怒るは流儀。叱るは作法。大事な事は伝わること。
世の中にはアンガーマネジメントなるものまであり、いかにして怒らないかが重要な事らしい。今回考えるのは「怒るんじゃなくて叱りなさい」という類のものだ。「あー、パワハラ問題は怖いもんなー(棒読み)」
コンプライアンス的なもので年に一度はこういった研修を受けている気がするが、何度聞いてもこの言葉は気に入らない。
怒ると叱るを同列に語るから違和感がある。怒るは自動詞、叱るは他動詞。しかも、怒るは「喜怒哀楽」と使われるほどに強い感情の意味を持つ言葉である。叱るは、目下の者に対して指導的意味合いの強い言葉だ。そこに感情は関係ない。言葉としては「喜びつつ叱る」「怒りつつ叱る」「哀しみつつ叱る」「楽しみつつ叱る」は成り立つ。どれも経験したくはない状況ではあるが。
先に終着点を申し上げると、叱ろうと思って叱る必要はない、という所にこの記事は着地する。
まず、
私は怒らない。のだが、これは正確ではない。怒れないが正しい。
私は叱らない。のだが、これも正確ではない。叱っている意識がないが正しい。
私に怒られたと感じる人はいるかもしれない。のだが、これは認識の違いだ。そして悲しい。
私に叱られたと感じる人がいれば、それは光栄なことだ。ただやはり私としては叱ったつもりはない。
叱ることの意義に、叱られる側の価値観を是正するためにも、間違えていたことは正確に伝えて正す必要があるという言がある。乱暴な言い方をすれば、叱られる側の間違えた(かもしれない)という後ろめたさを際立たせた上で、修正をしていくという工程である。
叱られる側から考えると、自分の価値観は結果として誤り(ビジネス上の妥当とは言えない判断であったもの)だった事は事実だとしても、その判断をした過程に焦点を当てずに結果だけ修正された場合、経験値として蓄積は出来てしまうので今後同じ場面では妥当な判断は出来るだろう。しかしながら、その過程に気付けなければ本質的なところで同じ過ちを犯す可能性は高い。
叱られる側にとって最もありがたいことは、自分の意思決定までの工程の、どの部分に修正すべき箇所があったかを示してもらえることだ。もちろん、叱る側はそこまで踏み込むつもりで叱り始めているのかもしれないが、叱られる側からしたら、その啓示があるかどうかすら分からない状態で叱られ続けるのは不快だ。聞く耳を持たなくなるかもしれない。そして、これが致命的なことなのだが、自分で考えることをしなくなる。この時点で双方にとって無駄な時間となる。
叱る側がしなくてはならないことは、叱る原因となったことの始まりがどこからで、そこに至るまでの工程とその意思決定の根拠を明らかにさせることだ。そこに修正すべき点を見つけたら、叱られる側にどんな選択肢があったかを考えさせる。状況を精査した結果、叱られる結果となる選択肢しかない(妥当性が高い選択をした)という場合も往々にしてある。そこを考慮しないというは論外である。
ということを私は実践しているので、叱るという表現はしっくりこない。人によっては、これぞまさしく「叱り」である。と言う人もいるかも知れないが。
おっと、怒ることについて解説し忘れていた。
極端なことを言うと、私は人との関係性の中での怒りという感情は不要だと思っている。事ビジネスにおいては全く必要ない。(自分に対する怒りや、社会に対する怒りは有益で必要な事だと思っている。)
怒りが行動の原動力になったりすることは理解しているが、それは別の感情や感情以外のことでも得られることだし、たとえ怒りがあったとしてもそれを外側に出す前に、自分の中で他のものに変換したほうが相手に伝わりやすいと思うのだ。
別に怒る人を批判しているわけではない。怒るというのは、その人なりの流儀だ。
「俺はこういうことがあると怒る! だから、(怒らないで済むように)○○を△△にしろ!」
ということを言われたとしよう。
「こういうことがあると」という部分が流儀にあたる。怒った原因である。これは変えることができないその人の本質的なものだと思う。
「○○を△△にしろ」という部分が伝えたいことである。
本来、この2点は関係のないことだ。だから流儀にあたる部分は言う必要がない言葉なのだが、これを言ってしまう(怒る)ことで、受けては括弧書き部分を勝手に付け足して解釈してしまう。その結果、「怒られないために○○を△△にしよう」という誤った認識が根付いてしまう。
これを回避するために「叱る」という作法を導入しようというわけだ。その道理は理解できる。やってみよう。
「こういうことがあると私は困るな。だから今後は○○を△△にしてほしいんだが、できそうだろうか?」
だいぶ柔らかいニュアンスになり、一見するといい感じなのだが、実はこの例だと、「こういうことがあると」という怒るの流儀の部分が消えていない。いやいや、この文言は事実確認なんだから言ってもいいでしょ? と考える方もいると思う。それはその通りなのだが、この例の問題点はあとに続く「私は」にある。
