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読書会より―『一九八四年』①「言葉」の大切さ―

今月も恒例の読書会が開催された。今回はテーマ設定をした上で、各自がそのテーマに沿った本を紹介した。
そのテーマは「自分の好みじゃないけど、読んで良かったと思う本」である。
詳細は毎度のことながら、メンバーのまとめに依存することにしよう…(毎度の他力本願、そして、毎回ありがとうございます)。

このテーマで真っ先に思い浮かんだ本は『一九八四年』であった。ビッグ・ブラザーが指導する“党”の独裁体制下におけるユーラシア(という国)のロンドンを舞台とした物語である。初めて読んだときは、社会の異質さに気分が悪くなり、物語の前半早々に断念した。数年後に再度読んだときは、どれだけ時間がかかっても読了するという考えで読んだ。

一通り読み終えたは良いものの、テレスクリーンによる常時監視体制、言論・思想の徹底した統制が行われる社会の姿、また、それが現代の現実社会においてかなりの程度、技術的に可能であること、そして、ある程度は一般市民の安心を目的としたサービス(例えば、繁華街や電車内の監視カメラ)として積極的に導入していることに対しても、気味悪さを感じたのを覚えている。つまり、迂闊な政治主体が主導権を握ったとき、それを悪用することが可能にもなっているのだ。もちろん、現状はその心配をするほどではないと思うが。

今回、再び紹介するにあたって、改めて読み直した。初めて読んだときは政治システムや監視社会に、特に気持ち悪さを感じた。今回は言動、ここにある気味の悪さ、しかもそれが必ずしも『一九八四年』に示される社会とは無関係に自分たちに関係していることを感じ、そこに背筋が凍る思いがした。それを「言葉」「鵜呑み」そして、「二重思考」の3つのキーワードで整理してみようと思う。

まずは、「言葉」から見ていきたいが、いったん『一九八四年』の舞台であるロンドンで話される言語「ニュースピーク」について確認していこう。

まずは目的から。ニュースピークはオーウェルの解説(附録に掲載)以下の目的を持つとしている。

 ニュースピークの目的はイングソックの信奉者に特有の世界観や心的習慣を表現するための媒体を提供するばかりではなく、イングソック以外の思考様式を不可能にすることでもあった。ひとたびニュースピークが採用され、オールドスピークが忘れ去られてしまえば、そのときこそ、異端の思考――イングソックの諸原理から外れる思考のことである――を、少なくとも思考がことばに依存している限り、文字通り思考不能にできるはずだ、という思惑は働いていたのである。

ジョージ・オーウェル著、高橋和久訳『一九八四年』 角川文庫

イングソックの諸原理から外れる思考を不可能にするのは、主に以下の3つが関係している。

①日常語の徹底的な削減

私たちが日々使う言葉には、意味が重複するもの、対義語が存在するものが多くある。それによって、言語表現のレベルを調整したり、別の言葉に置き換えて解釈したりしている。この発想はニュースピークにはないのだ。

例えば、日本語で体感気温を表す言葉は数多い。「暑い」「暖かい」「涼しい」「寒い」「凍れる」あたりが代表的だろうか。これを「超」や「非」などという表現を用いて、「暖かい」の1語ですべてを表現しようとするのが、ニュースピークの考え方である。つまり、「暑い」は「超暖かい」になるし、「寒い」は「非暖かい」という風になる。

②多義語の削減

例えば、英語の'free'を用いると、感染症への恐怖から逃れることも表現できれば、政治的・思想的な自由を表現することもできる。しかし、『一九八四年』の世界におけるロンドンでは、後者にあたる言葉は存在しない。多義語を徹底的に排除することにより、表現の自由度をゼロに極限まで近づけるのだ。1つの言葉の意味を明確に定義できる利便性がある反面、多くの言葉が持つ曖昧さや遊びの部分は徹底的に削り取られる。よって、いかなる状況を説明しようとするときにも、適切な言葉、適切な文章を選ぶことはできなくなる。快晴でも雲交じりでも「晴れ」という他ないのだ。

③政治体制を崩す発想を「言葉」の段階で削り落とす

物語の世界には思想信条の自由をはじめとする、物事を考える自由の入る余地がない。自由や平等は「犯罪思考(crimethink)」というたった1つの単語にまとめ上げられている。同じようにオールドスピークで物事を考えるときに使われる多くの言葉も「旧思考(oldthink)」という言葉にまとめられる。旧思考という言葉には、邪悪さや堕落のような意味合いが含まれ、政治体制の崩壊をもたらそうとする害ある思考と位置付けられる。「正義」「道徳」「民主主義」など、政治活動と密接に関連する言葉は「犯罪思考」「旧思考」のどちらかにすべてまとめられてしまう。なので、政治体制の問題を指摘しようにも、ニュースピークでは、具体的に何が問題なのかを指摘できない。

①~③の実践により、ニュースピークは語彙が年々減少することになる。本編では人々がニュースピークしか話さなくなる状態に向けた「第11版」の編纂作業が進められている。編纂を終えた暁には、先に示した通り、すべての言葉はイングソックの諸原理に従うことになる。オーウェルはニュースピークの究極的な期待を以下のように記している。

究極的に期待されたのは、明瞭な声に伴われた話が高次頭脳中枢を活動させることなく喉頭から垂れ流されることだった。

ジョージ・オーウェル著、高橋和久訳『一九八四年』 角川文庫

つまり、何も考えない人を生み出すことにより、党の支配体制を絶対化するのが目的なのだ。仮に政治体制に不信を抱いたとしても、③で示した通り、イングソックの諸原理にそぐわない言葉は「犯罪思考」と「旧思考」としか表現できない。よって、政治体制に違和感があっても、それを具体的な言葉にすることが不可能になるのだ。そもそも、その違和感を感じること自体が犯罪思考に該当し、「愛情省(Miniliv)」という名の監獄に連行され、徹底的な“再教育”がなされる(そして、最後には射殺される)ことになる。まったくもってシャレにならない。実世界では一見現実化しないようには見えるし、少なくとも、民主主義が機能するならば、多分そうはならない。

むしろ、現実世界で問題になるのは、「自分たち」で語彙を減らしていくことであろう。以前紹介した五木寛之『元気』には以下のような記述があるので再掲しよう。

ひとつの言葉をいらないと感じることは、その言葉が表現する大事なものも、おなじようにいらないと拒絶することなのです。

五木寛之『元気』幻冬舎文庫

『一九八四年』の世界におけるニュースピークも表現の自由度を最小化することにより、言葉が持つ感情、意識、考え方、その他様々な要素を“党”の支配体制に即したものにする試みである。まさに五木の言う「その言葉が表現する大事なもの」を不要にし続ける先にあるのだ。おそらくそこに語彙を減らす主体は関係ないだろう。

言葉の流行り廃りがあり、それによって使われなくなる言葉が存在することは前提としつつも、1つ1つの言葉が持つ意味合いを大切にしながら使っていかないといけないと感じさせられる。何より、自分たちで言葉を削っていって、ニュースピークみたいになっていったら、こんなアホなことはないのだ。

少なくとも、現代はニュースピークのような言語体系が普及する事態になる見込みはないし、そのような言語を導入しようとする試みがなされる可能性も低いだろう。であれば、自分たちでしっかりと1つ1つの言葉を大切にして使っていく。簡単な言葉には多義性を、難しい言葉には厳格な意味づけをして扱い続けること、それを続けることがニュースピークのような言語体系を回避する唯一の策となるのだろう。

すでにかなり長くなってしまった。「鵜呑み」「二重思考」については次回以降に回そう。

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