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読書会より―『一九八四年』②物事を鵜呑みにする恐ろしさ―

前回は「言葉」、特にニュースピークに焦点を絞って『一九八四年』の世界を見た。今回は、別の面からみてみよう。キーワードは「鵜呑み」である。

ロンドンを含むオセアニアを支配する“党”のスローガンの1つにこういうものがある。

過去をコントロールするものは未来をコントロールし、現在をコントロールするものは過去をコントロールする

ジョージ・オーウェル著、高橋和久訳『一九八四年』 角川文庫

実社会ではありえないスローガンである。まず、過去をコントロールすることは、過去に起きた出来事を改変することになる。これ自体が相当な問題だ。もっとも、歴史上比較的近年までは当たり前のように行われていたし、おそらく実際には現代でも行われている。

そして、一般的に未来もコントロールできない。人の活動ですら制御するのは厳しい。自然現象よる災害に至っては、制御どころか、予測すら困難なものが多い。

しかし、彼らは可能なのだ。前回示した通り、『一九八四年』の世界には言論の自由はない。それどころか、物事を適切に表現しようにも、それを具体的に示す言葉はない。それだけの支配力を“党”は有しているのだ。まさに「現在」は常にコントロール下にある。

そして、自ら立てた予測が外れた場合には、「過去をコントロール」し、予測が当たったことにすればよいのだ。その意味で「現在をコントロールするものは、過去をコントロールする」のだ。また、人々の行動を徹底的に統制し、自然現象に左右される要素を多分に含んだ予測は、その結果をまっとうな値に改変し続けることで、「未来をコントロールする」することが可能になるのだ。

現状、民主主義国家と一般的に言われている国家では先のスローガンに示したような事態にはなっていない。しかし、そうではない国だとどうだろう?強権的なリーダーが出す情報を鵜呑みにせざるを得ない国があったとしたら…?この事態は、実際に起こりかねないのだ。ただ、少なくとも民主主義国家では非現実的である。

ここで、ちょっと別の視点から「鵜呑み」について、考えてみよう。小説内にはこういう逸話が出てくる。

もし彼が床から浮かぶと思い、そして同時にわたしも彼の浮かんでいるのが見えると思うなら、そのときにはそれが現実に起きていることになる

ジョージ・オーウェル著、高橋和久訳『一九八四年』 角川文庫

…何かデジャビュのようなものを感じるのは気のせいであろうか?いや、気のせいではあるまい。90年代中頃に、この手の話が日本国内でニュースで流れていたのを幼心に覚えている(調べていないが、記憶が確かなら、その教団でも空中浮遊云々という話があったはずだ)。同じロジックでいえば、ワンマン社長が「カラスは白い」と言ったときに同意する(当然、白いカラスがいるかもしれない、という意味ではない)のも該当する。この手の話になると、問題は急に自分たちにとって身近になものになる。

ある特定の“権威ある”組織(国、国連機関、会社など)もしくは人が出す情報も下手に鵜呑みし続ければ、いつしか彼らの発言がおかしくなったとしても、それに気づけないかもしれない。また、発信の主体の違いに関わらず、自らの考えに近い情報ばかりに触れるのも同様であろう。長いものに巻かれ続けるのも、自分にとって心地よいものばかりに触れ続けるのも、自らが自律的に考える能力を放棄しようとする行為につながり、やがては彼らが発信する情報を鵜呑みする存在になり果ててしまう。

人は誰しもある程度は情報を鵜呑みせざるを得ない。すべてを疑うのは不可能だ。しかし、ある部分においては自らが賛同できるできないに関係なく、様々な考えに触れ、その特徴を整理していくことが大切なのであろう。そして、その行為を無意識レベルに行えるようになれば、多分いつもは鵜呑みにしている分野でも違和感に気づきやすくなるはずだ。「あれ、何かこの情報おかしくない?」と。

また長くなってしまった。3つ目のキーワードは次に回そう…

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