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レベル5で笑うのは

  会議は紛糾していた。我が社が次に扱うべき商品は何なのか。それが議題であった。地上30階だというのに、窓の外を車が行きかっている。車が青空を割って我が物顔で進む光景に忌々しさを覚えた。というのも、これこそが議題の元凶であるからだ。車は早々に人の介在しない運転を可能にした。いわゆるレベル5というやつだ。完全自動運転。無人バスが走るようになったと思えば、息つく間もなく一般車へと自動運転は広まった。人出不足の宅配トラックにも導入されたおかげでデータが早く集まったらしい。ソフトウェアの更新だけでレベル5への対応が可能となり、私の愛車もいつの間にか完全自動運転車になっていた。レベル4だの5だのに区分けはなく、単純に「そういえば最近ハンドル触ってないな」と思っていたらそうなっていたのだ。充電時に行われる運転履歴の反映とアップデートで意図せず私の領分は蝕まれた。そして、我が社の利益も蝕まれた。
  我が社は損害保険会社である。そのため、自動運転による事故件数の減少に比例して業績が下がっていった。人の不幸で飯を食っていたのかと身をつまされるが、少しくらい運転ソフトにバグがあったりしないものかと考えてしまう。ただ実際にはソフトにバグは無かった。どちらかと言えば人間の方にバグがあったようで、自動運転を解除してしまった高齢者やクラシックカーでスピードを出していた若者による大きな事故が起きた。それが逆に世論を煽り、完全自動運転の義務化を推し進めることとなってしまった。とはいえ、最初の頃はマシ。一部はまだレベル5へ変わっていなかったから、高齢者は自動運転を信用しきれず保険に頼ってくれていた。また「故障時の対応だけは」とロードサービスだけは契約するのが一般的だった。
  契約が少なくなろうとも支払額より保険料収入が多ければ利益は確保できる。そこで私は保険料のさらなる適正化を目指した。スマホにとってかわったウェアラブルデバイス。これを利用し、被保険者の購買履歴やヘルスデータ、目の動きにアクセスすることでリスク分析を深めたのだ。運転時の心拍数や視線によって居眠りや飲酒、わき見など危険運転の可能性を予知できる。もちろん、リスクが高い被保険者には高い保険料を課す。だが、実際に事故を起こされたら高い保険料も意味がなくなってしまう。そこでリスクの高い状況を発見次第、デバイスから小さな針を刺すことで注意を喚起できるようにした。今やほとんどのデバ イスには3Dプリンターが内蔵されている。空気中のマイクロプラスチックを原料に極小の針を生成し注意喚起するのだ。この効果はてきめんで自動運転の精度向上も相まって、月の事故件数は一桁まで減らすことができた。そうして少ないながらも利益をあげることができていた。
  だがそれも付け焼刃だった。レベル5義務化法案が可決され、こんなことも無駄となった。完全自動運転車以外は博物館行き。高齢者も少ない年金から保険をかけることに意味を見出さなくなった。ビッグデータによる故障予測も正確になり、予測をもとに車が勝手に修理に行ってしまう。ロードサービスも必要なくなってしまった。この法律の制定は自動車保険の終焉を意味していた。昔行った博物館に飾られていた掃除ロボットを思い出す。その頃は少しの段差につまずき動けなくなったり、充電しに戻る途中で行き倒れたりしていたそうだ。それが今じゃ随分と立派になって・・・。もはや我が社は自動車保険で利益どころか売上さえあげることができなくなっていた。
  そのころ、日本では超高齢化社会が現実のものとなっていた。ガンの特効薬が開発されたことにより、平均寿命が飛躍的に伸びたのだ。今や大半はリタイア後の人生の方が長いような状態。おかげで我が社とは逆にエンターテイメント系の会社は儲かっているようだ。たくさんできた余暇で映画やスポーツに興じたり、旅行に行ったりする高齢者も多い。以前は巣鴨が「おばあちゃんの原宿」と呼ばれていたそうだが、今じゃ原宿自体も高齢者だらけだ。若者も移動時間を自由に使えるため、映画や音楽、ゲームなど娯楽にお金を使っている。誰しもが科学の発展で増えた余暇を楽しんでいた。いや、一部を除いては。
