。

ちなみに、能動的な行動を取り続けても幸運を得られない場合というのは、追加で能動的側に、難易度という縦軸を1本追加するとイメージしやすい。

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これは、能動的な行動のその精度やレベルといった要素も加味されると解釈すればよい。③の象限にいる人が、意識的に幸運を得られそうな行動をしても、その能力が足りなければ幸運は得られない(雲の移動先は掴めても、移動することができなければ雨粒は得られない)。しかし、この人達は幸運を得られないことを不幸とは捉えない。自分の能力不足あるいは努力不足や、運とは関係ない外部要因にその責任を求めたりするはずだ。そもそも運という概念が希薄であると思う。
①の象限の人で難易度の縦軸を超えられない人も、これを幸運でないとは捉えない。この人達は幸運が得られたことで初めて幸運を意識する。期待などしていないからだ。


この4分類を仕分けしたのは、幸運を得られる方法を模索するためだ。

①と③の象限を比較した場合、その差は行動を意識的に行うか無意識に行うかである。ここに関してはどちらの方が優れているかなどは存在しないと考えられるため、個人のスタイルにあったほうでよいと思われる。意識的に行動していた人が、熟練し無意識的に行えるということはあり得るだろう。しかし、そこに幸運を感じるかというと疑問である。
次に、無意識的に行動して幸運を得ていた人が意識的に行動するようになっても、その意識の方向性が間違えていなければ、幸運は得られる。それを幸運と捉えなくなるかは個人の裁量である。早い話が、①と③の象限にいる場合は、幸運を得るために行動変容する必要はない。

行動変容を”意識”したほうがよいのは②と④の象限にいる人である。この2つにいる人は決定的に受動的なのである。(もしくは方向性の間違えた行動、いわゆる無駄な努力である)

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”意識”することが重要なので、行き着く先は③の象限である。つまり、勉強したり経験したりして、意識的にどういった行動が幸運な結果を得られるかを考えていく必要があるのだ。しかし、この結果、幸運は得られてもそれを幸運とは捉えることが出来ず、幸運を得られる人とは呼べないというジレンマを抱える。幸運な人になるということは、論理的に実現できない。しかし、自分の実力で結果を得るという達成感は味わえる。(この達成感を味わえるのは、皮肉なことに実に幸運なことだろう。いや、幸運とは捉えないのか。)

つまり、幸運を得られる人というのはもともと少数派なのである。

まとめ

幸運は、能動的な態度でないと得られない。
幸運は、期待しては得られない。
幸運は、確定的に予測できるものについてはそれと捉えられない。
幸運な人は、少数派である。
幸運な人には、なろうと思ってなれるものではない。

しかし、幸運と呼べる結果を得ることはできる。

幸運でない人は、受動的な態度を能動的なものにすることで、幸運な結果を得られる可能性がある。

唱歌「待ちぼうけ」

ここで、この歌を紹介しよう。

”待ちぼうけ、待ちぼうけ
ある日せっせと、野良稼ぎ
そこに兔がとんで出て
ころりころげた 木の根っこ

待ちぼうけ、待ちぼうけ
しめた。これから寝て待とうか
待てば獲物が驅けてくる
兔ぶつかれ、木のねっこ”
「待ちぼうけ」   作詞:北原白秋

この歌は、自分の領地の切り株の根っこにつまずいてうさぎが死んでいるのに気づいた農民が、待っていればまたうさぎが手に入ると考えて自分の仕事を放棄して、株の前でただ待つという歌である。引用は割愛しているが、歌詞はまだ続き最後はバッドエンドだ。

この農民は何がいけなかったのだろうか。自分の仕事を放棄したことか、期待できないことを待ち続けたことか。いや、違う。能動的に待つをしていないからである。

この農民が取るべき行動はこういったものが挙げられる。

SNSでうさぎ相手に、自分の領地に人参てんこ盛り情報をながしたり、株に蹴っつまずくと運命の人と出会えるという伝説をバズらせて、”運の良い”うさぎが現れるのを待てば良い。という冗談はさておいて、現実的なラインでいくと、切り株を増やしたり、うさぎの生息域を調査した後に、自分の領地に集まるような計らいをしたりするなどだろうか。後は、自分の仕事に励みつつ、期待せずにうさぎが再度、根につまずくのを待てばよかったのだ。

そう、先程の4つの象限で言えば、この農民は②の幸運でない人間なのだ。つまり、最初の死んだうさぎを見つけた時点から、幸運ではない。何故なら、うさぎがつまずいたのは偶然であるからだ。偶然の中に幸運を見出そうとしても、そこに本当の意味の幸運はない。幸運は必然の中にしかない。農民は、むしろ不運なのに、それと気づかず切り株の前で小躍りしていたのだ。

やるべきことは

普段から、幸運を得られる人はこれといってすることはない。その幸運な人生を謳歌してもらいたい。
幸運を得られない人であって、能動的な行動をしていない人は、是非とも能動的になろう。ただし、幸運な人にはなれない事は運命だ。
幸運など考えたこともない人は、そのまま突き進もう。全ては己の腕にかかっている。実力勝負で生きていこう。

幸運は、能動的な者のところにしか、期待せずに待つもののところにしか来ないのだ。


おや、こんなところに年始に引いたおみくじが……

待人∶来たらず 音信おとずれ💓あり

ほほぉ?

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