頑張りすぎな社会・人へのアンチテーゼ ―ダダイスト辻潤の「ユルさ」ー
20世紀前半を生きたダダイスト辻潤のエッセイ「浮浪漫語」はここから始まる。このエッセイ、始終ダルさ、ユルさ全開である。真面目な人にはアレルギー反応が出そうなくらいだ。だが、このエッセイはそこが面白い。
このエッセイを読む限りではあるが、辻の人生において「浮浪」が1つのキーワードであったようだ。もっとも、「何もしたくない」のが理想なので、その浮浪も自発的ではなく、「静止の不安」に駆り立てられたものであったようだ。とかくダルなのだ。多分一緒にいるとモーレツに疲れる。
その辻がこのエッセイの中で、自身の考える幸福について、自らの考えを述べている。長くなるので、前後半に分けて引用しよう。
一見するとかなりわがままなようにも見える。自由に生きても満たされない。物理的な贅沢も、小説家としての名声でもダメ。では、この人は何を欲しているのか、それがこの後に書かれている。以下が先の続きだ。
一人の女性の全部の愛である。そして、自分もその一人の女性を自分の全部をあげて愛することである。それが出来さえしたら、その他の慾望はなに一ツ充たされないでも、自分は幸福に生き得られると思う。それが出来さえしたら、その他の慾望はなに一ツ充たされないでも、自分は幸福に生き得られると思う。この考えをある友達に打ち明けたらそれは世の中で一番贅沢な要求だそうである。しかし、僕はそのゼイタクを望むのである。それさえ出来れば僕は立ち所に幸福人になり得ると思う。それが満たされない限り、如何にその他の慾望が満たされても、それは決して自分を満足させることは出来ないと思う。僕はかかる異性を求めて、的のない流浪を続けようと思う。
最愛の人の存在、そして、その人から受け取る愛情、自らが与える愛情、これが辻流の幸福であるという。そして、それさえあれば、他は何もいらない。まるで『ロミオとジュリエット』のようだ(なお、読んだことがないので、違うかもしれない)。ただ、この点はある種「真理」を突いているであろう。最愛の人かどうかはともかく、「幸福」には地位も名誉も、物質的な豊かさも「必須」ではない。
となれば、1つの疑問が沸く。本当の意味での幸福を追求していくと、資本主義社会で生産されているモノ・サービスの中には不要に感じられるものが案外多いのではないだろうか?
食べたいものを自由に選べるのも、読みたい本を気軽に読めるのも、動画配信で好きな動画を観るのも、すべては「オプション」に過ぎない。個々人にとっての本質的な意味での幸福が満たされていなければ、これらはある意味幸福を満たしている「フリ」でしかないのではないか。そうとすら思わされる。斎藤の『21世紀の「資本論」』にも通じるところがあるが、私たちは不必要な欲望を生み出し続けている(資本主義によって誘発されている?)のかもしれない。
ただ、あまりにも「グータラ」思考であったからだろうか。結果的にその「ゼイタク」は満たされなかったようだ。なので、本質的な幸福を満たすためにも、辻とは別のアプローチは必要であろう。しかし、マッチョな思考でガンガン頑張りすぎても、過労死や精神疾患、ワカホリック(これはある種の幸福?)なんていうオチが付きまとう。グータラも頑張りも極端になってはいけないのだ。
自分にとって本当の意味での「幸福」とは何なのか?そして、それを実現するためには仕事でクタクタになるまで働き続ける必要が本当にあるのか?案外もっとユルい感覚を重視してもいいのではないか?そう思わせてくれるエッセイであり、人であった。
全体を通して、かなり辻潤を「ディスっている」感じになっているが、この人のエッセイはかなり知的ベースがないと書けないものである。そういう意味では単なる「グータラ」ではなく、「好きこそものの上手なれ」を実践した人ともいえるだろう。
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