見出し画像

読書会より~ブルシット・ジョブについて考える~②

先月の読書会以降、読書会のマガジンにブルシット・ジョブについての記事が増大している。気になるワードだから?自らの業務にその要素があるから?それとも、単に病んでる?ともかく、この流れにもうちょっとだけ悪ノリしてみよう。

①ブルシット・ジョブと「外圧」
グレーバーが著作を書くにあたり、やり取りした相手の中には、業務だけでなく、その会社で行われるボランティア活動にうんざりしているという人々がいた。

ルパートと名乗る人の話だ。その企業(銀行)ではチャリティ週間というものがあるらしい。そこで参加する人たちは「ボランティア」、つまり自発的に活動に参加している人々、のはずなのだが、どうもそうではないようだ。ルパートによると、その活動には関係者(人事部)からの働きかけ、CEOの名によるチャリティー活動への登録を推奨する旨のメール送信といった「圧力」がかけられている。その結果、この活動は自発性のない「ボラントールド」であるというのだ。
※ボラントールド:volunteerとtoldの合成語で、命令された(told)結果、いやいやボランティア(volunteer)活動すること

似たような話は日本国内でもあるだろう。街の清掃や植林活動といったCSR活動を行っている企業は多い。それは「業務」として行っているのだろうか?それとも「ボランティア」として行っているのだろうか?少なくとも、「ボラントールド」、ではないですよね?組織の名を冠するボランティア活動には、先の例のパターンだけでなく、同調圧力に基づいてしまう可能性もある。そもそも、社員に圧力をかけてまで行われるCSR活動に「社会的価値」はあるのだろうか?

②セミナーを通じた「洗脳」
アイリーンという人の話だ。この人が勤める会社ではセミナー活動が活発に行われているらしい。だが、そこでこの人が受けた研修について、少々長いが、本人の印象を引用しよう。

統計操作よりもっと悪いのは、残酷で押しつけがましい「フレキシビリティ」と「マインドフルネス」(中略)にかんするセミナーです。もちろん、労働時間を減らすことはできないよ。給料を上げることはできないよ。ブルシットなプロジェクトを選んで断ることなんてできないよ。でも、このセミナーは参加してね、というわけです。そしてそこで、当行はフレキシビリティをなによりも大切にしております、とたっぷり聞かされるのです。
 マインドフルネス・セミナーはさらに悪質です。そのセミナーでは、人間の経験のもつ測り知れない美しさやとてつもない悲しみを、呼吸とか食べること、排泄することという、なまの身体性に矮小化しようとしてくるのですから。注意深く呼吸しましょう。注意深く食べましょう。注意深く排泄しましょう。そうすればビジネスで成功できますよ、というのです。

『ブルシット・ジョブ クソどうでもいい仕事の理論』
デヴィッド・グレーバー 著 , 酒井 隆史 訳 , 芳賀 達彦 訳 , 森田 和樹 訳より

※この人が行っている業務が、「統計操作」だという。これも腐敗したプロセスの結果を隠すために活動の一環として、統計データを「操作」しているのだそうだ。

また周囲を見渡してみよう。これに似たような研修活動は行われていないだろうか。明確にある、と言える場合もあるだろう。ここでは、1つの逸話からもう少し考えてみよう。「3人のレンガ積み職人」の話だ。労働意欲向上を目指すような研修での定番中の定番だ。結論だけ言えば、3人目の「大きな目標に向かって自分の役割をこなしている」という人になろう、というものだ。これだけ見ればブルシットでも何でもない。だが、その組織の実態と照らし合わせたとき、恐ろしい要素が加わりかねない。本来なら全く意味のないブルシット・ジョブにすら、何らかの意味を見い出させ、意味ある業務にすり替えさせかねないのだ。意味ないものを意味あるかのような感覚を抱かせる要素があるならば、まるで「洗脳」だ。研修担当者がそれに気づいていれば、相当に悪質である。もっとも、教育の類はある種の洗脳の要素を含んでいるので、ブルシット・ジョブとは必ずしも関係ないのだが。とはいえ、研修にもブルシット・ジョブのような要素があるというとなると・・・、問題は根深い。

③まとめ
今回取り上げた内容を振り返ろう。1つは本来自発的な活動のはずのボランティアが「ボラントールド」と化してしまっていること、そして、洗脳ともとれるようなセミナー。これらには上層部の意図したことを意図したように(自発的に)行動してくれる都合の良い人間の生産という要素があるだろう。確かにその方が組織をコントロールしやすい。だが、そこにあるのは、果たして「経営」だろうか。それとも「支配」だろうか。そして、そこにあるのは「チーム」だろうか。それとも、牧羊犬によってまとめられた「羊たち」だろうか。

もし仮に、個々人を「意思ある個人」とし、その意思の集合体としてチームがあると考えるならば、その組織はここで取り上げたようなパターンには陥らないはずだ。その要素が出てくることはあるだろう。だが、個人がその意思を明言できる組織ならば、ブルシット化を食い止められる、もしくはブルシット・ジョブが部分的に存在するのを一時的に容認したとしても、それをなくすための方法を考えるだろう。そして、自らのやるべきことをやりつくした後は、別のやるべきこと、もしくは別の場所へ旅立つ。そういう自由度の高い組織になるのだろう。そして、そのような組織は当然「心理的安全性」もある。心理的安全性、これも近年いくらか流行っている。

ブルシット・ジョブと心理的安全性、チーミングなど、経営組織に関して、様々なバズワードがこの数年出てきている。もしかすると(しなくても)、現代の組織はおかしな方向に進んでいるのかもしれない。方向性が正しいかどうか判断するための判断力を鍛えるにも、様々な視点、様々な意見を自らに取り入れ考えるのが大切だ。
本来こんなこと考えなくてよかったはず。。。文明の高度化は人々の幸福には必ずしも寄与しない。つくづく実感させられる。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?