  ひずみは生まれてきていた。自動車事故が無くなり、大概の病気も簡単に寛解してしまう。すると、もはや老衰でしか死ねなくなったのだ。老いはするが死ねない。そんな老人が増え、病院に行くことをためらい孤独死するもの、自死する体力もなく家族に頼むものまで出てきてしまった。人間の尊厳を踏みにじるようなこれらの事件が報道されたことで、ようやく政府も重い腰を上げ、安楽死が認められた。すでに人口1億を切った我が国で安楽死を認めると、さらなる人口減少が起こってしまう。そのため政府は認可に及び腰であった。しかし年金制度の崩壊がすぐそこにあると言われる今、安楽死によってその立て直しを図る目 論見らしい。それくらいで年金制度が立て直せるとも思えないが、人が安寧な死を選ぶことで生者が救われるならそれもいいのかもしれない。経緯はどうあれ、安楽死が認められたことでこの国はまた一つ転換点を迎えていた。
  安楽死が認可されたとはいえ、その実現にはハードルがあった。誰が希望者を殺すのか、 ということである。薬剤で静かに死ねるにしても、投与のタイミングを決めるものが必要だ。本人か、家族か、医療スタッフか。本人が希望したこととはいえ、そのタイミングを自分に決めさせるのは酷である。死のうと思ったタイミングで薬剤が投与されて亡くなるのでは、自殺と変わらない。あくまで本人が「安楽」に逝けるのが前提であるのに、亡くなる直前まで「死」と向き合い苦しむのでは意味がないではないか。もちろん家族に決めさせることも多大なストレスをかけることになり、難しい。そこで、複数の医療スタッフが同時にボタンを押し、投与する仕組みが多くの病院で利用されていた。ただ、それも「死刑台と変わらない」といった批判や「人を生かすために医療従事者になったのに」というスタッフの退職が相次ぎ、問題となっていた。となると、誰がそれを判断すべきか。AIだ。ヘルスデータをもとにAIに判断させれば誰も人を殺した悩みで傷つかない。そんな時に「超齢保険」が生まれた。
  我が社は自動車保険の次の食い扶持を探していた。自動車のせいで自転車操業になった今、どうすべきか。その波乱の状況下で安楽死認可の報を受けた。保険会社には2種類ある。生命保険会社と損害保険会社だ。生保は名前の通り生命保険や年金保険を扱うことができる。一方、損保はそれらを扱うことはできず、自動車保険や火災保険を生業としている。 ざっくり言えば生保はヒトの、損保はモノのリスクを回避するための保険を扱っているわけだ。では、医療保険はどちらが扱っているかわかるだろうか。答えは「どちらも」だ。医療保険は1世紀前までそもそも国内企業ではほぼ扱うことができなかったらしい。後々許可が出た際にその区分を行わなかったため、我が社でも取り扱うことができていた。そして、我が社ではその延長線上で安楽死に対する保険商品を開発した。それが「超齢保険」だ。
  「超齢保険」とは安楽死を我が社が責任をもって執り行う保険である。被保険者が定めた年齢を超えるとデバイスで生成した針から血管へ空気を送り込み安楽死させるのだ。ただ、何も誕生日を命日に塗り替えるわけではない。設定年齢を超えるとヘルスデータ、GPS、 音声ログなどから死に適切なタイミングを導き出す。忘れたころにやってきて、ピンピンコロリというやつを実現させるわけだ。孤独死や急死による周囲の事故やショックを防ぐため、できるだけ被保険者の死の影響が広がらないタイミングで永遠の眠りにいざなう。眠気覚ましに使っていた技術がまさか全く逆の内容に転用されるとは。今まで死の前後のための保険はあったが、死という行為そのものに対する保険まで作ってしまった。なんだってオブラートで包んでほしい。その欲望で我が社は発展してきた。「死」すら内服しやすくするのが勤めなのだ。我が社にとって不幸はなんでも飯の種なのだと改めて自覚した。地獄の沙汰も金次第とはこのことだろう。少ない年金を、死ぬためにつぎ込む高齢者を見ていると笑えなくなった。ただ、我が社は火災保険と医療保険の二輪から超齢保険を加えた三輪となり、 自転車操業からはなんとか脱せそうだ。
  あれから10年が過ぎ、我が社はおかげさまで好調である。今や国民のほとんどのデバイスに我が社のアプリケーションが入っている。大多数の人間が自分の死期を知りながら生きていると思うとなぜだか可笑しい。いつともわからない終わりがあるから身が入るものを。終わりが明示されている人生などあとがきから読んだ推理小説のようなものだ。ただ、そのおかげで今の我が社、そして私の地位がある。文句は言わないでおこう。渋滞の解消のため、今じゃ空さえ車が闊歩する時代だ。自分で扱える時間の領分は増える一方である。私も新聞の最終面に載せるための、社史と自分史とを交えたこの原稿をつづりながらディスプレイを見ていた。そこへ秘書が飛び込んできた。