これは「Iメッセージ」を使おうとして失敗している。(ちなみに「Iメッセージ」も不要と考えています。今回は言及しませんが。)「私は」がつくことで、概念的であった「こんなことが」が、属人的になってしまうのだ。受けての気持ちでいうと、
「はい、わかりました。そうします」と、なる可能性がある。
(『知らんがな』は、知ったことではない、興味ない、私には関係ない、などの意味の関西弁)
行為等の事実確認→トラブルが起きている→改善してほしい
地の文の図式を、ルビの言葉にしてしまうと「知らんがな」の一言で封殺されるのだ。
この「知らんがな」を使わせないことでようやく伝わる土俵に上がれる。「知らんがな」を使わせないとは、全てを自分事にしてあげたり、自分で考えるように促してやらなくてはいけない。よって、理想的な伝え方はこんな具合だ。
どうして○○を□□にしたの?→(返答)→なるほど。他の方法は考えた?→(返答)→△△は検討したかな?→(返答)→してなかったか。では次は△△も検討してみよう。他にもいい方法があるかもしれないから、しっかり検討して、良い案があれば是非教えて欲しい。
例示する関係で適当な言葉を入れているが、流儀も作法もいらない。相手に合わせて、どう受け答えすれば伝わるかを考えながら対話するだけのことなのだ。
流儀は見せつけたり押し付けたりするものでなく、自分の中で持っていればよいもの。大事なことは、何を伝えたいか、何を伝えてやらねばならないか、そして伝えられるかであって、その作法は関係なく、一つの作法に拘る必要もないのである。
もう一つ怒る必要がない理由として、流儀が全く通用しない場合を想定しているためだ。怒った場合に、相手に怒ったことが伝わらないと意味はない。つまり、怒ることの効用があったとしても、その共通の価値観があってはじめて伝わるのだ。グローバルな社会になり文化の違う人たちとビジネスをする機会も増えたし、地域、年齢、商習慣の差異などなど、人がどこにどう怒るかは様々だ。え? なんでこの人怒ってるの? と、思われるだけならまだしも、その後のコミュニケーションが取りづらくなっては損だ。また、ビジネス相手が人じゃない場合も出てくるだろう。ロボットやプログラム相手に怒ってもしょうがないのだ。相手に伝わる言語に変換してやらねばならない。
ここまで、怒らないとか怒る必要がないとか述べておきながら、冒頭に述べた「私は怒らない」というのは、実は嘘だ。理由は2つ。実際私も怒るのだが、怒るという感情を私自身が認識するまでもなく一瞬で霧散するという表現がより適切だ。アンガーマネジメントでも6秒ルールなるものがあるようで、これは怒りの感情は長続きしないから、落ち着くまで6秒待ちなさいということだそうだ。遅い、せめて1秒で切り替えるべし。
2つ目の理由が、論理的に話しても伝わらない場合には怒ったり叱ったりという手段を取ることもある。これは、その方法でないと伝わらない人間がいるということを知っているからである。大事なことは伝わる事だから、必要であれば私は怒るし叱る。まぁ、幸いなことに私の周りには多くない。
うちの最愛の子を除いて。
叱るという言葉を使う人というのは、必然的に怒ると叱るの違いを理解している。区別しなくてはいけないから、使い分ける。
「上司に叱られちゃって……」なんて言葉が聞こえると私は嬉しい。叱るという言葉を使うものは怒るについても理解しているので、私の指導が「叱られた」に感じられたということは、その内容に向き合って自分なりに考え始めている証左だ。「ご指導いただきました」などの言葉は、上っ面だけなことも多いので、「叱られた」という正直な言葉の方が信用できる。可愛げがある。
そう、相手が「叱られ方」を知っているかどうかも重要なのだ。というより、叱る事が対象の成長を促すためのものである以上、叱られる側がその気持ちでいてくれなくては何の意味もない。暖簾に腕押しである。だから、私は最初から叱ろうとは思っていないのだ。あくまで対話という形式を採用する。ちゃんと返事があれば、その内容の是非は別として、相手からの反射がある以上、押し込む腕の力加減は調整できる。
孫氏兵法(これもビジネス本で見かける)による「仁」の考え方に沿えば、部下は我が子のように扱えという。実体験として、我が子には必要かつ効果的であるからたくさん叱る。「仁」は優秀な部下にも、同じように叱れ! という意味ではない。我が子のように、真摯にどうすれば伝わるかを考えなさい、ということだ。だから私は、彼らと「対話する」ことを選ぶ。それは勝手に「叱る」になるのだろう。
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