「社長! 脱分化実験が成功した知らせが! 例のベニ
クラゲの!」
ベニクラゲとは「不死のクラゲ」と称される生物だ。クラゲはポリプという幼生から成体へと変わっていくのだが、成体へ著しいダメージが加わるとポリプへと戻る。つまり若返る。このベニクラゲの脱分化構造はだいぶ前に解明されていたが、他種へ応用することができていなかった。しかし近年マウスによる実験が成功し、次はサルにもときていよいよヒトへ。それが成功したというのだ。つまり、近い将来いわゆる若返り薬が市販されるであろう。人間は不死だけでなく不老をも手に入れることになる。ということは、死ぬ必要がなくなる。超齢保険などいらない。
「役員達と回線をつないでもらえるか」 
  ホログラムで映し出された彼らに状況を説明する。我が社が超齢保険の次に扱うべき商品は何なのか。それが議題であった。「今に病気自体にならなくなりますよ」と医療保険すら商売にならなくなるであろうことを自嘲気味に語るものもいた。現に火災保険も天災に対する補償がメインで、盗難や火災の補償はカットされることが多くなっている。契約継続はまさしく神頼みだ。結局、保険というのは科学が発展すればするほど儲からなくなるのだ。リスクがあるからこそ保険があるが、そのリスクを埋めていくのが科学なのであろう。コンスタントに稼げる保険などないのかもしれない。今やリスクは人間だけだ。いっそこの稼業をやめて、安定した公務員にでもなってしまおうか。 そうこう議論しているとつけっぱなしにしていた画面から速報が流れて来た。「年金制度の廃止を決定」と。へたくそが作った茶碗のような人口ピラミッドではやはり年金は支えきれなかったようだ。ただ、あったものをいきなり0にすることはできない。今度は若者から納付された年金を財源とせず、世間全体から徴収した税金でもって年金に相当するものを支給するという。消費税が20%あるというのにこれ以上何から取る気かといぶかっているとその答えが示された。
「娯楽税」。余暇の増加とともに支出が増えた娯楽から税を取る気らしい。「ぜいたくは敵だ」という標語をこの時代にまた打ち立てようとは。それに何が娯楽かどう決めるというのだ。ずいぶん昔に同じような話を歴史の教科書で読んだ気がする。役員たちも本題が進まないので、この制度改革について私見を述べあっていた。
「ゴルフは娯楽ですかね。仕事ってことにしてもらえるとありがたいのですが」 
「映画会社は映画を見るのも仕事扱いになるのだろうか」
 「それは仕事でしょう。稼ぐために仕事しているのに税金取られるんじゃ誰も映画作らなくなりますよ」
「今まで儲けてきた報いだ」
「ゲームで賞金稼いでいるやつらはゲームも仕事の内か」
「それが通るなら、うちは保険屋だから損ですね」 
「何を娯楽とするか判断基準が難しいな」
「心拍数の上昇値で決めるのはどうです」
「そんなバカな。赤面症の顔が青くなるぞ」
「では他のデータと組み合わせて娯楽か判定するとか」
「わざわざ国のために視線や音声ログのアクセスを許可するやつはいないだろう」 
「うちみたいにすでにそのデータを持ってりゃ別でしょうけどねぇ」
「税収代行の依頼が来たりしてな・・・」

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  そういうわけで、我が社はそれを請け負うことにした。国や娯楽には辛酸をなめさせられてきたが、背に腹は代えられない。リスクが減るばかりの世で保険屋だけでやっていくのはなかなか難しい。何事にも「保険」は必要だ。
  はてさて、こちらをお読みの諸兄。我が社のアプリケーションはお使いかな? なに、使っていない。では、その携行型デバイスにスクリーンタイムとヘルスケアの機能がついているはずだ。そのデータを教えていただこうか。私も公務員の端くれになったからにはきちんと仕事はさせてもらいますよ。この駄文でも多少なりと娯楽を提供できたはずだ。きっちり税を払ってもらおうか。

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